その百五十五(姉)
私は磐神美鈴。とうとう大学を卒業する。
それも一大イベントだが、只今私の中での最大級のイベントは、婚約者の力丸憲太郎君のお姉さんの沙久弥さんの結婚式。
今月の二十四日に行われる。何だか自分の事のように嬉しいし、ドキドキしている。
今日は憲太郎君の柔道の合宿の合間を縫ってのデート兼ランチ。
いよいよオリンピック出場を懸けての最終選考会が始まるのだ。
「美鈴が舞い上がってどうするのさ?」
憲太郎君は相変わらず落ち着いている。
どちらかと言うとすぐにテンパってしまう私にはちょうど良いダーリンだ。
「そうなんだけどさあ。沙久弥さん、とっても幸せそうだから、何だか私まで嬉しくて……」
そう思っただけで涙が零れそうになる。女子なのだから仕方ない。
「おいおい、それだけの事で泣くなんてやめてよ、美鈴。本番どうなっちゃうのさ?」
憲太郎君も私が涙ぐんでいるのを見て目を潤ませている。
実は、隠れお姉さん子の憲太郎君は、本当は沙久弥さんの結婚が決まって悲しいのだ。
でも絶対にそれを私には知られたくないらしい。
でも、私にも弟がいるから、何となくわかっちゃうんだよね。
そんなとこも全部ひっくるめて、彼が好きなんだけど。
「ありがとう、憲太郎」
私が涙を拭いながらそう言うと、憲太郎君はキョトンとして、
「憲太郎?」
私は苦笑いして、
「そう、憲太郎。リッキーって呼び方、もう卒業しないとね」
「え? どうして?」
憲太郎君はますます不思議そうな顔になる。
「だって、私もリッキーになるんだよ? そうするとおかしいじゃん、そんな呼び方」
「ああ、そうか。美鈴に『リッキー』って呼ばれ続けてたから、あまりそういうの、感じてなかったよ」
憲太郎君は爽やかな笑顔で言った。ああん、素敵!
「でも、嬉しいよ、美鈴。呼び捨てって、凄く親近感が増すし」
「そうね」
私も飛びっきりの笑顔で応じた。
「武彦君も亜希さんを呼び捨てにしているらしいし、亜希さんも武彦君を呼び捨てにしているらしいから」
憲太郎君のその話は初耳だった。あいつ、「私の弟」のくせに何て事を!
「あれ、今の話、まずかったかな?」
私の眉間に皺が寄ったのを見た憲太郎君が気遣わしそうに言う。
「武彦が亜希ちゃんに呼び捨てにされるのは仕方ないし、それが当然だけど、あいつが亜希ちゃんを呼び捨てにするのは百年早いわよ」
「いや、それだと武彦君、結婚しても呼び捨てにできないんじゃ……」
憲太郎君が呆れているのはわかっていたが、取り敢えず今は姉の威厳を見せつけようと思った。
「当然。あいつは一生亜希ちゃんには頭が上がらない人生なの」
私はフッと笑って言った。憲太郎君は肩を竦めて、
「美鈴がどんなに武彦君を脅しても、武彦君は応じないと思うよ」
「え?」
何だか凄くドキッとする言葉。
「どういう事?」
私は思わず身を乗り出して尋ねた。すると憲太郎君は私をジッと見て、
「呼び捨ては亜希さんから言い出した事なんだ。だから、無理だよ」
「あ……」
私はまた武彦を亜希ちゃんから取り戻そうとしている自分に気づいた。
「美鈴だって、姉貴があれこれ僕との事で口出しして来たら嫌でしょ?」
憲太郎君はニッとして尋ね返して来た。
「う、うん……」
あー、恥ずかしい。まさに「穴を掘ってでも入りたい」心境だ。
「僕も姉貴がいるから、武彦君の気持ちがよくわかるんだ。だからもう武彦君は亜希さんに任せて、そろそろ全面的に僕の方を見てくれないかな?」
憲太郎君が私の右手にそっと自分の右手を重ねる。
そこからまるで魔力が伝わったかのように私の全身が火照って来た。
「はい」
私は更にその上に左手を重ね、憲太郎君も左手を重ねる。
さすがにレストランの中でキスはできないので、そこで終了だったけど。
お店を出て、舗道を歩き始めた時、私はある事を思い出した。
「そうだ」
「何?」
組んでいた腕をギュッとしたので、憲太郎君はビクッとしたみたい。
私って、怖がられてるの?
「この前、お祖父ちゃんの家に母さんと武彦と三人で行ったの、話したよね?」
「うん」
私は上目遣いで憲太郎君を見る。心なしか、憲太郎君の顔が赤い。ムフ。
「一つ、憲太郎に言い忘れていた事があるんだ」
「何?」
更に警戒を強めたような憲太郎君の顔。ううう、ちょっと傷つくぞ、そのリアクションは!?
「今度、憲太郎を連れて来てって言われたの」
「何だ、驚かさないでよ、何かと思ったよ」
憲太郎君はホッとした顔で言った。何を言われると思ったのだろうか?
「だから、今度、オリンピック出場の報告も兼ねて、一緒に行こう」
私は身体を密着させて甘えるように言った。
「オリンピックの事はどうなるかわからないけど、美鈴のお祖父さんとお祖母さんにはお会いしたいよ」
「また、そんな弱気な事を! 気合入れろ、憲太郎」
私は元気が出るようにまた不意打ちでキスした。もちろん、唇にね。
「わわ、美鈴、みんなが見てるって!」
憲太郎君は周囲の視線が集まるのを気にしているが、私は構わない。
「憲太郎がオリンピックに行けるのなら、私はここで裸にだってなれるよ」
嘘じゃない。本気だ。でもそんな事をしても出場が決まる訳ないのはわかっている。
それに私がそんな事をしたら、逆に候補から外されてしまうのもわかっている。
「ありがとう、美鈴。気合入れるよ」
憲太郎君は優しい笑顔で返してくれた。
やっぱり最高のダーリンだ。