その百七十四
僕は磐神武彦。大学二年。
中学の時の同級生である須佐昇君に相談を受けた。
その相談内容は、同じく中学の時の同級生の櫛名田姫乃さんが妊娠したというものだった。
衝撃的だった。
確かに櫛名田さんは中学の時からませた子だった。
そして、高校生の時、驚くくらい積極的に僕にアプローチして来た事もあった。
更に、須佐君と付き合うようになって、沖縄に泊まりで旅行に出かけ、初体験もすませたと聞いた。
それでも、妊娠には驚いた。
櫛名田さんは絶対に産むと言っているという。
僕も、産まれて来る子供には罪はないのだから、産んで欲しいと思う。
でも、事はそう単純ではないのだ。
櫛名田さんも須佐君も、まだ大学生。
収入はない。二人共アルバイトはしていたようだけど、それでも子供を養える状況にはない。
結局のところ、親に相談するしか道はないのである。
亜希ちゃんと話した時、
「武彦が付き添ってあげれば」
と言われ、心臓が壊れそうになった。
寝る直前、姉と顔を合わせた時、
「亜希ちゃんから聞いたぞ。須佐君にはお世話になったんだから、付き添うくらいしないとダメだぞ」
念を押されてしまった。亜希ちゃん、姉ちゃんに話さないでよ……。泣きそうだ。
でも、姉の言う通りだ。彼には恩がある。それに報いるチャンスかも知れない。
僕は意を決して、須佐君に電話した。
「須佐君、お父さんに話す時、僕が付き添うよ」
「ありがとう、磐神君」
須佐君は泣いていたようだった。そこまで感激されると、もう後には引けない。
翌日。須佐君のお父さんが出張から帰って来る。出張先から直接帰るから、夕方には家に着くらしい。
僕は須佐君の家に行き、お母さんに挨拶して事情を説明した。
考えてみると、中学時代、一度も須佐君の家には来た事がない。
彼とはそれほど話した事はなかったからだ。
僕と違って彼は虐められたりはしなかったが、頭が良過ぎて敬遠されていたような気がする。
無視とは違うけど、遊びの仲間やお喋りの輪に入っていなかった。
そんな時、幼馴染みの櫛名田さんだけがいろいろ理由をつけて須佐君と話していた。
亜希ちゃんと共にクラスのまとめ役でもあった櫛名田さんが須佐君を気遣うので、彼は仲間外れにはされなかった。
男子達のほとんどが、彼女に気があったから、嫌われたくなかったのだ。
おおらかで明るい櫛名田さんは、ちょっと真面目過ぎる亜希ちゃんより人気があったかも知れない。
ごめん、亜希ちゃん……。亜希ちゃんの方がずっと可愛かったと思うよ。
それほど強固な間柄の二人なのだから、お父さんにも認めてもらって、力になって欲しいのだ。
「どうぞ」
須佐君の部屋に通され、お父さんが帰るのを待つ事にした。
「へえ……」
僕は須佐君の部屋の中にある意外なものに驚いた。
漫画の単行本がぎっしり詰まった本棚があったのだ。
「驚いたなあ。須佐君、漫画読むんだ」
棚を上から下まで見ながら言った。すると須佐君は苦笑いして、
「東大に不合格だったら、全部焼却処分にするって親父に言われて、必死だったよ。これは僕の宝物だから」
それを聞いて、以前よりずっと彼を身近に感じた。
漫画の話で盛り上がっていると、玄関で声がした。
「帰って来た……」
さっきまで楽しそうだった須佐君の顔が引きつっている。僕も緊張して来た。
「行こうか」
震え出した須佐君を促した。彼は小さく頷くと、部屋を出た。僕はそれに続いた。
階下に降りていくと、お母さんが何か告げたのか、お父さんは居間のソファに着替えずにスーツのままで座っていた。
「お邪魔しています。中学の時の同級生の磐神武彦です」
僕はお父さんに挨拶した。
「おお、磐神君か。久しぶりだね。とは言っても、覚えていないか」
お父さんは微笑んでそう言った。
お父さんは中学校のPTAの役員で、幾度となく学校に来ていたのだそうだ。
僕は珍しい名字なので、印象が強かったらしい。
「母さんから、お前が父さんに話があると聞いた。何だ、昇?」
お父さんは向かいのソファに僕と並んで座る須佐君を見ながら尋ねた。
須佐君の顔色が更に悪くなる。心配になったのか、お母さんも居間に入って来た。
「姫乃さんと付き合っているのは言ったよね」
須佐君は絞り出すように声を発した。
「ああ、それは聞いている。順調なのか?」
お父さんはまだ微笑んでいる。話の核心に触れても、まだ微笑んでいてくれるだろうか?
「うん、お陰様で、喧嘩も少ないし、うまく付き合っているよ」
須佐君はまだ顔が引きつっている。お父さんも彼の様子がおかしいのに気づいたようだ。
「どうした、昇? 顏色が悪いぞ」
お父さんが怪訝そうな顔で須佐君を見る。まずいかな。
「姫乃さんが妊娠したんだ」
須佐君は顔を下に向けて、まさしく蚊の鳴くような声で告げた。
「え?」
お父さんには聞き取れなかったようだ。
「お前、今何て言った?」
お父さんは目を見開いている。いや、聞こえなかったんじゃない。聞き間違いだと思ったのだ。信じられないのだ。
「姫乃さんを妊娠させてしまったんだ!」
須佐君はあらん限りの声で言うと、床に土下座した。
「ごめん、父さん、僕、とんでもない事を……」
須佐君は震えていた。
「貴方、昇を叱らないで……」
お母さんが二人の間に入った。お父さんはキッとして立ち上がり、お母さんを見た。
「お前は知っていたのか?」
「昨日聞きました」
お母さんはすでに涙ぐんでいる。お父さんは僕を見た。
「だから磐神君が来ているのか、昇?」
さっきまでと違い、お父さんの声は低くて怖い。須佐君はハッとして顔を上げた。
「そうだよ。僕、意気地がなくて、一人では父さんに話ができないから、磐神君に付き添ってもらったんだ」
「そうか」
お父さんは力が抜けたようにソファに座った。
「父さん?」
須佐君はまだ震えていたが、お父さんの反応に戸惑っているみたいだ。
「謝る相手が違うだろう、昇? 私ではなくて、姫乃さんのお父さんとお母さんに謝るんだろう?」
お父さんは優しい顔に戻り、須佐君の肩をポンと叩いた。
「私も一緒にお詫びに行くよ」
「父さん……」
須佐君はワッと泣き出して、お父さんに縋り付いた。お母さんも涙を流していた。
僕ももらい泣きしそうだ。とにかく、お父さんが怒り出さなくてホッとした。
こうして、何とか第一段階はクリアした。
僕は須佐君の家を出ると、早速亜希ちゃんに連絡した。
「ごめん、武彦、私のせいで……」
須佐君の家に行った事を告げたら、亜希ちゃんにいきなり謝られた。
「気にしないで、亜希。これくらいしないと、須佐君に申し訳ないから。それに僕は別に何もしてないし……」
「ありがとう、武彦」
亜希ちゃんは嬉しそうだ。
「私もこれから姫ちゃんの家に行くの。ドキドキして来た……」
亜希ちゃんは不安そうだ。
「大丈夫だよ。相手は櫛名田さんのお父さんなんだから。話せばわかってくれるって」
亜希ちゃんを落ち着かせるためにそう言ったのだが、事態は意外な展開を見せる事になるとは、僕も亜希ちゃんもその時は思いもしなかった。