その百六十六(姉)
私は磐神美鈴。社会人一年生。
厳しい就職戦線を何とか勝ち抜き、中堅の建設会社に入社する事ができた。
ところが、後で気づいたのだが、その会社があるのは、我が愚弟の武彦がアルバイトをしているコンビニと同じ沿線で、武彦が通う大学の最寄り駅からもそう遠くない。
しまったと思った。
これではまるで、今流行りの「弟大好きお姉さん」に思われてしまう。
武彦に思われるのも癪に障るが、我が婚約者の力丸憲太郎君にそう思われるのはもっと嫌なので、あらかじめ憲太郎君に報告しておいた。
「考え過ぎだよ、美鈴。そんな事、僕が思う訳ないよ」
憲太郎君はやや呆れ気味にそう言った。
「そう?」
冷静になって考えれば、愚弟はともかく、憲太郎君がそんな邪推をするはずがないのだ。
何しろ、憲太郎君と私は人も羨むラブラブカップルなのだから。
「美鈴は武彦君の事になると必要以上に僕を気にするけど、それは心外だよ」
憲太郎君は爽やかな笑顔のまま、私に異を唱えた。
「ごめん、憲太郎」
私は心から反省し、憲太郎君に謝罪した。
「別に謝らなくてもいいよ」
憲太郎君は苦笑いして私を慰めてくれた。
「じゃあさ、お詫びのチュウしてあげる」
「それもいいって!」
憲太郎君は愛しい私のキスを拒み、会場へと行ってしまった。
今日はオリンピック出場を懸けての大事な試合があるのだ。
最有力候補である憲太郎君は優勝すれば出場が確定するのだ。
そうしたら、ロンドンまで行って応援する。
必ず金メダルを取れる。そう固く信じている。
「もう、憲太郎ったら、恥ずかしがりなんだから」
私は観客席へと移動した。
今日は大事な大会なので、母も武彦も、そして武彦の彼女の都坂亜希ちゃんも、憲太郎君のお姉さんの沙久弥さんも、そのご主人の西郷さんも来ていた。もちろん、ご両親もいらしている。
「ご無沙汰しております」
母は憲太郎君のご両親と挨拶していた。武彦は沙久弥さんと話していて、亜希ちゃんに睨まれている。
相変わらず学習能力がない奴だ。
そして、いよいよ憲太郎君の階級の試合が始まった。
第一試合は心配するまでもなく、憲太郎君の圧勝。
第二試合も危なげなく勝ってくれた。
「憲太郎!」
私は観客席から大声で声援した。母や武彦や亜希ちゃんは恥ずかしがっていたが、
「愛する人の声は何よりも憲ちゃんの力になるよ」
西郷さんが言ってくれた。
「あら、では西郷君があっさり敗退したのは、私の声援が足りなかったせい?」
隣の沙久弥さんが目だけ笑っていない笑顔で尋ねる。
「いや、決してそういう事ではなくてね……」
西郷さん、昨日の試合で負けちゃったのよね。
それにしても、沙久弥さん、きついなあ。西郷さんもそれを笑って聞いているのがすごい。
そして、試合は進んで準決勝。
憲太郎君の対戦相手は今まで五勝五敗の最大の好敵手。
どちらも顔つきが変わり、周囲の空気が一変した。
私も緊張のあまり、声が出ない。
声を出してはいけないような雰囲気を感じてしまったのだ。
「どうしたの、美鈴さん。憲太郎に声をかけてあげて」
沙久弥さんが私のそばに来て言った。それがまるで何かのスイッチだったかのように、
「憲太郎、頑張れ!」
私の口から今までで一番大きい声が出た。
憲太郎君にそれが届いたのか、さっきまで劣勢だったのが嘘のように形勢逆転だ。
見事相手から有効を取り、ポイントでは優勢になった。
「相手は最大のライバルだからね。しかも、あいつの大外刈りは怖いよ」
西郷さんが真剣な表情で教えてくれた。
確かに大外刈りで有名な選手だ。憲太郎君も今日の試合は彼との対戦だけに絞って戦略を練っていた。
時間が迫って来る。
このまま終了なら、憲太郎君の勝ちだ。すでにご両親は勝利を確信している。
いつも冷静な沙久弥さんがソワソワとしていて、何だか可愛くなってしまう。
あと十秒。もう大丈夫、と思った時だった。
「ああ!」
憲太郎君の身体が宙を舞った。相手の大外刈りが決まってしまったのだ。
憲太郎君はそのまま畳の上に倒され、審判が一本をコールした。
私は目の前が真っ暗になり、そのまま倒れてしまった。
次に目を覚ましたのは、会場脇にある医務室のベッドの上だった。
「美鈴、大丈夫?」
ふと見上げると、心配そうな顔の憲太郎君が覗き込んでいる。
「憲太郎……」
私はその顔を見て、大泣きしてしまった。
「美鈴……」
憲太郎君は困ったような顔をして私を見ていたので、
「ごめんね、憲太郎。私の応援が足りなかったんだね。ごめんね……」
「何言ってるのさ。美鈴の声援が聞こえたから、有効を取れたんだ。土壇場で大外刈りを決められたのは僕のせいだよ。美鈴は何も悪くない」
憲太郎君の言葉にますます私は泣けてしまった。
「憲太郎!」
ベッドから起き上がり、私は彼に抱きついた。
「また一から積み上げ直しさ。四年後を目指してね」
「憲太郎……」
医務室には私と憲太郎君のみ。意を決して私は、
「泣いてもいいんだぞ、憲太郎」
本当は悔しくて仕方がないはずなのに我慢しているのがわかったので、耳元で囁いた。
「ありがとう、美鈴」
憲太郎君は声は出さなかったけど、泣いていた。身体が震え、洟を啜る音が聞こえたから。
「闘魂注入してあげる」
私は涙を拭いながら、彼に心を込めてキスをした。彼の首に腕を回し、口を舌で分け入った。
そう、ディープキスだ。憲太郎君は最初は戸惑ったみたいだけど、応えてくれた。
「明日から、また始まるんだね」
私は顔が火照るのを感じながら、彼を見つめた。
「うん。また応援頼むよ、美鈴」
そう言うと、憲太郎君がキスして来た。ああん、嬉しい。
頑張ろうね、憲太郎。