その百七十五(亜希)
私は都坂亜希。大学二年。
今、私は人生始まって以来の緊張感に包まれている。
高校受験でも、大学受験でも、ここまで緊張はしなかった。
中学の時の同級生で、それ以来の親友でもある櫛名田姫乃ちゃんが妊娠した。
相手は同じく中学の時の同級生で、現在東大生の須佐昇君。
姫ちゃんは須佐君に絶対産むと言ったらしい。
そして、お母さんには話したけれど、お父さんにはまだ話していないと言われた。
そこで私が付き添いを買って出た。
姫ちゃんのお父さんは普段は穏やかな人だが、ひとたび怒ると物凄く怖いのは中学の時から知っている。
姫ちゃんは女の子なのにも関わらず、殴られた事があるそうだ。
私の父はそれを知り、姫ちゃんのお父さんを窘めようとしたほどだ。
もちろん、私と母で止めたけど。
私の彼の磐神武彦君は、須佐君に付き添い、彼のお父さんと話をした。
それも私が余計な事を言ったせいで。
責任を感じた私は、彼からの報告の電話があった時、謝罪した。
「気にしないで、亜希。これくらいしないと、須佐君に申し訳ないから。それに僕は別に何もしてないし……」
優しい武君はそう言ってくれた。だから大好き(きゃああ!)。
その日の夜、私は武君との電話を終え、意を決して姫ちゃんの家に行った。
今日はお父さんはお休みで、まだ趣味の囲碁将棋クラブから帰っていないという。
それにしても、渋い趣味だ。
「何かドキドキして来た」
居間のソファに並んで座っている姫ちゃんはさっきから落ち着きがない。
それを聞いて私もドキドキして来てしまう。
「貴女がそんなにソワソワしたら、亜希ちゃんが不安になるでしょ、姫乃。もう少しおとなしくしていられないの?」
向かいのソファに座っている姫ちゃんのお母さんは微笑んで言った。お母さんは姫ちゃんが将来こういう顔になるのだろうな、というくらいよく似ている。
「亜希だって、亜希のお母さんにそっくりだよ」
以前姫ちゃんにそう言われた事があるが、姫ちゃんのお母さんと姫ちゃんほどは似ていないと思う。
「お母さんこそ、私より長くお父さんと付き合いがあるのに、どうしてそんな風に笑っていられるのよ! もう!」
事態を面白がっていると思ったのか、姫ちゃんはニコニコしているお母さんに八つ当たりした。
「そういうところはお父さんに似たのね、姫乃は。すぐに癇癪を起こすんだから。昇君に嫌われるわよ、そんなだと」
お母さんは姫ちゃんがイライラしているのを感じていないような事を言い出す。
「の、昇は関係ないでしょ!」
姫ちゃんは須佐君の名前を出されて頬を紅潮させた。
姫ちゃんが怒るのも無理はないのだけれど、お母さんの落ち着きようには何か理由があるのかも知れない。
何となくだが、そう思った。
その時、玄関のドアが開く音がした。姫ちゃんの顔が引きつる。私もビクッとしてしまった。
「只今」
私が来る事を伝えていなかったのか、家族以外が居間にいるのを知り、お父さんは一瞬だが驚いた表情になった。
「や、やあ、亜希ちゃん。しばらくだったね。今日はどうしたんだい?」
お父さんは私だとわかるとニコニコしながら向かいのソファにお母さんと並んで座った。
「ええと、あのですね……」
さすがに私から切り出すのは気が咎めたので、姫ちゃんを見た。姫ちゃんは私の視線を感じてビクンとした。
「今日はね、姫乃が貴方に大事な話があるんですって」
お母さんは相変わらずの笑顔でさらりと言った。姫ちゃんが更に顔を引きつらせたのがわかった。
「姫ちゃん」
私は少しでも姫ちゃんが落ち着けるようにと思い、彼女の手を握ってあげた。
「亜希、ありがとう」
姫ちゃんは呼吸を整えてからそう言ってくれた。そしてお父さんに向き直る。
「お父さん、怒らないで聞いてね」
姫ちゃんは予防線を張った。慎重だ。ところが何故かお母さんはクスクス笑っている。
「怒るかも知れないような話なのか?」
お父さんはお母さんをチラッと見てから姫ちゃんに視線を戻す。
姫ちゃんは唾を飲み込み、私を見た。私は只頷く事しかできない。姫ちゃんも頷き返して、お父さんを見る。
「私、子供ができた」
姫ちゃんはそう言うと両腕で頭を庇う仕草をした。
「え?」
しかし、お父さんはびっくりしたような顔で姫ちゃんを見ているだけで、怒り出す様子はない。
隣のお母さんはまだ笑っている。
「今何て言ったんだ、姫乃?」
お父さんは腫れ物に触るような表情で姫ちゃんに尋ねた。姫ちゃんはゆっくりと顔を上げて、お父さんが殴りかかって来ないのを知り、キョトンとしていた。
「姫乃は妊娠したの。相手は須佐昇君。この前挨拶に来た姫乃の中学の時からの同級生よ」
お母さんが会話がままならなくなっている姫ちゃんとお父さんの間に入って告げた。
「そ、そうなのか。そうか、そうか。姫乃もお母さんになるのか。それはめでたい」
お父さんは無理に笑っているのが丸わかりの状態でそのまま居間を出て行ってしまった。
姫ちゃんはしばらく呆然としていたが、こと無きを得たのを理解したのか、ソファに沈み込んだ。
「どういう事? どうしてお父さん、怒らないの?」
姫ちゃんは混乱しているようだ。私にも理由がわからない。
するとクスクス笑い続けていたお母さんがようやく、
「お父さんとお母さんね、実は今で言う出来婚なの」
「ええ!?」
私と姫ちゃんは互いに顔を見合わせてからお母さんを見て叫んでしまった。
「姫乃達と同じく、学生の時に妊娠してしまったの。あの時は本当に大変だったわ」
お母さんは少しも大変そうに見えない笑顔で話す。
「今ほど結婚前の妊娠が認知されていなかったから、一時はもう大学を中退して結婚しなさいってなったんだけど、私の父が『学生の本分は勉強だ。籍は入れるにしても、卒業はしなさい』って言ってくれたので、何とか収まりがついたの」
姫ちゃんは厳格で真面目なお父さんの別の顔と自分の出生の秘密を同時に知り、仰天していた。
私もだったけど。
こうして、急転直下で一応の解決をみた姫ちゃんの件は混乱する事なく話が進みそうでホッとした。
それにしても、「歴史は繰り返す」にこれほど身近で遭遇するとは思わなかった。
姫ちゃんの家を出て、私は早速武君の携帯に連絡した。
「やっほーい、亜希ちゃん」
何故か美鈴さんが出た。かけ間違えたと思ったのだが、携帯の画面には武君の名前が出ている。
「ええと、あの……」
私が混乱しているのに気づいたのか、
「ああ、ごめん、亜希ちゃん。武のバカ、間が悪い事に今お風呂なの」
「あ、そ、そうですか」
また二人でいちゃついているのかと変な妄想をしそうになった自分が恥ずかしい。
「で、どうだったの、櫛名田家は? 惨劇が起こった?」
妙に嬉しそうに訊く美鈴さんに私は苦笑いして、事の顛末を説明した。
「そうなんだ。ホッとしたような、残念のような……」
美鈴さん、面白がっていますね? そう訊きたいけど、訊けない。
「まあ、大変な事にならなくて何よりだったね。武がお風呂出たらかけさせるね」
「はい、ありがとうございます」
相変わらず押しが強い美鈴さん。そんな可能性はないと思うけど、同居はきついかな?
でも、姫ちゃんを見ていて、何だか羨ましかった。
私もすぐに子供がほしいとは思わないけど、母親になるって凄い事だと思った。
その前に、私と武君て、キスより先に進んでいないんだよね。
まあ、いっか。