その百四十八
僕は磐神武彦。大学生。
すでに大学は休暇に入っており、現段階では一年でも二年でもない状態だ。
今日は姉の婚約者の力丸憲太郎さんのご家族と一緒に食事をした。
「美鈴はもう少しあちらのご家族に慣れないと」
母の提案で決まった食事会を驚く事に逃亡しようとした姉。
どうしようもない。
「やっと沙久弥さんと普通に話せるようになったんだから、お義母さんとはもう少し時間がかかるのよ」
涙目で言う姉は何となく可愛かった。
昼食を食べたのだが、話も弾んで時間が過ぎ、家に帰る頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。
「母さん、明日仕事なんでしょ? 大丈夫?」
姉が自分の話題になると困るのか、母の心配をするフリをした。
「大丈夫よ。明日は遅番だから」
姉の企みを見抜いているのか、母はニヤリとして言った。
少しだけ悔しそうな姉。全く……。
僕の彼女の都坂亜希ちゃんの家の前を通り過ぎる。
今日は力丸家と食事会と伝えてあるが、やっぱり一日顔を合わせないのは寂しい。
メールを送信しておこうかな。
そんな事を考えた時だった。
「ねえ二人共、こんな時間になっちゃったから、夕ご飯も外ですませない?」
我が家を目前にして、いきなり母が言った。
「え?」
僕と姉は驚いて母を見た。
出かける時に炊飯器を予約セットして、味噌汁も作って、鯵のフライも揚げたのに。
帰宅したら、レンジでチンするだけの夕食をやめて、いきなり外食を提案するなんて、どうしたんだろう?
「夕ご飯は出かける時に用意したんだから、家に帰って食べればいいよ。外食なんてするの、無駄遣いだよ」
姉が言った。すると母は苦笑いして、
「とにかく、行こう」
と言うと、我が家の直前の角を曲がってしまった。
「ちょっと母さん、待ってよ」
姉が大声で母を呼び止めようとした。でも母は立ち止まらずに行ってしまう。
「どうしたんだろう?」
姉は僕を見て首を傾げた。僕も首を傾げ、
「さあ?」
と応じるしかない。
「珠世」
後ろから母の名前を呼ぶ声が聞こえた。
あれと思って振り返ると、黒いコートを着た白髪頭のお爺さんが立っていた。
「珠世だよな? 待ってくれ。私の話を聞いてくれ」
お爺さんはそう言うと、僕と姉の間をすり抜けて、母を追いかけた。
「誰?」
思わず姉に訊いてしまう。
「知らないよ」
姉にも心当たりがないらしい。
「母さんの知り合い?」
「でも、『珠世』って呼び捨てにするって……」
まさか母さんの彼氏? いやいや、それにしては年上過ぎる。
「珠世」
そのお爺さんはとうとう母に追いつき、前に回り込んだ。
僕と姉は顔を見合わせ、母のところに駆け寄る。
「母さん、この人、誰?」
姉はお爺さんを警戒しながら母に尋ねた。
すると母は、
「母さんのお父さんだった人」
とムッとした顔で言った。
「えええ!?」
僕と姉はすっかり仰天して叫んでしまった。
母のお父さんて事は、僕らのお祖父ちゃん?
そして、我が家の居間。
「どうぞ」
苦笑いして姉がお茶を出す。
ソファに座ったお祖父ちゃんはぎこちない笑顔で、
「ありがとう」
と言って会釈した。
母はその向かいでまだムスッとした顔をしたままだ。
母が急に「夕食も外で」と言い出したのは、家の前にお祖父ちゃんが立っているのを見たからだったのだ。
「尊さんの葬儀にも来なかったのに、よくもこの家に顔が出せたわね」
母がようやく口を開いた。
それは姉にも僕にも衝撃的な話だった。
僕達の父である尊は、姉が六歳、僕が三歳の時に交通事故で亡くなっている。
その葬儀に母の父親であるお祖父ちゃんは出席しなかった?
って言うか、僕にお祖父ちゃんがいたなんてずっと知らなかった。
考えてみると確かに不思議なのだが、ウチの仏壇には父の位牌しかない。
友人の家にいったりして仏壇があると、全部の家ではないけど、位牌がいくつもある家もある。
あるいは、お爺さんやお婆さんが一緒に住んでいるお宅もある。
ウチは同居する祖父母もいなければ、位牌もない。
こうして思い返してみると、不思議な家だった事に気づいた。
小さい頃からお祖父ちゃんやお祖母ちゃんとの交流もなかった。
それを別に何とも思わずに生きて来たのは、最初から祖父母の存在がなかったからだろう。
「それは……」
母にそう言われ、お祖父ちゃんは口籠る。
僕はまた姉と顔を見合わせるが、何も言う事ができない。
何しろ、お祖父ちゃんに生まれて初めて会ったのだ。
何を言えばいいのか思いつかないのだ。
「とにかく帰ってください。話す事は何もありませんから」
母はそう言うとお祖父ちゃんを居間から追い立てるようにして出し、玄関へと押して行ってしまう。
「母さん……」
溜まりかねて姉が意見しようとしたが、
「あなた達は黙ってなさい!」
いつになく厳しい顔で母が怒鳴った。
いや、母が大声を上げるのなんて、生まれて初めて見た気がする。
「また来るよ」
お祖父ちゃんは寂しそうに笑って僕と姉を見ると、玄関を出て行った。
母は玄関に鍵をかけ、明かりを消してしまった。
こんなに感情を剥き出しにする母を見るのも初めてだった。
居間に戻って人心地つくと、母は僕達に事情を話してくれた。
「母さんと父さんは駆け落ち同然の結婚でね。どちらの両親も猛反対していたの。だから、結婚後は母さんも父さんも実家と一切交流がなくなってしまって……」
母は涙ぐんでいる。姉はすでにもらい泣きしそうだ。
「ウチの両親は父さんの葬儀にも顔を出さなかった。父さんの両親もね。だからもう絶対に行き来はしないって、誓ったのよ」
「でもさ、もう十七年だよ、母さん。もう許してあげようよ」
姉は涙を流しながら言った。僕もそう思った。
「ごめんね、二人共。今は頭に血が上ってしまって、冷静になれない。明日、連絡してみるよ」
母は涙を拭って居間を出て行った。
「お前も姉ちゃんの意見に賛成だよな、武?」
潤んだ目で姉が尋ねる。僕はそれにキュンとしてしまい、
「もちろんだよ。お祖父ちゃんと母さんが仲違いしたままなんて嫌だよ」
「そうだな」
姉は僕を何故か抱きしめてくれた。
こんな深刻な話題の最中になんだけど、また例のあれがムニュウッて当たって来る。
これからどうなるんだろう? 何となく不安だった。