その百七十六
僕は磐神武彦。大学二年。
中学時代の同級生の須佐昇君が付き合っている同じく中学時代の同級生の櫛名田姫乃さんが妊娠した。
僕は寿命が縮む思いで彼のお父さんと会い、須佐君を怒らない欲しいとお願いするつもりだったが、須佐君のお父さんは厳しいながらも優しい人で、彼を怒鳴りつけたりしなかった。
その後、須佐君はお父さんと二人で櫛名田家にお詫びに行ったのだが、逆に櫛名田さんのお父さんに、
「不束な娘ですが、よろしくお願いします」
と言われたらしい。
僕は彼女の都坂亜希ちゃんから聞いて知っていたので、何となく想像がついたが、須佐君は殴られるのを覚悟でお父さんの車に絆創膏やら包帯やらを積んで行った。
そこまでの覚悟をして行きながら、あっさりと「娘をよろしく」と言われて、ホッとすると同時に心配になったという。
「どっきりだと思ったよ、最初」
須佐君はしばらく信じられず、唖然としていたのだそうだが、櫛名田さんのお母さんが事情を説明してくれたので、ようやくどっきりではないと理解した。
どっきりと言えば、亜希ちゃんに告白された時、僕もそう思ったのを思い出した。
亜希ちゃんには絶対に言えないけど。
「今からバイトか?」
玄関で靴を履いていると、営業の途中で家に立ち寄った姉に訊かれた。
「今日は遅番なんだ」
玄関を出ようとして立ち止まった。
「姉ちゃん、まさか先輩さん、一緒じゃないよね?」
僕は姉の勤める会社の人に狙われている。命をとられる訳じゃないけど。
最近は駅で遭遇したりしなくなったので、すっかり忘れていたが、姉がスーツ姿なのを見て急に思い出したのだ。
「いないよ。姉ちゃんもようやく一人で営業回れるようになったんだ」
何故かドヤ顔の姉。僕はハッと思いつき、
「美鈴もすっかり社会人の顔になったな」
亡くなった父の声真似で姉を誉めてみた。
「久しぶりに父さんに会えた気がした!」
姉は予想以上に喜んでくれ、ギュウッと抱きしめられた。例の柔らかいあれが当たる。
「ありがとうな、武」
涙ぐんでお礼を言われ、何だか申し訳ない気がしてしまった。
「じゃあ、行って来るね」
僕は姉が嬉しそうに見ているので恥ずかしくなって玄関を出た。
「行ってらっしゃい」
まるで新婚さんみたいに手を振られて送り出され、余計気まずかった。
亜希ちゃんに見られたら気を揉まれるから、やめて欲しいよ、全く。
以前、一度だけ亜希ちゃんをバイト先に連れて行ったら、予想以上に好反応で、返ってもう連れて行けないと思った。
「また武彦のバイトしてるコンビニに行きたいな」
たまに亜希ちゃんにそう言われるけど、うまく誤魔化している。
そう言えば、今日から新しいバイトの人が入るんだっけ。
先輩方がとても嬉しそうだったので、多分女性。しかも若い子だろう。
皆さん全員彼女がいるはずなのに、女子が入るとなると喜ぶ。
「それとこれとは別だからさ」
声を揃えてそう言う。それを彼女の前でも言えるのだろうか?
あれほど嬉しそうなのだから、きっと可愛い子なのだろう。
僕はそういう感情は一切ないけど、今まで同僚が全員男だったから、職場が癒されるかも知れない。
ああ、ごめん、亜希ちゃん、決してそういうつもりでは……。
つい、心の中でも言い訳をしてしまう。
「お疲れ様です」
僕は事務所のドアを開いて中に入った。
「おう、磐神君、お疲れ。新しい子もさっき来たところで、今店長に説明を受けているよ」
一年先輩の神谷伊都男さんが教えてくれた。
「そこへ店長がやって来た。
「磐神君、お疲れ様。今ちょうど今日からシフトに入る子に説明していたところなんだ。紹介するよ」
店長がニコニコしながら後ろについて来た女性を事務所に通した。
店長、紹介してもらわなくても、その子、知ってます。僕は嫌な汗が出そうになった。
「ああ、磐神先輩、お久しぶりです」
特徴のあるイントネーションでそう言ったのは、同じ大学の経済学部に通う長須根美歌さんだった。
「あれ、長須根さん、磐神君と知り合い?」
店長が意外そうな顔で尋ねる。すると長須根さんは嬉しそうに店長を見て、
「はい。同じ大学です」
と応じた。
「そうかそうか、なら細かい内容は磐神君に訊くといい。それは良かった」
店長は微笑んで僕と長須根さんを見比べている。大学名は履歴書に書いてあるのに、気づかなかったのかな?
「よろしくお願いします、磐神先輩」
長須根さんは笑顔全開で頭を下げた。その時、彼女の胸がユサユサ揺れるのを久しぶりに見た。
神谷さんは目を見開き、食い入るようにそれを見ていた。
「う、うん、よろしくね」
亜希ちゃんにすぐに報告しないと、また誤解されそうだ。
休憩時間に取り敢えずメールしよう。
僕は商品の配列の仕方などの説明をしながら、いろいろと話をした。
長須根さんは最初は田舎に帰るつもりだったらしいのだが、この前会った間島誠君が残ると知り、急遽バイトをする事にしたのだそうだ。
「間島君、直前まで教えてくれなくて、酷いんですよ」
付き合っていないと言いながら、その話の内容はどう考えても恋人同士のものだ。
「一緒に住んでるんじゃないよね?」
僕は軽い冗談のつもりでそう尋ねたのだが、
「そ、そんなふしだらな事、するはずないじゃないですか! それに間島君とはそういう関係ではなくて、只の幼馴染みで……」
長須根さんがあまりにも動揺し、顔を赤くしたので、
「ご、ごめん、長須根さん」
僕も慌ててしまった。
こんな純情な子、珍しいのかも。
長須根さんの亡くなったお兄さんが僕によく似ているという縁で、彼女とは友人になったのだが、もし僕が本当に彼女のお兄さんなら、心配で東京でバイトなんかさせられない。
これほど純情だと、悪い奴にすぐに騙されてしまいそうだし。
「でも、兄ちゃにそっくりな磐神先輩にはホントの事言いますね」
モジモジしながら、長須根さんが言う。
「間島君とは結婚を前提に付き合っています。遊びで付き合ってるんじゃないです」
「そ、そうなんだ」
申し訳ないな、そこまで教えてもらったりすると。
でも、本当にいい子なのはよくわかった。
「これからバイト、頑張ろうね、長須根さん」
「はい、先輩」
長須根さんは大きく頷いてくれた。
僕は彼女が自分の本当の妹のような気がして来た。
守ってあげたいと。
そんな僕達の事を見ていた人がいたなんて、その時は思いもしなかったんだけど。