その百四十二
僕は磐神武彦。大学一年。
幼馴染で彼女でもある都坂亜希ちゃんの従妹の真弥さんが僕達の前に現れた。
彼女は亜希ちゃんに僕を奪うと宣言して来た。
一体どういうつもりなのだろう?
事情を知った丹木葉泰史君と橘音子さんが協力してくれて、丹木葉君は僕に、橘さんは亜希ちゃんに同行してくれた。
結局、その日は真弥さんはどちらにも姿を見せなかった。
ますます彼女の真意を測りかねてしまった。
翌日の朝。
僕はいつもより早めに家を出て、亜希ちゃんを迎えに行った。
幸い、真弥さんが来た様子はなく、僕達はホッとして駅へと歩き出した。
「もう来ないのかもね」
亜希ちゃんが呟いた。
「そうだといいんだけど……」
僕はまだ気がかりだ。
何せ、亜希ちゃんにメールで「奪う」と宣言して来たのだ。
それを何もしないままで終了なんて、ちょっと考えにくい。
「何? 武彦は、真弥ちゃんにもう一度会いたいの?」
亜希ちゃんはムッとした顔で僕を見た。ギクッとした。
「そ、そんな事ないよ。只、あれだけのメールを送って来ておいて、何もしないでいなくなるなんて、ちょっと変だなって……」
誤解されないように言葉を選んで言う。嫌な汗が出て来た。
「そうね。変よね。ごめんね、嫉妬深くて」
亜希ちゃんはバツが悪そうに詫びてくれた。
「いや、別にいいよ。僕の言い方が悪かったんだから」
嫌な汗、引っ込め、と思いながら応じた。
大学に到着する間にも、真弥さんは現れなかった。
「やっぱりもう来ないのかな」
僕はついそう呟いてしまった。
「その言い方、明らかに心待ちにしてるって感じだけど?」
亜希ちゃんが目を細めて言う。また心臓がドキンと跳ねた。
「そんなつもりはないんだけど……。そう聞こえたのなら、ごめん」
素直に謝る。亜希ちゃんは訝しそうに僕を見たままだ。
「そんなに真弥ちゃんのキスが良かったの?」
とんでもない事を言われた。
あの時の光景を思い出し、顔が火照る。
全く予期していない行為だったので、本当に驚いたのだ。
「違うよ。そんな事ないって」
僕は慌てて言った。すると亜希ちゃんは僕を木陰に引き込んで、
「私のキスの方が絶対いいよ、武彦」
と言うと、もしかすると誰かに見られるかもというような状況下であるにも関わらず、僕にキスして来た。
それも濃厚な……。唇を離した時、互いの唾が糸のようにだらんと伸びた。
「どう? 私の方がいいでしょ?」
亜希ちゃんは唾をティッシュで拭いながら言った。
「うん」
僕はお返しとばかりに亜希ちゃんにキスをする。もちろん、濃厚な奴。
「大好きよ、武彦」
「僕もだよ、亜希」
端から見れば、完全にバカップルにしか見えないだろうけど、それは本当の気持ちだった。
こうして僕達は、絆を確かめ合って、学部棟へと歩き出した。
講義が終わった。丹木葉君と橘さんがまた同行を申し出てくれたが、
「もう大丈夫みたいだから」
と丁重にお断わりした。
「何かあったら、連絡ちょうだいね」
橘さんが言ってくれた。
「ありがとう」
僕と亜希ちゃんはお礼を言って、そのまま大学を出た。
そうは言ったものの、まだ不安なのは僕も亜希ちゃんも一緒。
二人きりになった途端、ギュッと腕を強く組んだ。
何があっても、二人で乗り越えると決意して。
すると、本当に驚くべき事が起こった。
僕達の前に、忍さんと真弥さんが現れたのだ。
忍さんはバツが悪そうな顔をしており、真弥さんは僕達を睨みつけている。
(妹の仇を兄が討ちに来たのか?)
思わず姉と同じような発想をしてしまった。
「こいつがとんでもない事をしたみたいなので、やっと居場所を突き止めて、引っ張って来たんだ」
忍さんの言葉は意外なものだった。真弥さんが現れなかったのは、忍さんが探していたからなのか。
僕と亜希ちゃんは思わず顔を見合わせた。
僕達は駅前の喫茶店(以前西郷隆さんに付き添ったところ)に入った。
「どういう事、忍さん?」
注文をすませると、亜希ちゃんが切り出した。
真弥さんはさっきから押し黙って僕達を睨み続けたままだ。
「真弥は、亜希ちゃんが武彦君と付き合っているのをぶち壊したかったんだってさ」
「どうして?」
亜希ちゃんは真弥さんを見た。僕も真弥さんを見る。
しかし、真弥さんは何も言わない。
「こいつ、昔からそうなんだよ。人のものが欲しくなるんだ」
忍さんは呆れ顔で真弥さんを見た。
いや、人のものって、そういうレベルの話ではないでしょ?
「そんなの理由にならないわ。どういう事なの、真弥ちゃん?」
亜希ちゃんは少し怒っているみたいだ。遊び半分で僕に近づいたのだとしたら、余計許せないのだろう。
「……ちゃんが亜希さんを好きだから……」
真弥さんがボソッと何か言ったが、最初の方が聞き取れなかった。
「え? 何だって?」
隣にいた忍さんにも聞き取れなかったみたいだ。
そこへ注文した飲み物が運ばれて来た。
僕達はウエイトレスさんが立ち去るのを待ってから、再び真弥さんを見た。
「お兄ちゃんが亜希さんを好きだから!」
真弥さんはいきなり大声でそう言った。
「え?」
忍さんはキョトンとして亜希ちゃんを見た。亜希ちゃんもポカンとしてしまった。
只一人、何となく真弥さんの気持ちがわかる僕がいた。
(真弥さんて、お兄ちゃん子なんだ……)
急に親近感を感じてしまった。だが、その考えは違っていた。
ブラコンの妹が、可愛い嫉妬をしたのではなかったのだ。
「私はずっと前からお兄ちゃんの事大好きなのに、お兄ちゃんは全然気づいてくれなくて、亜希さんの事ばっかりで……。だから東京に出て来たのよ」
「ええ!?」
その言葉には僕も衝撃を受けた。それってまずい考えなんじゃ……。
「何言ってるんだよ、真弥。お前は僕の妹なんだぞ。きょうだいで好きだなんて、ダメだろ?」
忍さんも酷く動揺しているのか、唇が震えていた。
亜希ちゃんはもう限界を超えてしまったのか、目を見開いたままで何も言わない。
僕も唖然としてしまった。
「だって、お兄ちゃんと私は、本当のきょうだいじゃないもん!」
真弥さんは涙を流して大声で言った。周りのお客さんばかりでなく、店の人達までも何事かとこちらを見た。
「確かに僕と真弥は母親が違うけど、でもきょうだいなんだよ。そんな考えを持ったらダメだ」
忍さんは真弥さんの肩を掴んで言った。すると真弥さんはその手を振り払い、
「違うよ! 私とお兄ちゃんは血がつながっていないの! お兄ちゃんのお父さんと私のお父さんは違うの!」
更に驚くべき事を真弥さんが告げた。忍さんは仰天してしまったようだ。
僕は比較的冷静になってその会話を聞いている自分が不思議だった。
「私は、お母さんの連れ子で、お兄ちゃんのお父さんの養女なの。だから、お兄ちゃんを好きになったっていいんだよ!」
真弥さんは泣きながらそう言うと、忍さんに抱きついた。
「真弥……」
忍さんはどうしたらいいのかわからないような顔で泣きじゃくる真弥さんを見ていた。
しばらくして、真弥さんは泣くのをやめ、落ち着いて来た。
「ごめんなさい、亜希さん、武彦さん」
真弥さんは涙を拭いながら詫びてくれた。忍さんも、
「迷惑かけたね。後は二人で話すから。ごめんね、二人共」
と言ってくれた。
会計で、忍さんが全部払うと言ってくれたが、僕と亜希ちゃんは自分達の分は払うと主張し、何とか折れてもらった。
「武彦さん、好きでもないのにキスしてごめんなさい」
真弥さんが店を出たところで言った。忍さんがビクッとした。
「そ、そんな事したのか、お前?」
兄として、そしてもしかしたら彼氏になるかも知れない立場として、忍さんは複雑な表情をした。
「いや、別に謝ってもらわなくても……。むしろ謝るのは、亜希に対してだと思うけど?」
僕はまた亜希ちゃんの機嫌が悪くなっているのを感じ、咄嗟にそう言い繕った。
「そうよね。武彦さんは、女子高生とキスできて、得したんだもんね。ごめんなさい、亜希お姉ちゃん」
真弥さんがやっと笑顔になった。それを見て僕も笑ってしまった。
「何がおかしいの、磐神君?」
亜希ちゃんの「磐神君攻撃」が出てしまい、僕はまた嫌な汗を掻いた。
店の前で忍さん達と別れ、駅へと向かう。
真弥さんはお母さんに黙って東京に出て来たらしいので、忍さんが付き添って九州まで行くらしい。
これからが大変だな、あの二人。
「武彦、少しは気をつけてよね。貴方が無防備過ぎるから、そういう事になるの」
亜希ちゃんはニコニコしながら言った。
「すみません」
僕は少し落ち込んでいたので、ションボリして謝った。
「ああ、そんなに気にしないで、武彦」
亜希ちゃんは僕が落ち込んだ理由を知らないので、慌てていた。
僕が落ち込んだ理由。それは真弥さんに、
「好きでもないのにキスしてごめんなさい」
と言われたから。別に真弥さんに好意がある訳ではないけど、そんな事を言われるとやっぱり落ち込む。
これは絶対に亜希ちゃんには知られないようにしないと。
バイトを終える頃には、僕はすっかり復調していた。
亜希ちゃん以外の女の子とキスをした事がないのを思い出し、真弥さんとのキスが貴重な体験だったと思ってしまう。
あれ、そう言えば、中学の同級生の櫛名田姫乃さんともしたっけ。そんな事ばかり覚えていて、ダメな奴だ。
本当にごめんね、亜希ちゃん。
そして、家に帰ると、また姉が玄関で待っていた。
「どうなった?」
最近、芸能レポーターのような顔になって来たと思う。
少し鬱陶しいかも。言えないけど。
僕は掻い摘んで話をした。
「ふうん。お漏らし君、少しだけ見直した」
姉は腕組みをして大きく頷いた。相変わらず、忍さんはお漏らし君のままだ。
あ。姉を見てまたまずい事を思い出した。
「何?」
僕がジッと見ているのに気づき、姉がムッとした顔で睨んで来た。
「いや、別に。お休み、姉ちゃん」
僕は絡まれないうちにとサッサと階段を駆け上がった。
「もう、武君たら、つれないんだからあ」
まだ似ていない亜希ちゃんの物真似をする姉。いろいろしつこいなあ。
部屋に入って、鏡を覗き込む。赤くなっていなくてホッとした。
もう一人、女の子とキスした事があるのを思い出したのだ。
我が姉……。何だかなあ……。