その百七十
僕は磐神武彦。大学二年。
先日、駅のホームで我が姉だけでなく、姉が勤務する会社の「姉ーズ」に出くわし、取り囲まれた時は怖かった。
その時ばかりは姉が僕の味方になってくれた。
ホームに入って来た各駅停車に僕を誘導し、自分は先輩の社員さん方と続けて入って来た快速に乗り込んだ。
あの時ほど姉を頼もしく思った事はない。
「姉ちゃん、ありがとう」
すぐに電車の中からお礼のメールを送ったほどだ。
「これからも会う事があるだろうから、気をつけろ」
姉からの返信に脅えてしまった。そうなの?
バイト終わりにも何となく怖くて、周囲を警戒しながら帰ったほどだ。
そんな話を次の日に彼女の都坂亜希ちゃんにすると、
「今度から私がボディガードでついて行こうか、武彦?」
と言われてしまった。情けない。
「いや、大丈夫だよ。姉の会社の人だから、常識はあると思うので」
僕は亜希ちゃんの気持ちに感謝しながらも、丁重にお断わりした。
「そこがいけないのよ、武彦。誰にでも優しいから、つけ入られるの」
亜希ちゃんはムッとしている。
「はい」
僕は畏まって返事をした。
「美鈴さんの先輩の方なら、そんなに心配要らないと思うけど、私が一緒にいた方が、何も言わなくてもいいから、手っ取り早いでしょ?」
何故か顔を赤らめて言う亜希ちゃん。どうしてなんだろう?
ああ。ヤキモチなのか。
これって、喜んでいいんだよね? 僕はそれだけ亜希ちゃんに愛されているって事だよね?
「そうだね。今日、コンビニまで来る? バイトの先輩達にも、亜希を紹介したいから」
あまり会わせたくはないんだけど、最近「彼女はいない疑惑」まで浮上して来ているからなあ。
「え? いいの?」
すごく嬉しそうな亜希ちゃんを見て、もう後戻りできないと悟った。
そして、滞りなく講義は終了し、駅へと向かう。
いつにも増して嬉しそうな亜希ちゃんを見ていると、僕まで心が弾んで来る。
「そんなに嬉しいの、僕のバイト先に行くの?」
僕は疑問に思ったので、尋ねてみた。
「うん、嬉しいよ。だって今まで、そういうのって、全然なかったから」
ニコニコしながら応じる亜希ちゃんを見て、
(そう言えば、そうかも)
妙に納得してしまった。
昨日姉の会社の人と出会ったホームに降りる時、少しだけ緊張したけど、誰もいなかった。
考えてみれば、そう毎日会うはずないんだよね。
無事にコンビニに着いた時は、正直言ってホッとした。
何しろ、姉の会社はコンビニの最寄り駅の二駅先だからだ。
「ここが武彦が働いているコンビニ……」
何故か感慨深そうに店舗を見渡す亜希ちゃん。
それほどの事なのかな、と少しだけ疑問に思った。
「あ、こっちだよ、亜希」
普通に表から入ろうとする亜希ちゃんを呼び止め、裏口に回り込む。
「お疲れ様です」
僕はドアを開けて挨拶をし、亜希ちゃんを呼び込んだ。
そこは事務室なんだけど、三人同僚がいて、どよめきが起こった。
「うわ、磐神君の彼女?」
「へえ、すっごい美人じゃん!」
何だかこそばゆくなって来るような言葉。
亜希ちゃんも恥ずかしそうに挨拶していた。
「仕事場に彼女なんか連れて来て!」
と言われるかと思ったけど、みんな亜希ちゃんの登場に大喜びしていたので良かった。
しかし、仕事の邪魔になるからと亜希ちゃんはすぐに帰ってしまった。
「また来てくださいね」
同僚達は亜希ちゃんの姿が見えなくなるまで手を振っていた。
凄い人気。心配になるくらいだ。
確か皆さん、彼女いるはずなのに。
「羨ましいなあ、磐神君が。お姉さんが美人なだけじゃなくて、彼女まで美人なんだもんなあ」
「ホントだよ。俺の彼女、都坂さんに比べたら、もう……」
そんな言い方は良くないと思いながらも、自分の彼女を誉められると嬉しい。
姉も亜希ちゃんも、確かに奇麗だとは思うけど、そこまで感動する程の美人だろうかと思ってしまうのは、僕に慣れが出て来ているって事かな?
バックヤードで掃除をしていると、表が騒がしくなり、
「磐神君、お姉さんがいらしたよ」
一年先輩の人が呼びに来てくれた。
「ええ?」
姉まで来るとは思わず、ちょっと疲れが出そうだ。
小さく溜息を吐いて掃除用具を片づけると、店内に出た。
「おう、武、大丈夫だったか?」
「は?」
姉の奇妙な一言に首を傾げていると、
「実はさ……」
姉が事情を説明してくれた。
どうやら、昨日会った皆さんがここを知り、「襲撃」しようとしていたらしい。
知らなくて良かった。知っていたら、怖くて仕事にならなかったよ。
「課長に相談したら、逆の方向に仕事を入れてくれたんだ」
姉はニヤッとして教えてくれた。
「亜希ちゃんも心配して、ここまでついて来てくれたんだよ」
僕が言うと、姉は呆れ顔になり、
「お前、それ、情けないぞ。恥ずかしいと思え」
「そうなんだけどさ、ここの人達に亜希ちゃんを紹介したくて……」
すると姉は半目になって、
「何だよ、姉ちゃんがここに来ると迷惑そうな顔をするくせに。はいはい、お熱い事で」
と言い、店を出て行ってしまった。何だか急に機嫌が悪くなったな。
家に帰るのが怖くなって来たぞ……。
姉の反応は時々理解不能な事がある。もしかして、亜希ちゃんに嫉妬してるの?
でも、思うんだよね。
亜希ちゃんと姉に対する愛情は種類と次元が違うから、どっちが上って事はないんだと。
二人のどちらにもそんな事は怖くて言えないけど。