その百七十一
僕は磐神武彦。大学二年。
姉の勤め先の「姉ーズ」に狙われたり、経済学部の一年生の女の子に亡くなったお兄さんにそっくりだと言われたりした前期はもうすぐ終了。
一年の時より早かったような気がするのは、大学生活に慣れてきたからだと思う。
「いいなあ、お前、夏休みがあって……」
社会人一年生の姉は羨ましそうだ。
「でも僕だって、夏休み中もずっとバイトだよ」
決して遊び呆けるつもりではない僕は姉に言った。
「違うよ。遊べるうちに遊んでおけって事だよ」
姉はウフなんて似合わない笑い方をして言った。そんな事を思ったのがバレたら大変だけど。
「お前はずっと頑張って来たんだから、少しは人生を楽しんでもいいんだぞ」
また得意のアニメ声で言う。そういうところがどうもわからない。
将来声優になるつもりだろうか? 確かになれるかも知れないほど、様々な声を出せるのは知っている。
「うん、ありがとう、姉ちゃん」
そんな時は素直な返事が一番だ。うっかり反論したりすると話が長くなってまずい。
「まあ、人生の先輩としてのアドバイスだから」
僕がまともなお礼を言ったので、姉は照れ臭そうに玄関を出て行った。
何だか可愛いと思ってしまった。
遅番の母が出かけてから、僕はゆっくりと食器を洗い、出かける準備をした。
いつものように彼女の都坂亜希ちゃんの家に向かう。
「おはよう、武彦」
最初はぎこちなかったお互いを呼び捨てにする習慣もすっかり板に付いて来て、違和感が薄れた。
亜希ちゃんが僕を呼び捨てにするのはとても嬉しいんだけど、僕が亜希ちゃんを呼び捨てにするのはまだしっくり来ていない。
「おはよう、亜希」
それでも可愛い亜希ちゃんを見ると、そんな事はどうでもよくなって来る。
亜希ちゃんが呼び捨てにし合おうって言ったのだから、そうすればいいのだ。
将来尻に敷かれる率が急上昇だが、それも一向にかまわない。
「最近、美鈴さんの会社の人、姿を現さないね」
亜希ちゃんが小声で言った。
「うん、そうだね」
僕はギクッとしてしまう。
何日か経ってから気づいたのだが、姉の会社の先輩の沖永未子さんの実家がこの近くなのだ。
それは姉も知らない事だった。
沖永さんにはお兄さんがいて、どちらかというと「弟」より「兄」が好みらしいのだが、
「磐神さんの弟さんは別格よ」
そんな事も言っていたらしいので、ちょっと警戒していた。
そんな時、沖永さんがコンビニからの帰り道、駅から少し歩いた公園で待ち伏せしていた。
待ち伏せとは穏やかではないが、姉の表現を借りるとそうなる。
沖永さんは別に僕を待っていた訳ではなく、誰か知っている人が通らないかと探していたらしいのだ。
「ごめんね、送ってもらったりして」
沖永さんは嬉しそうに微笑み、僕の手をギュッと握って来た。
僕の顔が引きつったのがわかったのか、
「ありがとう、武彦君」
そう言うと手を放してくれて、駆け去ってしまった。
僕は亜希ちゃんに疑われるのも嫌なので、すぐにその事を電話で話した。
「武彦、やっぱり私が駅まで迎えに行こうか?」
亜希ちゃんが提案してくれたのだが、さすがにそれは気が引けたので丁重に断わった。
僕と姉と亜希ちゃんの心配をよそに沖永さんは不定期に姿を現した。
でも、決して何かを仕掛けて来るという事はなく、只一緒に歩くだけ。
亜希ちゃんも嫉妬するというより、
「何か理由があるんじゃないの?」
むしろ沖永さんの事を心配していた。
そんな疑問を抱いたまま、沖永さんの出没は続いた。
「夜の散歩も今日でおしまい。今までありがとう、武彦君」
数日後の夜、沖永さんは何故か悲しそうにそう告げて来た。
「あ、はい、そうですか」
僕はホッとした顔をしないように気遣いながら応じた。
「お兄ちゃん、あ、ええと、兄が結婚するの」
沖永さんは突然そんな話を始めた。
「自分ではもう覚悟はできていたつもりだったんだけど、やっぱり現実になると、全然違って……。寂しくて……」
沖永さんが目を潤ませたので、僕は驚いてしまった。
こんなところを誰かに見られたりしたら、完全に僕が泣かせたと思われる。
焦った。とても焦った。
「お姉さん子の武彦君になら、私の気持ち、わかってもらえるかなって思って……」
沖永さんは涙をハンカチで拭いながら微笑み、僕を見た。
「実家の前まで行って、お兄ちゃんの部屋の明かりを見て、ああ、まだお兄ちゃん、家にいるって思って、そのままアパートに帰っていたの。変でしょ、私」
そう言って、沖永さんは苦笑いをしている。
僕は返事に困った。
沖永さんは筋金入りのお兄さん子のようだ。
「何となくわかります、僕」
僕は自分を沖永さんに置き換えてみた。
僕が一人暮らしをしていて、姉の結婚が決まり、家を出る準備を進めていたとしたら……。
毎日姉がまだ家にいるのか、確認にしに行ってしまう自分がいる気がした。
「ありがとう、武彦君」
沖永さんはギュウッと僕を抱きしめてくれた。
変な意味ではなく、親愛の情なのだと思う。
「お姉さんと仲良くね。じゃあ」
沖永さんは手を振りながら駅へと歩いて行った。
お兄さんは昨日実家を出たのだそうだ。
僕は知らないうちに泣いていた。
姉を大切にしようと思った。
「武彦、電車来たよ」
亜希ちゃんの声で我に返った。
「あ、ごめん」
僕は今は大学へ行く途中だった。
沖永さんは、お兄ちゃん子を卒業できただろうか?
そして、僕もお姉ちゃん子を卒業できるのだろうか?
周囲は「姉」ばかりだからなあ。
不安だ。