その百九十二(姉)
私は磐神美鈴。社会人一年生。
今日は仕事終わりに婚約者の力丸憲太郎君からメールが来た。
「大事な話がある。夕食を摂りながら話したい」
何だろう、大事な話って? あ、もしかして、結婚式の日取り?
この前、弟の武彦から彼女の都坂亜希ちゃんの従兄で通称「お漏らし君」の忍君が結婚すると聞いた。
「おしっこ」が言えずに漏らしていたようなガキが結婚か、などとオバさんチックに考えてしまった。
そして、何となくだが、憲太郎君に催促をしてみた。
「リオを目指すために、本当に早く結婚しようよ。望めるなら、親子で五輪もいいかもよ」
かなり先走った要望もしてみた。
「考えてみるよ」
何故か憲太郎君は顔を赤らめて応じた。どういう事?
ああ! エッチなんだから、憲太郎ったら! ムフ。
その甲斐あって、とうとう決断してくれたのかな?
私は流行る気持ちを抑えて、憲太郎君の待つイタリアンレストランに行った。
「げ……」
するとそこには、憲太郎君だけでなく、何故か身重の沙久弥さんもいた。どゆ事?
「こ、今晩は」
意表を突かれた私は、顔を引きつらせて挨拶をした。
「今晩は、美鈴さん」
沙久弥さんは大きなお腹を愛おしそうに擦りながら言った。
「リオを目指す者の妻同士で、協力したいんだってさ」
憲太郎君はバツが悪そうに説明してくれた。
「ああ、なるほど」
沙久弥さんのご主人である西郷隆さんも、リオを目指す人だ。
「西郷君がロンドン五輪の選考会で勝ち上がれなかったのは、私の栄養管理が行き届いていなかったからだと母に言われたの」
沙久弥さんは何だか悔しそうな顔で言った。そうだ。沙久弥さんて、確かお料理は苦手。そして、お母さんの香弥乃さんはプロ級の腕前なんだっけ。
「ですから、今度は母の指導の下、完璧な栄養管理体制を整えて臨みたいの」
そういう事か。沙久弥さんらしい反応だ。
「それで、どうせしごかれるなら一人より二人の方がいいって事で、美鈴を誘うように言われたんだ」
憲太郎君がネタ晴らしをしたので、沙久弥さんはプウッとほっぺを可愛らしく膨らませて、
「そ、そんな事ないわよ! 勝手な話をしないで、憲太郎」
二人の会話に嫉妬してしまいそうになる。私と武彦の事でヤキモキする亜希ちゃんの気持ちがよくわかった。
「そういう話なら、是非!」
私は沙久弥さんの優しい心遣いに感謝した。
「ありがとう、美鈴さん。今度こそ、男達を五輪に送り出しましょうね」
沙久弥さんは真顔で私の手を握りしめて言った。私は大きく頷き、
「はい、今度こそ!」
それを見て憲太郎君は苦笑いをしていた。あまり引かないでよ、憲太郎。
そして、沙久弥さんが香弥乃さんから渡された五輪出場のための献立を見せてもらった。
女二人で盛り上がる中、憲太郎君は頬杖を突いて退屈そうにしていた。
「それから」
一通り献立の話が終わった時、沙久弥さんが憲太郎君と私を見た。
「何?」
憲太郎君は欠伸を噛み殺しながら応じた。
「はい」
私は居住まいを正した。沙久弥さんは真剣そのものの顔で、
「献立を作るに当たって、二人が一緒に住むというのは無理かしら?」
その言葉に私と憲太郎君は思わず顔を見合わせてしまった。
「何を言い出すのさ、姉貴。そんな急に結婚なんて……」
憲太郎君が言いかけると、沙久弥さんはそれを遮って、
「結婚しろとは言わないわ。少なくとも、生活を一緒にしないと、あの献立を続けるのは難しいと思うの。だから、同居をしたらどうかという事」
「同棲しろって事?」
憲太郎君は目を見開いて尋ねた。私も沙久弥さんを見る。すると沙久弥さんは、
「そういう言い方をするとちょっと語弊があるわね。あなた達は婚約しているのだから、同棲ではなく、結婚生活の予行演習と捉えて欲しいわ」
「言葉を変えただけだよ。まあ、確かにその方が能率もいいし、徹底できるだろうね」
憲太郎君のその言葉に私はキュンとしてしまった。ああ、拒まれていないと。
「美鈴さんはどう思う? 貴女に抵抗があるのなら、別の方法を考える必要があるけど」
沙久弥さんは無理強いをするつもりはないようだ。でも、私の答えは決まっていた。
「憲太郎がいいのなら、私には何も異を唱える事はありません」
あ、今、沙久弥さんの前で初めて「憲太郎」って呼び捨てにした。何だかドキドキしてしまう。
「ちょっと失礼」
その時、憲太郎君の携帯に仕事の電話が入り、席を立った。するとそれを待っていたかのように、
「さっき、美鈴さんが憲太郎の事を呼び捨てにした時、ようやくあの子が私の弟から貴女の婚約者になった気がしたわ」
苦笑いして言う沙久弥さん。私も、
「ありがとうございます、お義姉さん」
苦笑いして返した。
「貴女が武彦君を亜希さんに託す時、今の私の気持ちがわかると思うわ」
沙久弥さんの目に涙が光っているのを見て、私は感動してしまった。
「はい」
そう応じた時、私も泣いていた。
「どうしたの、二人共?」
姉と婚約者が泣き笑いしているので、憲太郎君は驚いてしまったようだ。
そして、ある事に思い至った。
武彦。 私のたった一人の弟。
憲太郎君と二人で暮らすという事は、あいつとは別れて暮らすという事。
あいつが生まれてから旅行とかで何泊か別々になった日はあったけど、何ヶ月、いや、もしかするとそのまま結婚になって、ずっとあいつと別れたままになるかも知れないと思うと、胸を締めつけられる思いがした。
あいつに何て話そうか? 五輪より悩んでしまいそうな弟大好きお姉さんだと改めて気づかされた。