その百四十四
僕は磐神武彦。大学一年。もうすぐ二年になる。
大学生活はいろいろな事が初めてで、忙しく過ごした感じがする。
電車で通学も初体験だし、彼女の都坂亜希ちゃんとほぼ毎日手作りのお弁当を食べたのも初体験。
同じ外国語クラスの長石姫子さんに振り回され、揚げ句、その後長石さんの彼になった若井建君に殴られたのも初体験。
それから、やはり同じ外国語クラスの丹木葉泰史君に頼られて、幼馴染の橘音子さんとの間に入り、精神的に参ったのも初体験。
そして何より、一番の初体験は、亜希ちゃんとの大人のキス。
元々は、長石さんの妙な横槍が切っ掛けだったけど。
それつながりで、僕は非常に恥ずかしい思いをした事も思い出した。
それも初体験。その時、亜希ちゃんに「変態!」って言われなくてホッとした。
そんな回想をしていると、
「武君、起きてる?」
全然似ていないと何度も言っている亜希ちゃんの真似をして、姉がドア越しに呼びかけて来た。
まあ、いきなり入って来ないだけマシかも知れないけど、何だかムカつく。
「起きてるよ。何?」
「沙久弥さんにお呼ばれしていて、これから出かけるんだけど、武も行く?」
妙に猫撫で声なのが気にかかる。
婚約者の力丸憲太郎さんのお姉さんの沙久弥さんには、まだ緊張するのかな?
「僕は呼ばれてないから、姉ちゃん一人で行ってよ」
今日は亜希ちゃんと改めて神社にお参りして、その後今年最初のデートなんだから。
「ふーん。わかった。沙久弥さんには、武が会いたくないと言ってましたと伝えとくね」
姉の悪巧みなその一言に僕は心臓が飛び出そうになった。
どうしよう? 姉なら本当にそう言いそうで怖い。
沙久弥さんはそれを真に受ける人ではないと思うけど、それでも僕の印象が悪くなるのは確かだ。
だからと言って、亜希ちゃんとの約束をなしにして、沙久弥さんに会いに行ったなんてわかったら、多分亜希ちゃんは絶対に許してくれないだろう。
どうしたらいいんだ……。
「焦ってるな、武?」
黒のスウェット上下の姉がドアを開き、ニヤリとして言った。
「お前なあ、亜希ちゃんと約束があるんだろ? どうしてそれを言わないんだ?」
姉は何故か僕を窘める立場に移行していた。
何て変わり身がうまいんだろう。
「え、でも……」
僕は言い澱んだ。その言い訳は、どう考えても、亜希ちゃんと沙久弥さんを天秤にかけたと言ったも同然だからだ。
「沙久弥さんにはそんな事言わないよ。姉ちゃんはそこまで性格悪くないぞ」
アニメ風の声で姉は言った。そうだろうか?
「何だ、その疑いの眼差しは!」
いきなりヘッドロックの姉。ムニュッと例のあれが当たるが、いつもと違ってやけにダイレクトな感触……。
「あ!」
姉も気づいたのか、慌てて離れた。
「いかん、まだノーブラだったのを忘れてた」
顔を赤らめ、姉は自分の部屋に駆け込んだ。僕はもっと顔が赤くなっていたと思う。
そんな事があったので、朝食は気まずい空気が流れた。
「どうしたの、二人共、黙ったままで?」
事情を知らない母は不思議そうに僕達を見ていた。
「ハハハ、何でもないよ、母さん」
姉は渇いた笑いで応じた。僕は苦笑いしただけだ。
「ならいいんだけど」
母は自分の食器を洗いながら言った。
しばらくして、姉は母に着付けを手伝ってもらい、振袖姿で出かけて行った。
何となくだが、僕に一緒に行って欲しいような目をしていた気がする。
姉が出かけるのを見送ってから、僕も支度をした。
「行って来ます」
洗濯をしている母の背中に声をかけ、家を出た。
亜希ちゃんの家に向かって歩き出した時、振袖姿の亜希ちゃんが立っているのが目に入った。
おお! 奇麗だ! また一段と奇麗だ! 僕は貯金で買ったデジカメをコートのポケットから取り出した。
「武彦!」
亜希ちゃんも僕に気づき、手を振ってくれた。
僕も手を振り返し、駆け寄る。
去年も亜希ちゃんの振袖姿を見たけど、今年の亜希ちゃんはお化粧もしているみたいで、色っぽい。
惚れ直した、という言葉が一番合っている。
可愛い唇も薄らと口紅を塗ったらしく、ツヤツヤしている。
「今年の初撮り!」
僕はデジカメを構えて亜希ちゃんを撮影した。
最初は照れ臭そうにしていた亜希ちゃんだったが、
「奇麗だよ、亜希。本当に女神様みたいだ」
僕がいろいろと誉めているうちに乗って来たのか、ピースサインをしたり、ちょっとお澄まし顔になったりしてくれた。
「やだ、恥ずかしい」
それをすぐにその場で見られるのが、デジカメの素晴らしさだ。
亜希ちゃんは自分の姿を見て顔を赤くしていた。
それもまた可愛い。ああ、バカップルだな、これじゃあ。
「そろそろ行こうか、武彦」
「うん」
腕を組んで歩き出す。
今日は、都坂家がいつもお参りしている大きな神社に行く。
亜希ちゃんの話だと、お父さんが一緒に行くつもりだったらしい。
でも、お母さんに叱られて、ションボリしているそうだ。
何だか気の毒だな。
「どこかでお母さんとお父さんにお土産を買って来ようか」
僕は提案してみた。
「うん。ありがとう、武彦」
亜希ちゃんはとびっきりの笑顔になった。
電車を乗り継ぎ、神社の最寄り駅に着いた。
凄い人手だ。混雑したところが苦手な僕は、尻込みしそうになった。
でも、亜希ちゃんがいるので、そんな事はできない。
人混みをかき分け、亜希ちゃんを庇いながら、神社へと進んだ。
ヘトヘトになりながら、何とかお参りをすませた僕達は、本番のデートに行く。
亜希ちゃんが振袖なので、遊園地という訳にはいかない。
まずは神社の近くにある喫茶店で休憩した。
「着物って、疲れる」
亜希ちゃんは椅子に座ると、フウッと大きな溜息を吐いた。
「大丈夫、亜希?」
僕は心配になって尋ねた。
「大丈夫。私、こう見えても、大和撫子ですから」
亜希ちゃんはそう言ってクスッと笑った。
「うん、そうだね」
確かに大和撫子だ。喫茶店の中の多くのお客さんが、亜希ちゃんを見ている気がする。
決して、僕の錯覚ではない。
あるカップルは、それが元で喧嘩を始めているくらいだから。
「出ようか」
携帯で時刻を確認し、僕は席を立った。
「うん」
亜希ちゃんが立ち上がる時にさり気なく手を貸す。
「ありがとう、武彦」
亜希ちゃんはとても意外そうな顔でお礼を言ってくれた。
以前の僕は、そういう気遣いに欠けていた事を知ったのだ。
だから今年は気遣いを徹底する事にした。
もちろん、会計は僕がする。
「お待たせ」
先に店を出た亜希ちゃんに声をかけ、腕を組んで歩き出した。
「何だか、今日の武彦、カッコいい」
亜希ちゃんが耳元で囁いたので、ドキッとした。
「今までカッコ悪かったからね」
僕はおどけて言った。すると亜希ちゃんは、
「あ、やだ、そういう意味で言ったんじゃないよ」
「わかってるよ」
焦る亜希ちゃんもとても可愛い。ああ、やっぱりバカップルだ。
「意地悪」
亜希ちゃんは微笑んでそう言った。ギクッとしたけど、その後木陰に誘われ、大人のキスをしたから、怒っている訳ではないのは確かだ。
「今年もよろしくね、武彦」
「こちらこそよろしくね、亜希」
そう言い合って、もう一度軽くキスをした。
今年もいい年にするぞ!




