その百七十三(亜希)
私は都坂亜希。大学二年。
幼馴染みの磐神武彦君とはとても順調。
自分で言うのもおかしいけど、とてもラブラブ(きゃああ!)。
今日は久しぶりに武君と別行動日。
中学時代の同級生で親友の櫛名田姫乃ちゃんから連絡があり、会う事になった。
武君も姫乃ちゃんとお付き合いしている須佐昇君と会う事になっているらしい。
偶然にしてはでき過ぎていると思ったら、その理由が姫ちゃんに会ってわかった。
私達は、いつものファミレスで落ち合った。
別の場所で会いたかったのだけど、姫ちゃんに事情があるみたいで、遠くにはいけないのだそうだ。
「久しぶりね、姫ちゃん」
私は先に来ていた姫ちゃんに近づきながら手を振った。
いつもなら、高いテンションで手を振り返して来る姫ちゃんなのに、その日は随分とおとなしかった。
「どうしたの、具合悪いの?」
私は姫ちゃんの顔色が優れないのに気づいて尋ねた。
そう言えば、電話の時も声に元気がなかったような気がする。
「具合は悪くはないんだけどね……」
姫ちゃんは決して健康とは言えない様子だ。何か事情があるのだろうか?
「何かあったの?」
私は向かいの席に座って訊いた。ウェイトレスさんが注文を取りに来たので、私はアイスティ、姫ちゃんはオレンジジュースを頼んだ。
いつもなら、アイスコーヒーを頼むはずなのにとちょっと不思議に思っていると、
「私、できちゃたの」
いきなり衝撃的な事を言われた。できた? 吹き出物とか、そんな話ではないのはわかり切っている。
「赤ちゃん?」
私は声を潜めて言った。姫ちゃんは目を落として微かに頷いた。
驚いた。
確かに彼女は中学時代から私よりずっとませていたし、須佐君とは沖縄旅行で初体験もすませたと聞いている。
そんな情報が私を焦らせたのも事実だ。
でもまさか、妊娠したなんて……。
「それで、須佐君には話したの?」
更に声を低くし、周囲に気をつけながら訊く。幸い、すぐ隣の席は空席だ。
武君が須佐君に会っているのも、多分同じ用件だろう。
「うん」
いつもの姫ちゃんとは似ても似つかない別人のような女の子がそこにいる気がしてしまった。
どうしていいのかわからないという顔で、姫ちゃんは私を見た。
「昇、動揺してた。何て言ったらいいのかわからないって言ってた。私は絶対に産みたいって言ったの。そしたらあいつ、顔色が変わってしまって……」
姫ちゃんは声を出さなかったけど、涙を零していた。私ももらい泣きしそうになったけど、何とか堪えた。
今は私がしっかりしないといけない、と思ったのだ。
「考えさせてくれって言ったのよ。信じられないでしょ? あいつと私の子供なのに!」
姫ちゃんはその時の記憶が甦ったのか、いきなり叫んだ。
静かな音楽だけが聞こえている店内だったので、お客も従業員も一斉に姫ちゃんを見た。
姫ちゃんはそれに気づいてまた顔を俯かせた。
「ご両親には話したの?」
私は姫ちゃんの手を握って言った。姫ちゃんは私の手を握り返して来て、
「お母さんには話した。でも、お父さんには怖くて話せない……」
彼女の手は小刻みに震えていた。
姫ちゃんのお父さんは普段は明るくて優しい人だが、同時に厳しい人でもあるのは私も知っている。
自転車の二人乗りや歩き煙草などを見かけると、必ず注意する人だ。
そして、一人娘である姫ちゃんにも厳格だった。女の子だからと特別扱いせず、殴った事もある。
だから、姫ちゃんが妊娠したと知ったら、それはもう烈火の如く怒るのは想像できた。
妊娠自体は悪い事ではない。本来は新しい生命の誕生なのだから、祝うべき事だ。
でもそれは、あくまで生まれて来る子供をきちんと育てられる人である事が大前提だ。
まだ大学生の二人にはその資格が備わっていない。
姫ちゃんのお父さんが許してくれるはずがない。私もそう思ってしまった。
でも、黙ったままにしておいても、いずれはお腹がせり出して来て、わかってしまう事なのだ。
「言わない訳にはいかないのはわかってるの。でも、どうしても……」
姫ちゃんはまた目から大粒の涙を零しながら呟く。私は彼女の手をもう一度握り返して、
「じゃあ、私が付き添ってあげる。そしたら、おじさんもいきなり姫ちゃんを殴ったりしないでしょ?」
すると姫ちゃんは嬉しそうに私を見た。
「ありがとう、亜希。そうしてくれると助かる」
姫ちゃんはまた泣いた。私も堪え切れなくなって、涙を零してしまった。
姫ちゃんと別れてから、私はすぐに武君に連絡した。
私の予想通り、須佐君も武君に姫ちゃんの妊娠の事を相談したという。
「須佐君もご両親に話して、それからどうするのか考えるって言ってたよ」
武君はご両親に話をするように須佐君を説得したそうだ。
「須佐君、お父さんに殴られるかも知れないって言ってた」
そうだろうなあ。須佐君のご両親は、須佐君が東大に合格した事をものすごく喜んでいた。
取り分けお父さんは、長年の夢を果たした息子を誇らしく思っていると聞いた。
それなのに、幼馴染みの姫ちゃんを妊娠させたと知ったら仰天するはずだ。
同時に礼儀正しい人でもあるから、須佐君の首に縄を付けてでも姫ちゃんのお父さんに謝りに行くとも思う。
「武彦が付き添ってあげれば?」
私はついそんな事を言ってしまってから、あっと思った。武君、眠れなくなるかも知れない。
「そ、そだね」
最近聞かなくなった高校時代の口癖を久しぶりに聞き、申し訳ない事を言ってしまったと思った。
武君には言い出せなくて、結局彼のお姉さんである美鈴さんに助けを求めてしまった。
「武から聞いたよ。櫛名田さんと須佐君、大変だね」
美鈴さんもいつになく深刻そうな声だ。それは少し失礼だろうか?
そして私は武君に不用意に言ってしまった一言を美鈴さんに話し、どうしたらいいのか尋ねた。
すると美鈴さんは、
「気にしなくていいよ、亜希ちゃん。須佐君にはいろいろとお世話になっているんだから、それくらいあいつはするべきだよ。だから、気に病まないで」
豪快に笑ってそう言ってくれたので、武君には申し訳ないと思いつつ、ホッとした。
でも、まだ問題は解決していない。
姫ちゃんのお父さん。
何だか私もドキドキして来た。大丈夫かな? 心配だ。




