その百六十七
僕は磐神武彦。大学二年。
先日、姉の婚約者である力丸憲太郎さんのオリンピック出場を懸けた柔道の大会があった。
僕達一家は総出で応援、僕の彼女の都坂亜希ちゃんも同行してくれた。
準決勝で、憲太郎さんは最大のライバルとの試合で惜しくも敗退し、オリンピック出場の夢は潰えてしまった。
相手の大外刈りが決まって審判が一本をコールした瞬間、観客席から立ち上がって声援を送っていた姉が倒れてしまった。
「姉ちゃん!」
「美鈴!」
「美鈴さん!」
僕達は慌てて姉に駆け寄った。
姉は極度の緊張と憲太郎さんが試合に負けてしまったショックで気を失ってしまったらしい。
大事にはならなくて良かった。
試合が終わって、医務室に運び込まれた姉を憲太郎さんが見舞いに来た。
本当なら、自分の試合の事で頭が一杯のはずなのに、
「貴方の婚約者が貴方のために声援を送って倒れたのよ」
憲太郎さんのお姉さんである沙久弥さんの厳しい言葉で、憲太郎さんは項垂れていたのに立ち上がり、姉を見舞ってくれたのだ。
その事を姉は後で母に聞かされ、号泣したらしい。
「まだ四年後は十分狙えるから」
沙久弥さんと結婚した西郷さんが憲太郎さんを励ました。
西郷さんは、その前日に試合に負けているんだけど、あの厳しい沙久弥さんに、
「項垂れている場合ではないでしょう、西郷君」
と叱咤され、すぐに立ち直ったらしい。
沙久弥さんの言葉は僕達とは違って重みがあるのだそうだ。
それは、受験勉強で大変お世話になった僕もよくわかる。
沙久弥さんの言葉は「言霊」なのだ。
普通の激励や叱咤とは違う何かがある気がする。
あまり沙久弥さんを誉めると、亜希ちゃんが怖いのでこの辺にしておくけど。
「姉貴は、僕なんか比べものにならないくらいの重圧の中で合気道の全国大会で勝ち進んだ経験があるからね。姉貴に言われると、納得できるんだ」
試合の数日後、残念会を身内だけで開いた時、憲太郎さんがそう言っていた。
「でも、憲ちゃんは凄いよ! ウチの愚弟なんか、一回戦であっさり敗退だもんね」
身内だけの残念会なのだけど、西郷家も合流したので、酒癖の悪い依里さんと詠美さんも参加していた。
そのせいで西郷さんは酷い言われようだった。
「そうそう。隆に比べれば、憲ちゃんは大したものよ!」
詠美さんの弁。前のは依里さんの弁だ。どちらも強烈だ。
とてもキャリア官僚とは思えない泥酔ぶりである。
「いえ、そんな事はありません。一回戦で敗退だろうと、準決勝で敗退だろうと、負けは負けです」
沙久弥さんが言った。あれ? 沙久弥さん、心なしか、顔が赤い。
「あ、沙っちゃん、酒飲んじゃったの?」
西郷さんが慌てている。もしかして、沙久弥さんて、酒乱なのだろうか?
「姉貴は酒乱じゃないのだけど、熱い話をしている時に酒が入っちゃうと、ヒートアップしてしまうんだ」
憲太郎さんは苦笑いして教えてくれた。
「嘘……」
それを耳を欹てて聞いていた姉は顔を引きつらせている。
「沙久弥さんとは絶対に飲まないようにしないと……」
姉は記憶に刻み込むように何度も同じ事を呟いていた。
「羨ましいなあ」
隣にいた亜希ちゃんがボソリと呟く。
「何が?」
僕は不思議に思って彼女を見た。亜希ちゃんは僕に顔を寄せて、
「だって、この中できょうだいがいないの、私だけなんだもん」
「ああ……」
僕は思わず納得してしまったが、
「なーに言ってんのォ、亜希ちゃん。貴女にはたくさん、お義兄さんとお義姉さんがいるでしょう?」
絡み酒の姉ーズが亜希ちゃんに抱きついて来た。
依里さんを筆頭に、詠美さん、そして我が姉。
姉と西郷シスターズ三号四号のお二人はいつの間にか仲良くなっていた。
似たようなけたたましい笑い方をして、亜希ちゃんに話しかけている。
亜希ちゃんは顔を引きつらせて僕に救いを求めて来たが、ちょっと無理だ。
「依里、詠美!」
するとそこへ救世主が登場してくれた。
西郷シスターズの一号二号である恵さんと翔子さんだ。
依里さんと詠美さんはションボリして自分の席に戻った。
「美鈴さん、絡み酒は良くないわ」
姉は母が立ち上がるより早く、沙久弥さんにお説教されていた。
僕と憲太郎さんは顔を見合わせてクスクス笑っていたが、
「憲太郎、武彦君、何がおかしいの?」
沙久弥さんに見つかり、一緒にお説教されてしまった。
謝りながら、ふと亜希ちゃんを見ると、西郷さんのお母さんの輝子さんと沙久弥さんのお母さんの香弥乃さんに挟まれて、談笑していた。
今度は救助要請のアイコンタクトはなかったのでひとまず安心した。
何だか、親戚付き合いも大変になりそうだなあ。
でも、賑やかでいいか。