その百八十
僕は磐神武彦。大学二年。
同じ大学の経済学部に通う長須根美歌さん。彼女は一年生だ。
亡くなったお兄さんが僕にそっくりだとういう奇妙な縁で友達になった。
僕は彼女の事を本当に妹のように思い始めていた。
長須根さんに会いに行こうと僕の彼女である都坂亜希ちゃんが言い出した。
どうやら亜希ちゃんは、僕の姉への対抗心でそんな事を言い出したようだ。何故か嬉しかった。
僕と姉は、よくある漫画やアニメの設定みたいにおかしな関係ではないけど、亜希ちゃんは姉に嫉妬しているみたいなのだ。
それが僕には非常に心地よかった。亜希ちゃん、ごめん。
僕達がコンビニの近くまで行った時、長須根さんに怪しい男が近づいて、彼女のお尻を触った。
彼女が危ないと思った僕と亜希ちゃんが駆け寄ろうとした時、長須根さんが男を投げ飛ばしていた。
見た目はか弱そうな長須根さんは、合気道を習っていた。
しかも、偶然にもその道場は姉の婚約者である力丸憲太郎さんのお姉さんの西郷沙久弥さんの道場だった。
つくづく世間は狭いと思った。
長須根さんを庇って男との間に立った時、
「磐神先輩、怖かったですう!」
長須根さんに抱きつかれてしまった。そのせいで、彼女のユサユサ揺れるほどのあれがギュウッと僕の身体に当たって来てドキドキした。
亜希ちゃんの冷たい視線も痛かった。たびたびごめん、亜希ちゃん。
そんな事があったため、亜希ちゃんとのデートは延期となり、僕は亜希ちゃんを送って帰宅した。
すると何故か会社から帰っていた姉から、母にお見合いの話が来ていると言われた。
驚いた。母はまだ若いし、すごく美人だから、勤め先でもそんな話が出る事があったらしい。
でも母は、全部丁重に断わっていたそうだ。
そういう話は僕の耳には一切入って来なかった。
全部姉が止めていたのだ。
やがて夜になり、母が帰宅した。
姉は玄関に行くなり、叔父さん(母の弟)からお見合いの話があった事を告げた。
母は特別な反応は見せず、
「豊はまだそんな事を……」
ため息を一つ吐くと、自分の部屋に行ってしまった。
姉は僕を見た。
「お前はもちろん反対だよな、武彦?」
有無を言わせない迫力満点の目で睨んでそう言われたら、
「もちろんだよ」
その言葉しか言ってはいけないと長年の付き合いからすぐにわかる。
「母さんが望むなら反対はしないけど、そうでないなら、絶対に反対だよ、姉ちゃんも」
姉は何故か僕の頭を軽く殴り、階段を上がって行ってしまった。何なんだよ、全く……。
しばらくして夕食の時間になった。
食事中は何も言わなかった姉だったが、終わった途端に口を開いた。
「母さんはどうなの? 再婚とか考えた事あるの?」
母は食器を片づけようと立ち上がったところだったが、姉の言葉に動きを止め、椅子に戻った。
「あなた達はどうなの? 母さんが再婚してもいい?」
母は姉と僕を順番に見て尋ね返して来た。
「私は嫌よ。何があっても、私の父親は父さんだけ。他の誰にも代わりは務まらないわ」
姉は母を真っ直ぐ見て言った。
「武彦は?」
母が僕を見る。それに続いて姉も僕を見る。僕の応えも決まっている。
「僕も姉ちゃんと同じだよ。父さんは一人だけだから」
僕がそう言うと、姉は嬉しそうに僕の頭を撫でた。母は目を潤ませている。
「二人のその話を聞いて、父さん、きっと大喜びしているわ」
「うん……」
姉まで涙ぐんだ。それを見て僕も目頭が熱くなるのを感じる。
「母さんもそうなんでしょ? 父さんだけよね?」
姉が涙を零しながら尋ねる。母は泣き笑いして、
「もちろんよ。父さん以外にいないわよ」
もうそこからは親子三人で号泣してしまった。
僕らをここまで泣かせた叔父さんに一言言ってやりたくなって来た。
そんな感動的な事があった次の日の朝。
今日は珍しく母と姉とが休日。滅多にない機会なので、二人で買い物に出かけるらしい。
僕は朝からバイトが入っているので、いつも通りだ。
母と姉が楽しそうに居間で話していると、玄関のドアフォンが鳴った。
また八時前。こんなに朝早く一体誰だろう?
亜希ちゃんなら電話をよこしてから来るだろうし、町内会の連絡ならもう少し遅いはずだ。
「誰かしら?」
母は首を傾げながら玄関に行った。
姉と僕も顔を見合わせ、母に続いた。
母はドアのロックを解除し、チェーンはかけたままで押し開いた。
「姉さん、朝早くすまない」
そこには白髪まじりの頭でグレーのスーツ姿の男の人が立っていた。誰? 今母の事を「姉さん」て呼んだぞ。
という事は……。
「豊……。一体どうしたの、いきなり?」
母は僕達をチラッと見てから叔父さんと思われる人に尋ねた。
「本当はもう少し時間をかけて進めようと思ったんだけどさ……」
母はため息を吐き、ドアチェーンを外すと叔父さんを中に入れた。
姉は不満そうだが、祖父と母との間を取り持ってくれた人なので、あまり露骨に嫌な顔はできないようだ。
「連絡もなしでいきなり来たら、誰もいないかも知れないでしょ?」
母は恐縮してソファに腰を下ろした叔父さんをやんわりと非難した。叔父さんは苦笑いして、
「姉さんの勤め先に連絡して、今日は休みだって確認したんだ」
「随分と用意周到ね、豊。何を企んでいるの?」
母は目を細めて叔父さんを見て、お茶を出した。叔父さんは頭を掻きながら、
「何も企んじゃいないって、姉さん。只先方さんがさ……」
「先方さんて誰? 私の知っている人?」
母の目が鋭くなった気がした。叔父さんが明らかに狼狽えているのがわかる。
何だか将来の僕と姉を見ているようで笑えない。
「ああ、知っている人だよ」
叔父さんは笑うのをやめて真顔で応じた。母も何かを悟ったのか、目を見開いた。
「まさか……」
僕は母の反応が不思議だったので、また姉と顔を見合わせてしまった。
「姉さんの想像通りだよ。先方さんは日高建史さんだよ」
叔父さんがその名前を口にした時の母の驚いた顔は多分一生忘れられないかも知れない。