その百六十三
僕は磐神武彦。大学二年。
幼馴染みで彼女でもある都坂亜希ちゃんとの交際は順調。
先日、ちょっとした行き違いから、我が姉に拳骨を頂戴したけど、亜希ちゃんが泣いて謝ってくれて、姉には「姉ちゃんを一発殴れ」と追い回され、その揚げ句帰宅した母に揃ってお説教された。
「しばらくお前のバイト先に行くなって母さんに言われた」
次の日、姉はしょげ返って出勤した。
それ以来、姉はコンビニに出没しなくなり、同僚や店長に心配されてしまった。
以前も建設現場のバイトをしながら、夜間の大学に行っていた姉は、僕より大概朝が早かったが、今はそれ以上に早い。
何だかよくわからないのだけど、バイトをしていた会社のつながりで、姉は随分と顔が広いようで、先輩社員に引っ張りだこなのだそうだ。
「俺一人じゃ心細いから、磐神さん、一緒に行ってよ」
先輩の男性社員にそう言われたと何だか嬉しそうに語っていた。
婚約者の力丸憲太郎さんに言いつけたいところだが、そんな事をしても憲太郎さんは動じない上、姉の怒りを買うだけで、僕には何もいい事はないので、するつもりはない。
「いやあ、モテる女は辛いわあ」
少しも辛そうじゃない姉なのだ。
それから遅番の母が出勤し、最後に僕が家を出る。
数十メートルだけ離れたところにある亜希ちゃんの家に行くと、亜希ちゃんは門の前で待っていてくれた。
「おはよう、武彦」
亜希ちゃんも姉同様数日元気がなかったが、今日はいつもの亜希ちゃんに戻っていた。
「おはよう、亜希」
いつも通り、並んで駅まで行く。
そして、何事もなく電車を乗り継ぎ、僕達は大学に着いた。
「おはよう」
学部棟への道すがら、同じ外国語クラスの長石姫子さんとその彼氏で亜希ちゃんと同じ外国語クラスの若井建君に会った。
「亜希ちゃん、今度亜希ちゃんちに遊びに行っていい?」
長石さんが唐突に切り出した。亜希ちゃんは少し面食らっていたが、
「ええ、いいですよ、姫子さん」
僕は若井君と顔を見合わせる。
そこへ丹木葉泰史君と彼女の橘音子さんも合流した。
「わあ、それなら私も混ぜて欲しい」
橘さんも亜希ちゃんの家に行く事になったようだ。
今度は丹木葉君と顔を見合わせた。
「女の子って、仲良くなると距離が詰まるのが早いよね」
丹木葉君が囁いた。
「そこ、何悪口言ってるの?」
長石さんが半目で怖い事を言う。
「ち、違いますって……」
僕と丹木葉君は慌てて言った。すると僕と丹木葉君のリアクションが面白かったらしく、亜希ちゃん達は大笑いしていた。
僕と丹木葉君はまた顔を見合わせ、今度は苦笑いした。
学部棟に入ると、亜希ちゃん達は揃ってロビーから離れた。どこに行ったのかは詮索してはいけない。
丹木葉君と若井君は入り口の反対側にある自販機の方へと歩き出す。
僕だけロビーの真ん中にポツンと残される形になったので、若井君達のところに行こうとした時だ。
「ああ、おはようございます。この間はありがとございました」
どこかで聞いたようなちょっとイントネーションが違う声が聞こえたので、声の主の方を見た。
するとそこには、以前経済学部の棟を訊かれた子がニコニコしながら立っていた。
「あ、貴女は……?」
僕も微笑んで応じたが、生憎名前を知らない。
「私、長須根美歌と言います。仲良くしてやってください」
長須根さんは屈託のない笑顔でペコリとお辞儀をして言った。
この間は気づかなかったけど、お辞儀をした途端に彼女の胸がユサユサと揺れたのがわかった。
「ぼ、僕は磐神武彦です」
慌てて自己紹介した。
それにしても、凄い巨乳……。あ……。
「武彦」
そこへタイミング悪く亜希ちゃん達が戻って来た。
まずい。また誤解される。
「あ、この人が磐神さんの彼女さんですかァ。奇麗な人ですねェ」
長須根さんは亜希ちゃんを見るなりそう言った。
亜希ちゃんは虚を突かれたようになって、僕を見る。
「そんじゃ、また」
長須根さんはペコペコしながら学部棟を出て、隣の経済学部に歩いて行った。
わざわざ立ち寄ったの? 何のために?
「でかかったなあ」
若井君がストレートな感想を言ったが、
「そう? 身長は私より低いでしょ?」
幸いな事に長石さんは気づいていなかった。
「あはは、そうだな」
若井君もまずいと思ったのか、長石さんに合わせてその場を乗り切った。
「武彦」
しかし亜希ちゃんは気づいていた。
若井君達がエレベーターに乗り込むと、僕はロビーの端まで亜希ちゃんに引っ張って行かれ、
「私って、そんなに胸小さい?」
泣きそうな顔で言われたので心臓が止まりそうになった。
「ご、誤解だよ。あの子にこの間のお礼を言われただけで……」
僕はおたおたしながら、言い訳丸出しの事を言った。
「だって武彦、あの子と話している間、ずっと胸を見てたから……」
亜希ちゃんは目に涙を浮かべている。どうしよう?
「違うよ、そんな事ないって」
もうここは誠心誠意僕の真実を伝えるしかないと考えた。
「ホントに?」
亜希ちゃんは潤んだ目で僕を見る。
「ホントだよ」
僕も亜希ちゃんを真っ直ぐに見た。
「じゃあ、態度で示してよ」
「え?」
ロビーは人影がまばらになって来たとは言っても、誰もいない訳ではない。
「わかった」
僕は恥ずかしかったけど、それで亜希ちゃんの誤解が解けるならと思い、キスした。
幸い、誰にも見られなかったみたいだ。
「ありがとう、武彦。ごめんね」
亜希ちゃんはそう言うと飛びきりの笑顔で小首を傾げた。
「う、うん」
何があっても僕は亜希ちゃん一筋。それは絶対に揺るがない事だ。
でも、亜希ちゃんを不安にさせるような事はしないように心がけないと。
それにしても、長須根さん、一体何の用だったんだろう?
気になるな。