その百八十六
僕は磐神武彦。大学二年。
バイトに明け暮れた長い夏休みもとうとう終わった。
また彼女の都坂亜希ちゃんとの通学が始まる。
同じコンビニで働いていた経済学部一年の長須根美歌さんは、大学が始まったらバイトは休業にするそうだ。
「もっと先輩と一緒に働きたかったけど、間島君がヤキモチを妬くので……」
照れ臭そうに言う長須根さん。間島君とは、彼女の交際相手の幼馴染の男子だ。
僕とバイト先が一緒なのを知って、最初は安心していたらしいのだが、男友達に妙な事を吹き込まれたらしく、突然嫉妬し始めたという。
僕相手に嫉妬しなくてもいいと思うんだけど。
僕よりも、同じバイト仲間の神谷さんや他の先輩達の方がずっと危ないと思う。
「学内で会ったら、また気軽に声をかけてよ」
僕は別れ際に長須根さんにそう言った。これくらいいいよね、亜希ちゃん?
「はい、先輩」
長須根さんは嬉しそうに頷いてくれた。やっぱり本当に妹みたいな気がしてしまう。
可愛いの部類が違うと言っても、亜希ちゃんは信じてくれないだろうけど、それは真実だ。
そして、大学の後期が始まって数日経った日の事。
その日は亜希ちゃんと別行動だったので、僕は高校時代の友人達と買い物に出かけた。
服を見たり、趣味のフィギュアを買ったりと、亜希ちゃんと一緒だと行けないところを回る。
別に亜希ちゃんに見せられないような趣味ではないけど、女子ってこういうの理解してくれないからなあ。
「俺、思い切って買っちゃったよ!」
友人の一人が長年の夢だったあるアニメキャラのフィギュアを購入し、感動していた。
そいつはどちらかというと「妹属性」に入る。妹はいないけど。いや、いないから妙な幻想を抱くのか。
「お前、お姉ちゃん子なんだから、こういうの好きだろ?」
そんな事を言われ、お姉さんキャラのフィギュアを見せられたが、全然興味が湧かなかった。
僕の好きなフィギュアは変身特撮ものであって、そういうフィギュアではないのだ。
姉にもそこは誤解されているけど。
「姉キャラは現実だけで十分だよ」
僕がそう言うと、そいつははいはいという顔になる。もう慣れたけどね。
そんな楽しい時間はすぐに過ぎていき、僕らは現地解散してそれぞれ帰路に着いた。
これからデートだという奴もいて、ちょっと羨ましい。
でも、今日は別行動の日だから、何かない限りは亜希ちゃんに連絡しない事にしている。
我慢しているつもりはないけど、ちょっとだけ寂しい。
駅に向かって歩いている時、携帯が鳴った。この着メロは中学の時の同級生。
見るまでもなくわかっていたが、携帯を開くと予想通りそれは須佐昇君からだった。
恋人の櫛名田姫乃さんとの間に子供ができて、今が一番大変な頃だろう。
そう思って連絡していなかったのだけど。何だろう?
「しばらく、須佐君。どうしたの?」
僕が尋ねると、須佐君は、
「世話になった磐神君には報告しておかないといけないと思ってさ」
「え?」
報告? 何だろう? 出産予定日はまだ先だよね? 確か年明けだったと思うんだけど。
「僕達、入籍したんだ。生まれてくる子供のために」
須佐君の声が震えていた。入籍? ええ? って事は、二人は夫婦になったの?
「そ、そうなんだ。おめでとう」
僕は自分の事ではないのにどきどきしてしまい、言葉をうまく喋れなかった。
「ありがとう。これでようやくけじめがつけられたよ。何だかホッとした」
「そうなんだ」
それしか言えない。僕には未経験の話だから。
「磐神君は、将来都坂さんと結婚するんでしょ?」
須佐君がいきなりすごい球を放って来た。僕はそんな事を聞かれると思っていなかったので、
「ええと、その、あの……」
すっかり動転してしまい、返事ができない。すると僕の様子に気づいたらしく、須佐君は、
「ごめん、突然そんな事訊いて。でも、結婚するかどうかはともかく、都坂さんと別れるつもりはないよね?」
須佐君、それも危険球だよと言いたかったが、言えなかった。
「僕は別れるつもりはないよ」
そう言うので精一杯だ。
「だったらさ、早めに籍を入れるといいよ。そうすれば、何があっても大丈夫だし」
「うん……」
それから延々と須佐君に旧姓櫛名田さんとの惚気話を聞かされ、僕は疲れてしまった。
二人は「妊娠」という事態を乗り越えるために入籍したのだろうけど、僕と亜希ちゃんが入籍をする理由がないよ。
でも、すごくご機嫌で楽しそうに語る須佐君にそんな事は言えなかった。
やっと解放され、通話を切った僕は、長い溜息を吐いた。
今日は早く寝よう。そう思ってしまうくらい、精神的なダメージが大きかった。
家に帰ると、今日は休みの姉が居間にいた。
「おう、お帰り。亜希ちゃんと別行動だと早いな」
またしつこく絡んでくる嫌な予感がしたので、
「姉ちゃんの顔が見たくて帰って来たんだよ」
そう言って引かせてやろうと思った。ところが、
「もう、武君たら、可愛い事言ってくれるわね!」
上機嫌で抱きついて来られた。
何だ!? そして突然悪い魔女のような顔になった。
「あんたがそんな事言う時は、何か隠し事があるって相場が決まってるの。さあ。吐きなさい」
すでにサバ折りの態勢。息ができなくなりそうだ。
このままだと本当に締め落とされそうなので、須佐君の事を話した。
「ほう。男だねえ、須佐君」
姉は腕組みをし、大きく頷く。
「もういいでしょ、姉ちゃん」
僕は居間を出ようとしたが、
「ダメダメ。あんたも亜希ちゃんに訊きなさい」
また理不尽全開の命令だ。脱力してしまう。
「ほら!」
姉は勝手に僕の携帯を出して操作し、亜希ちゃんにかけてしまった。
あわわ!
「はい」
亜希ちゃんの澄んだ声が受話口から聞こえた。
「あ、大丈夫、亜希?」
慌てて姉から携帯を奪い取り、尋ねた。
「大丈夫だよ。今、姫ちゃんと別れたところだから」
亜希ちゃんが応じた。
「そうなんだ。だから、須佐君から電話があったのか」
亜希ちゃんも櫛名田さん(旧姓)と会っていたのか。
「じゃあ、亜希も聞いたよね。須佐君達、入籍したって」
「ええ、うん」
あれ? 亜希ちゃんに動揺の気配が感じられる。どうしたんだろうか?
「櫛名田さん、それを話すために亜希と会ったのかな?」
僕は試しに言ってみた。
「そうかもね」
しばらく沈黙。何だろう、ドキドキして来た。
「亜希はどう思う? 僕達も早めに籍を入れた方がいいのかな?」
目の前で無言のまま大騒ぎをしている姉が目障りなので、思い切って切り出した。
理由がないのは亜希ちゃんも同じ事のはずだ。
長い沈黙に耐え切れなくなったのか、姉がまた携帯を強奪した。
「やっほー、亜希ちゃん! 美鈴だよ」
何だ、そのテンション? 理解に苦しむぞ。
「私達が結婚するまでは入籍したらダメだよ、亜希ちゃん。それから、子供も私達より後にしてね」
僕は姉の暴走に仰天し、携帯を奪い返そうとした。
「姉ちゃん、何言ってるんだよ!」
だが、腕力で勝てないのはわかり切っていた。
「亜希ちゃん、自分のペースでいいんだよ。このバカの考えなんて無視してね」
姉はニコニコして亜希ちゃんに言った。
「あ、はい」
「じゃあねえ」
そして、勝手に通話を終えてしまった。
「もう、姉ちゃん、何て事言うのさ!?」
さすがに頭に来たので、姉に抗議した。すると姉は、
「今のは姉ちゃんのお願い。頼んだよ、武君」
いきなり左のほっぺにキスして、ケラケラ笑いながら居間を出て行く姉。
僕は更に疲れてしまった。