その百六十四
僕は磐神武彦。大学二年。
大好きだけど怖い姉が毎日バイト先に姿を現すという妙な罰ゲームは、母のお説教という意外な展開で一応打ち止めになったのだが、僕はまた別のピンチに見舞われようとしていた。
もちろん、その時の僕には、予測しようがない事だったのであるけど。
いつものように僕と彼女の都坂亜希ちゃんは電車を乗り継いで大学に到着した。
「おはようございます」
大学の正門をくぐるなり、あのちょっと変わったイントネーションの声が聞こえた。
途端に僕と腕を組んでいる亜希ちゃんに力が入り、思わずドキッとしてしまった。
「お、おはようございます」
僕はその声の主に顔を引きつらせて挨拶を返した。
その声の主は、長須根美歌さん。経済学部の一年生だ。
まだ高校生みたいな童顔で可愛い子だけど、それとはアンバランスな巨乳の持ち主。
自分が巨乳なのをあまり自覚していないのか、着ているブラウスがパツパツだ。
悪く取れば、意識的にそうしているとも思えるけど。
「彼女さん、磐神さんとラブラブなんですね。いいなあ」
長須根さんは屈託のない笑顔でそう言うと、
「そいじゃ、失礼します」
お辞儀をして立ち去ってしまう。
またユサユサと揺れた。いや、実際凄い……。
「武彦」
亜希ちゃんが僕の二の腕を思い切り抓った。
「あいたた!」
涙が出てしまうほど痛かった。
「ご、ごめん……」
僕は反射的に謝ってしまった。何も悪い事はしていないと思うんだけど……。
「そんなにあの子の事がいいなら、別れる?」
亜希ちゃんはそんな事まで言い出した。
いつになく怒っているのは、亜希ちゃんが巨乳コンプレックスだからなのか?
おっと、そんな事を想像してしまうのがそもそも失礼だ。
「な、何言ってるのさ、亜希、誤解だよ」
「どうだか」
亜希ちゃんはスタスタと先に歩いて行ってしまう。
周囲の人達は僕を見てクスクス笑っていた。
「ああ、待ってよ、亜希」
どう見ても浮気性な男が彼女に呆れられた図だ。
参ったなあ。
こんな時に限って、友人達の姿が見当たらない。
しかも、次の授業は外国語で、亜希ちゃんとは違う教室だ。
ますます憂鬱になった。
亜希ちゃんと同じクラスの橘音子さんに話をして、仲介してもらおうと思ったが、ロビーに入って行くと、先に亜希ちゃんと話していた。
ダメだ。二人で僕を睨んでいるから、完全に亜希ちゃんの味方だ……。
「何があったのさ、磐神君?」
橘さんの彼の丹木葉泰史君が声をかけてくれた。
僕は手短に事情を説明した。
「それは酷いね。都坂さん、嫉妬し過ぎだと思うな」
丹木葉君は小声で言ってくれた。何故小声なのかと言うと、まだ亜希ちゃんと橘さんが会話しながら僕達を睨んでいるからだ。
げ! 更に長石姫子さんまで加わった。
ますますまずいよ……。
「何しちゃったの、磐神君?」
長石さんの彼の若井建君が尋ねて来た。
「姫子に追い払われたんだよ。どうしたの?」
僕はもう一度順を追って説明した。
「ああ、あのデカパイの子がまた現れたんだ」
若井君は長須根さんの事を覚えていたみたいだ。
「確かにあれに目が行かない男の方が珍しいと思うけどね」
若井君は首を傾げながらそう言ったが、論点がズレていると思う。
「それで別れるとか言い出すって、都坂さんて、相当嫉妬深いね。姫子以上だな」
若井君はチラッと亜希ちゃん達を見て言った。
「いや、僕は見てないから。長須根さんにも、挨拶されただけだし」
僕は若井君にまで誤解されては困ると思って言った。すると、
「あの子、長須根さんて言うんだ。へえ」
若井君ばかりでなく、丹木葉君まで僕を見る目がおかしい。
「え?」
誤解が深まったような気がした。
とうとう亜希ちゃんはそのまま橘さん達と違う教室に行ってしまい、僕は何も弁明できないまま、自分の教室に入った。
「磐神君」
そこへ長石さんがニヤニヤして近づいて来て、僕のすぐ前の席に座った。
「何があったの? 亜希ちゃん、随分怒ってたけど?」
長石さん、何だか面白そうだ。
「何もありませんよ。顔見知りの女の子に挨拶されたら、亜希が怒り出して……」
「ホントにそれだけ?」
長石さんが疑いの眼差しを向けて来る。
「ホントですよ! 長須根さんとは何もありません!」
僕はつい大声を出してしまい、教室中の注目を浴びてしまった。
「名前も知ってるんだ。ますます怪しいなあ」
長石さんはニヤニヤしたままで前を向いてしまう。
いや、名前を知っているからって、それがどうなの?
名前を知っていると、何かあった事になってしまうの?
何だか悲しくなって来た。
結局その日は、亜希ちゃんは完全に僕から離れてしまい、昼食は一人で食堂でした。
講義の席も、僕とは離れたところに座り、僕が話しかけようとしても目も合わせてくれない。
亜希ちゃんのそばにはいつも橘さんと長石さんがいて、彼女をガードするように立っているから、近づく事もできなかった。
こんなに悲しくて寂しい一日はいつ以来だろう?
あまりにもショックだった僕は、泣く事すらできなかった。
講義が終わり、大学を出る時も、亜希ちゃんは姿を見せなかった。
僕は仕方なく一人で大学を出て、駅へと向かった。
そして、バイト先へと向かった。
今までは姉がコンビニに来るのが嫌だったけど、今日は来て欲しかった。
だから、姉の携帯に連絡した。
「どうした、武?」
僕が姉に連絡するなんて普段あまりない事なので、勘のいい姉はすぐに何かを察したようだ。
「姉ちゃん、今日はコンビニに来てよ」
「わかった。今日はちょっと出先が遠場だから、ちょうどお前が上がるくらいの時間に行くよ」
「うん。待ってる」
僕は姉がバイト先に来てくれる事がこれほど嬉しいと思った事はなかった。
でも、バイト上がりの時間になっても、姉は姿を見せなかった。
何かあったのかと思い、携帯に連絡すると、
「武、姉ちゃんは行けなくなったから、代わりを頼んだよ。外に出てみろ」
「え?」
僕はその言葉に驚いて、店の外に走った。
「武彦」
すると、街灯の下に亜希ちゃんが立っていた。
「亜希……」
あまりに意外な代わりの人だったので、一瞬何が起こったのかわからなかった。
「ごめんね、武彦。私、橘さんや長石さんに言われて、貴方と距離を置こうと思ったの」
亜希ちゃんは涙ぐみながら僕に近づいて来る。僕は慌てて彼女に駆け寄った。
「それで、貴方に冷たい態度とって、一人で家に帰って、何だか心の中に大きな穴が開いたみたいで、もやもやして……」
亜希ちゃんの言葉に僕は胸がズキンとした。
僕は本当に亜希ちゃんと話そうとしただろうか?
亜希ちゃんが避けているのを知って、それだけで諦めていた。
自分から歩み寄ろうとしなかった。
亜希ちゃんは涙を零して、
「そんな時、美鈴さんから電話がかかって……」
「姉ちゃんから?」
姉からどうして亜希ちゃんに電話が?
「美鈴さん、武彦がバイト先に来てくれって言って来たって……」
姉ちゃん……。キュンとしてしまった。
「武彦があまり深刻な声で電話して来たので、すぐに私と何かあったってわかったんですって。すごいよね、美鈴さん……」
亜希ちゃんは泣き笑いをしている。
確かに姉のそういう勘の良さは動物的な面がある。
「武彦は、何があっても貴女を裏切るような事はしないから、信じてあげてって言われたわ」
亜希ちゃんは泣きながらそう言ってくれた。僕ももう泣いてしまっている。
「ごめんね、武彦」
亜希ちゃんは僕に抱きついて来た。僕は亜希ちゃんを抱きしめ、そのままキスした。
長いキスだった。
「許してくれるの、私を?」
キスの後、亜希ちゃんが潤んだ瞳で僕を見上げる。僕は微笑んで、
「許すも何もないよ。亜希は何も悪くないから」
そしてもう一度キスした。
後ろでコンビニの同僚と店長が見物しているのも気づかずに。
ありがとう、姉ちゃん。大好きだよ。