その百七十七
僕は磐神武彦。大学二年。
僕がバイトしているコンビニに意外な人がやって来た。
同じ大学の経済学部に通う長須根美歌さん。彼女は一年生だ。
彼女とは亡くなったお兄さんが僕にそっくりだという奇妙な縁で友人になった。
誤解をされたくないと思い、僕はバイトの休憩時間にすぐに彼女の都坂亜希ちゃんにメールで知らせた。
『私の事がそんなに怖いの?』
それが亜希ちゃんの返信メールのタイトルだった。
ギクッとした僕は本文も読まずに慌てて亜希ちゃんに電話した。
「はい」
亜希ちゃんは電話に出るなりクスクス笑っている。
「え、あの……」
何が何だかわからない僕は言葉に詰まってしまった。
「武彦より先に長須根さんからメールがあったの。磐神先輩と偶然同じバイト先になってしまいましたって」
亜希ちゃんは笑いながら種明かしをしてくれた。僕は心臓が壊れるんじゃないかというくらいドキドキした。
「長須根さん、武彦がいてくれて続けられそうだって書いていたから、助けてあげてね」
「あ、うん……」
僕は亜希ちゃんからそんな事を言われるとは思わなかったので、声のトーンがおかしくなってしまった。
「それから、武彦って、そんなに私の事が怖いの?」
急に亜希ちゃんが真面目な調子で尋ねて来た。また心臓が壊れそうだ。
「そ、そんな事ないよ」
嫌な汗を背中にタップリ掻きながらまた妙な声で返事をした。
「そう?」
亜希ちゃんは疑うような口調だ。
「そうだよ。怖くなんてないよ」
そう言いながら声が震えてしまうのは何故だろう?
「だったら、いちいちこれくらいの事を私にメールで伝えなくてもいいと思うんだけど?」
亜希ちゃんの声がますます危険度が高い雰囲気になって来た。
「でもさ、誤解をされたくないから……」
僕は慌てて言い繕おうとした。
「だから、それは私と会った時でいいでしょ? 何だか、すごく私がヤキモチ焼きみたいで嫌なの」
亜希ちゃんはやや被せ気味に言って来た。確かにそうかも知れない。
「ごめん」
そこまで亜希ちゃんの気持ちに思い至れなかった自分に気づき、謝った。すると亜希ちゃんは、
「私こそ、ごめん。別に武彦に謝って欲しかった訳じゃないの。私達、付き合っているんだし、お互いの事を信頼しているんだから、そこまで気を遣わないで欲しいの」
「うん」
亜希ちゃんこそ気遣いし過ぎだと思う。僕はこれが普通なんだよな。あの姉と暮らしてきたせいで。
防衛本能が人一倍強いんだと思う。
「何があっても、僕が好きなのは亜希だけだよ」
「私も武彦だけが好きよ」
お互い面と向かってはとても言えないような事を電話だと言える。
また絆が強まった気がして、とても嬉しかった。
そして、その日は気持ち良く仕事ができ、長須根さんにもきちんと教えられた気がした。
「先輩、ありがとうございました」
長須根さんは五時で上がり、そこからは店長と僕と一年先輩の神谷さんの三人になった。
「長須根さん、彼氏とかいるのかなあ」
神谷さんが呟く。貴方にも彼女がいるでしょ、神谷さん。
「いますよ。僕、この前会いましたから」
「へえ、そうなんだ」
神谷さん、あからさまにがっかりしている。どういう人なのだろう?
「でも、でっかいよねえ、長須根さんて」
神谷さんは鼻の下を伸ばして言う。何がですかとボケをかますほど、僕も子供ではない。
確かに長須根さんの胸は、あの巨乳が自慢の長石姫子さんも降参したほどだ。
亜希ちゃんもそれに拘っていたし。
おっとりした口調と性格であの巨乳は、確かに凄い「武器」なのかも知れない。
神谷さんが長須根さんの事ばかり言っていたので、その日はいつもより早く仕事が終わった気がした。
着替えをすませ、店を出て駅に向かう。
ふと気づくと、長須根さんと働ける事に喜びを感じている自分がいた。
でもそれは決して彼女に恋愛感情を抱いているからではない事は断言できる。
長須根さんといると、癒されるのだ。
多分あのおっとりした喋り方と独特のイントネーションのせいだろう。
素直なのも好感が持てるし。
ああ、やっぱり亜希ちゃんが怒りそうだから、それ以上長須根さんの事を考えるのはやめておこう。
「只今」
玄関の鍵がまだ開いていたので、姉が起きているとわかった。
明日が早番の母はもう寝ているはずだから。
「武!」
玄関に入ると、物凄い形相の姉がキッチンから飛び出して来た。
「な、何、姉ちゃん?」
姉に怒られるのかと思ったが、
「無事だな、襲われなかったな」
妙な事を言われた。
「実はな……」
姉の話だと、会社の先輩である御真津可恵さんがコンビニに行ったらしいのだ。
「ええ!?」
僕はギクッとした。御真津さんは僕を狙っているという噂の女性で、姉がくれぐれも気をつけろと言ったほどなのだ。
「まだお前の事を諦めた訳じゃないみたいだから、気を抜くなよ」
姉が真剣な表情で言うので、ますます怖くなった。
「それよりな」
話が終わったと思い、部屋に行こうとした僕の襟首を姉が掴んで引き戻した。
「な、何?」
僕はまたしても心臓が壊れそうになった。姉が今度は怒っているみたいだからだ。
「御真津さんが行動に出なかった理由が気になるんだよ。お前が彼女らしき人と一緒にいたからって聞いたぞ」
姉はまるで真犯人を追いつめた刑事のような目で僕を睨む。
「え?」
美真津さんに長須根さんと一緒にいるところを見られたのだとわかった。
「亜希ちゃんがいつから一緒にバイトしているのか教えてくれる、武君?」
姉は暗殺者のようにニヤリとし、僕の胸ぐらを掴んだ。しかも全く似ていない亜希ちゃんの物真似付きで。
僕は深呼吸して事情を説明した。姉の顔がだんだんバツが悪くなっていくのがわかる。
「あはは、それが例の経済学部の巨乳ちゃんか」
姉は笑って誤魔化そうとするのが丸わかりなくらいわざとらしかった。
「彼女は亜希ちゃんにメールしているから、亜希ちゃんに訊いてもらってもいいよ、姉ちゃん」
僕は少し勝ち誇って言ってみた。
「姉ちゃんが悪かったよお、武君。御真津さんの言う事を真に受けたのは反省」
姉は結局落語家のようにテヘッと額を叩いてキッチンに行ってしまった。全く……。
まあ、誤解が解けて良かったと思う事にしよう。
それにしても、御真津さん、まだ諦めていないなんて……。僕って女難の相が出ているのかな?
心配だ。