その百八十九
僕は磐神武彦。大学二年。
母の高校時代の同級生で、母が振った(母自身は否定しているけど)日高建史さん。
僕が三歳の時に亡くなった父の親友でもあったので、どんな人なのか興味があった。
会ってみると、想像以上に気さくでいい人で、母も何だか嬉しそうだったので、ちょっとだけ父が可哀想になった。
「日高さんと結婚するかも知れないの?」
不安になった僕はある日の朝、つい母に尋ねてしまった。すると母は笑いながら、
「それは絶対にないわ」
即答だったので、ホッとしたのだが、
「父さんに悪いとか、そういうのじゃなくて、今更結婚なんてするつもりないし。それに、建君、いえ、日高さんは昔の友達だから。あの当時から、恋愛対象じゃなかったのよ」
口ではそう言いながらも、何故か顔は紅潮していたので、また不安になってしまった。
僕は母を見送ってから、キッチンで珍しく洗い物をしている姉に尋ねた。
「姉ちゃんはどう思う? 母さん、日高さんが好きなんじゃないかって思うんだけど?」
すると姉は洗い物を僕に押しつけて、
「そんなはずないでしょ。母さんは父さんだけを愛してるの。あんたの勘繰り過ぎ。そりゃあさ、昔、自分の事を好きだった人が会いたいって言えば、女は嬉しいものよ」
姉はニヤリとして言った。
「そうなんだ。姉ちゃんもそういう経験、あるの?」
僕は興味津々で訊いた。姉は何故か得意満面になり、
「もちろんよ。姉ちゃんが小学校の時からモテモテだったの、あんたも知ってるでしょ?」
何故かウィンク付きで言われた。ちょっと怖い。
小学校の時は、僕を虐めた連中を追いかけ回していたイメージしかないし、中学の時は一緒にならなかったから知らない。
高校に入ってからは、今の婚約者の力丸憲太郎さんと仲が良かったのしか知らない。
姉は美人だけど、モテていたイメージが湧かないのだ。どうしてだろう?
「中学校の同窓会とか、高校の同窓会とか、もう大変なんだから」
妙に嬉しそうに話す姉。只の自慢話にしか聞こえない。
「お酒が入っているのもあるんだろうけどさ、いつも口論ばかりしていたような男子から、『実は磐神の事ずっと好きだったんだ』なんて言われると、憲太郎には悪いんだけど、嬉しいものよ」
今度は顔を赤らめている。変幻自在だな。
「母さんも同じだっていう事?」
僕は疑問に思って切り出した。姉と母は性格が違うと思いたいのだが、最近似ているとわかってきたので、姉の推測通りかも知れないけれど。
「同じだとは言わないけど、母さんだって悪い気はしてないよ、きっと。でも、姉ちゃんと母さんで決定的に違うのは、母さんは結婚して私達を生んでいるし、結婚相手の父さんは亡くなっている。だから、母さんが日高さんと再婚するなんて絶対にないと思うよ」
急に真剣な顔になる姉。僕の不安は一掃された気がした。
「心配するな、武。母さんの父さんに対する愛情は私達が思っているよりずっと深くて強いものだぞ」
姉はそう言って微笑んだ。今年で一番姉が素敵に見えた瞬間だった。
「さてと。遅刻しちゃうから、行くぞ」
姉は僕の頭をクシャクシャにして玄関を飛び出して行った。
小さく溜息を吐いてから、戸締まりを確認して家を出た。
「亜希」
彼女の都坂亜希ちゃんの家の前で亜希ちゃんと合流して駅へと歩き出す。
「どうしたの、武彦? 何だか嬉しそうだけど?」
亜希ちゃんが首を傾げて訊いて来た。僕は苦笑いをして、さっきあった事を話した。
「なるほどね。それは不安かも。おばさん、美人だし、若いし」
亜希ちゃんはニコニコしてそう言った。また不安になりそうだ。
「ウチの両親も、無責任な話なんだけど、『磐神さん、再婚しないのかしら?』なんて話している時ある」
「そうなんだ」
意外だ。亜希ちゃんのご両親が母の再婚を話題するなんて想像もしなかったよ。
「おばさんにその気がなくても、日高さんにはあるかも知れないわね」
亜希ちゃんは顎に手を当て、名探偵のような顔になって言う。
「どうして?」
僕は不思議に思って尋ねた。すると亜希ちゃんは、
「だって、おばさんに一度振られているのに会いたいって言って来たんでしょ? その気があるって考えるのが普通だと思うけど?」
「ああ、そうか」
僕は何となく納得した。
「どっちが早いかな?」
亜希ちゃんが俯いて呟いた。
「え?」
僕は聞こえなかったふりをして顔を寄せる。
「おばさんが再婚するのと、私達が結婚するの……」
そう言いながら顔がどんどん赤くなっていく亜希ちゃん。もうどうしようもなく可愛い。
「もちろん、僕達の方が早いよ」
僕は自信満々で言い切った。亜希ちゃんは顔を上げて僕を見た。
「どうして?」
「だって、母さんの再婚はないから」
何故かニヤリとする亜希ちゃん。何だ?
「ああ、武彦ってば、日高さんに嫉妬してる? もしかして、ちょっとマザコン?」
「ち、違うよ!」
シスコンは認めるけど、マザコンは勘弁して欲しい。
「冗談よ。だから、シスコンも早く卒業してね」
亜希ちゃんはニコッとしてそう言ったが、僕は返事に窮してしまった。ああ……。