その百六十九(姉)
私は磐神美鈴。社会人一年生。
この前、婚約者の力丸憲太郎君の柔道の大会があった。
夢にまで見たオリンピック。憲太郎君はまさにそのために毎日練習に打ち込んで来た。
でも、世の中はそれほど自分達に都合よくできている訳ではない。
憲太郎君は同じ階級の最大のライバルに負けてしまい、オリンピックへの夢は断たれた。
「ごめんね、美鈴。生キャサリン妃に会わせてあげられなくて」
残念会でも、本当は辛いはずなのに私を気遣ってくれた。
でも、ちょっぴり残念だったのは、絶対に内緒にしなくては。
などと不届きな事を考えていたら、会がお開きになっての帰り道。
「ロンドンには、新婚旅行で行こうか」
思わず憲太郎君を見てしまった。冗談を言っている顔ではない。
「本気だよ」
憲太郎君はいつもと変わらない爽やかな笑顔で私を見ている。
「憲太郎」
私は周囲に誰もいないのを確認して、彼に抱きつき、キスをした。
「美鈴……」
憲太郎君は目を丸くして驚いていたが、優しく応じてくれた。
そして、翌日から日常が戻って来た。
憲太郎君はお父様が経営している会社で一営業としてスタートする事になっている。
応援に行きたいのだが、
「恥ずかしいからやめて」
と拒絶されてしまった。
それだけではない。私にも仕事があるのだ。
「磐神さん、明日もよろしくね」
先輩方の信頼が絶大なのだ。
アルバイトをしていた建設会社は大手ではなかったが、社長の顔が広く、そのつながりで私も建設業界で顔が広いのだ。
そのお陰で、随分と先輩方に重宝されている。
男子の先輩方は、最初は下心ありありで近づいて来たが、私の婚約者が力丸憲太郎と知り、ビビった人達がいた。
憲太郎効果は絶大で、セクハラもないし、強引な飲みのお誘いもない。
「飲みの誘いがないのは、貴女の彼氏のせいと言うより、貴女自身のせいじゃない?」
入社五年目の先輩、御真津可恵さんが微笑みながら言った。
今、私達は営業の帰り。駅のホームで電車を待っているところだ。
「そうかもねえ」
頷いて同意したのは、御真津さんと同期の神沼美弥さん。
どちらも弟がいるという他人とは思えない人達だ。
しかもどちらも絶対服従の弟さんらしい。何だかますます他人とは思えない。
「へえ、そうなんですか」
興味深そうに会話に加わって来たのは、一年先輩の沖永未子さん。
この人は弟ではなく、お兄さんがいる。噂ではイケメンだそうだ。
「どういう意味ですか?」
私は心当たりがあるのだが、敢えて惚けて訊いてみた。
「だって、磐神さんて、ザルなんだもん」
神沼さんが溜息交じりに言った。やっぱり……。
「そりゃ、男共は、自分達よりお酒が強い女子を誘わないわよね」
御真津さんも呆れ気味だ。
「へえ、そうなんですかあ」
沖永さんはニコニコしながら私の顔を覗き込む。
「それよりさ、この駅、確か磐神さんの弟さんが通ってる大学の最寄り駅よね?」
御真津さんが妙に嬉しそうに言い出す。私は思わずビクッとした。
こんなところに武彦が来たら、取り囲まれそうだ。
あいつ、ちょっと初対面の女性には恐怖を感じる傾向があるようだから、守ってあげないといけないな。
「そろそろ来る時間なんじゃない、弟さん?」
神沼さんまで肉食動物のように目を光らせて言う。私も怖くなりそうだ。
愚弟の武彦の間の悪さと言ったら、世界選手権があれば、準決勝までは確実に残りそうなほどだからなあ。
本当に現れそうで困る。
などと考えていたら、
「ねえ、あれ、磐神さんの弟さんじゃない?」
御真津さんが耳元で囁いて指差す。私はドキッとして階段の方を見た。
間違いない。武彦だ。ああ、何て事だ。
あいつも私に気づき、顔を引きつらせている。今から知らないふりもできない。
こんな事になるとわかっていたら、あいつの写真を見せたりしなかったんだけどな。
仕方ない。何とか守らないと。
私は意を決して武彦に声をかけた。
「おう、武、いいとこに来た!」
私はうまく切り抜けるために武彦に近づき、作戦を練ろうと思ったが、
「わあ、可愛い、磐神さんの弟さん!」
たちまち先輩方に武彦を取り囲まれてしまった。
可愛い? そんな風に言われると、何だか誇らしくなってしまう私。
「いやあ、そんなに可愛くないですよ」
武彦は女性三人に至近距離で見つめられて、顔が真っ赤だ。
「ねえねえ、彼女とかいるの?」
御真津さんがいきなり核心を突く質問を投じた。
武彦は困った顔をして私を見る。
「いますよ。幼馴染みの子です」
私はすかさず答えた。武彦はホッとした顔になった。
「何だ、そうなの。弟って、モテる属性なのかしら? 私の弟も、神沼さんの弟も彼女いるわよね?」
「そうねえ」
そう言いながらも、武彦を解放するつもりがないお二人。その上、
「私の兄もイケメンだけど、磐神さんの弟さんもイケメンね」
沖永さんまで悪乗りしている。まあ、弟がイケメンと言われて、悪い気はしないけど。
只、当の武彦は限界寸前だ。
「あ、先輩、電車来ましたよ」
私は先輩方を誘導し、武彦に早く逃げるように目で合図した。
武彦は隣のホームに入って来た各駅停車に乗り込んだ。
私達は快速に乗り込み、会社のある駅に向かう。
「磐神さん、弟さんを私達から守ろうとしたでしょ?」
御真津さんが座席に腰を降ろしながら私を見上げる。
私は御真津さんの前に立ち、
「そんな事はないですよ」
「そうかなあ」
御真津さんの隣に座った神沼さんがニヤニヤして言う。
「まあ、その気持ち、わかるわ、磐神さん。御真津先輩と神沼先輩には、私も兄を狙われたから」
沖永さんから衝撃の事実を教えられ、私は唖然とした。
「それを言わないでよ、未子ちゃん。あの時は私、随分と酔ってたから……」
御真津さんは照れ臭そうに応じているが、否定はしない。
すごい先輩方がいる会社に入ってしまった。
武彦には気をつけるように言っとかないと……。
心配の種が増えたなあ。ふう……。




