その百四十六
ボクは磐神武彦。大学一年。
後期の試験も終了し、実質的にはすでに一年のカリキュラムは終了している。
思い返してみると、早かった。
いろいろアクシデントもあったけど、総じて穏やかな一年だったと思う。
今日は日曜日。ゆっくりしていようと思った矢先の事だ。
「たっけくーん」
相も変わらず、ノックなしでいきなり僕の部屋に入って来る姉。
「姉ちゃん、ノックくらいしてよ。着替え中だったらどうするのさ?」
僕はちょっとだけ勇気を振り絞って抗議してみた。
「武だってこの前姉ちゃんの着替え中に入って来たじゃん」
姉は悪い魔女のような顔で言う。僕はドキッとした。
確かに以前、姉が高熱で寝込んでいた時、寝ているものだと思い込んでノックなしで入り、姉の裸を見てしまった事がある。
想像以上に大きかった、なんて思い出している場合ではない。
「そ、それは……」
僕は顔が赤くなるのを感じて、俯いた。
「だからって、姉ちゃんはあんたの裸なんか見たい訳じゃないからね」
愉快そうに言われ、何となく癪に障った。
「でも、安心したよ」
僕は話題を変えようと思って言った。
「何が?」
姉はキョトンとしている。僕はクスッと笑って、
「母さんに怒られた時、姉ちゃん、随分落ち込んでいたからさ。元気になったみたいだね」
婚約者の力丸憲太郎さんのお姉さんである沙久弥さんにスーツを買ってもらった事を母に話したら、案の定酷く叱られたのだ。
姉の顔がキッとなった。やばい! そう思った時はもう遅かった。
「あんた、やっぱり面白がってたな、姉ちゃんが怒られているのを!」
電光石火の早技でスリーパーホールドを決められてしまった。
「そ、そんな事ないよ、僕だって一緒に謝ったじゃないか!」
僕は姉の腕を振り解こうとしたが、どうする事もできない。
「母さんは私があんたに強制したって思ってたよ! あんたの好感度が上がっただけでしょ、結果的に!」
姉は更に力を入れて来た。いかん、呼吸ができなくなりそうだ。
そして同時にあれが背中にムギュウッて……。
「姉ちゃん、死んじゃう、死んじゃうよ……」
僕は必死になってタップしたが、姉は攻撃の手を緩めてくれない。
「そう言ってホントに死んだ人っていないよ」
フッと笑った姉は本当に怖かった。
「あんた、姉ちゃんのおっぱいが背中に当たっているのを喜んでるでしょ?」
姉は絞めるのをやめながらそう言った。
「え……」
嫌な汗が全身から凄まじい勢いで噴き出した。バレてる……?
「亜希ちゃんに教えてあげよう。武はスリーパーホールドをすると喜ぶよって」
「えええ!?」
僕は仰天して姉を見た。姉は腹を抱えて笑っている。
「あんた、リアクション芸人みたいだね。おかしい!」
完全に遊ばれている。何だかすごく悔しい。
だから危険を覚悟で言ってみる。
「そうだね。亜希ちゃんのスリーパーホールドの方が、姉ちゃんのよりいいかも」
何故か姉は一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、
「やっぱり姉ちゃんのおっぱいを喜んでたな、変態!」
そう言われると、もう反撃できない。
「早速亜希ちゃんにメールしよう。武は私のおっぱいが好きですって」
姉は携帯を取り出して嬉しそうに打ち始めた。
「わああ、やめてよ、姉ちゃん!」
僕は携帯を取り上げようとして姉に手を伸ばした。
そんなのを送られたら、亜希ちゃんに絶交されてしまう!
「あ」
姉が携帯をスッと横に動かしたせいで、僕の手は空を切り、そのままその向こうにあった姉の胸をムンズと掴んでしまった。
時間が止まったような気がした。何、この感触?
「何してんの、バカ!」
さっきまでふざけて笑っていた姉が激怒し、僕は思い切りビンタされてしまった。
「事故だよ、事故! でも、ごめん、姉ちゃん」
僕はヒリヒリするほっぺたを撫でながら謝った。
「姉ちゃんこそ、ごめん」
姉はそう言うと、ドアを開いて出て行く。
「最近、姉ちゃんと絡んでくれないから、調子に乗った。ごめんな」
姉は寂しそうな顔で言ってドアを閉じた。
嫉妬? 亜希ちゃんに姉が嫉妬?
ううう、何とも複雑……。