その百四十一
僕は磐神武彦。大学一年。
彼女の都坂亜希ちゃんの従妹の真弥さんが、
「貴女から武彦さんを奪うのでよろしく」
と亜希ちゃんにメールして来た。
真弥さんは理由は全く不明だが、明らかに亜希ちゃんに敵意を抱いている。
亜希ちゃんは真弥さんのメールのせいで眠れなくなり、一晩中悩んでいたそうだ。
だから僕は、電車の中だけでも眠らせてあげようと思い、普段は座席に座らないのに、亜希ちゃんを座らせ、その隣に座った。
亜希ちゃんは安心したのか、僕に寄りかかって可愛い寝息を立て始めた。
その寝顔があまりにも可愛くて、僕は危うく駅を乗り越してしまうところだった。
「ごめんね、武君」
まだ眠そうな目を擦りながら、亜希ちゃんが言った。
「亜希ちゃんは悪くないから。僕がボンヤリしていたのが悪いんだよ」
「ありがとう、武君」
多分、周囲の人達は、事情を知らないから、僕と亜希ちゃんを「バカップル」だと思っただろうな。
辛そうな亜希ちゃんを庇うように肩を抱き、大学まで歩く。
そのため、凄く注目されているのは感じていたが、気にならなかった。
今は亜希ちゃんをしっかり支えてあげないといけないんだ。
「おはよう、磐神君。朝からお熱いわねえ」
同じ外国語クラスの長石姫子さんが、彼氏の若井建君と現れた。
「おはようございます」
僕と亜希ちゃんは二人に挨拶した。
「都坂さん、具合悪いの?」
若井君は亜希ちゃんの様子を見て尋ねる。亜希ちゃんは弱々しく微笑んで、
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから」
「あらあら、寝不足な彼女を労わる優しい彼氏かあ」
長石さんがニヤリとして若井君を横目で見る。
「な、何だよ、姫子?」
若井君はギクッとしたようだ。
「最近、建は優しくないなあと思ってさ」
姫子さんが言った。すると若井君は、
「そんな事ないだろ?」
と言い返す。いつもなら微笑ましい痴話喧嘩も、今の僕達には辛いので、
「ごめん、先に行くね」
若井君にそう言うと、僕は亜希ちゃんを連れてキャンパスを進んだ。
「やっぱり具合悪いんじゃ……」
若井君がそう呟くのが聞こえた。
亜希ちゃんは、時間が経過するうちに段々元気になって来た。
というより、無理に元気に振舞い始めたのかも知れない。
そういう子だから、亜希ちゃんは。
「大丈夫?」
僕は講義が終わってホールを出る時、亜希ちゃんに尋ねてみた。
「うん、もう平気。今日は本当に武彦に迷惑かけて、ごめんね」
亜希ちゃんは呼び捨ての約束を思い出したみたいだ。
「全然迷惑なんかじゃないよ、亜希」
僕もすかさず呼び捨ての約束を履行した。
そして、いつものように中庭でランチをしようと歩き出したが、
「ごめん、武彦、私、お弁当忘れた……」
亜希ちゃんはまた落ち込みかけた。
「気にしないで、亜希。たまには学食で食べようよ」
「うん」
僕達はしばらく足を向けていなかった食堂棟に向かった。
一階の食堂で長い列ができている食券販売機の前に並んでいると、
「あれ、珍しいね、二人共」
丹木葉泰史君と橘音子さんが声をかけて来た。
「私がお弁当を忘れたの」
亜希ちゃんが苦笑いをして答える。
「へえ、そうなんだ」
丹木葉君は目を見開いて驚いている。
「一緒に食べない?」
橘さんが言った。断わる理由がないので、
「そうだね」
と応じた。
考えてみると、食堂で誰かと一緒に昼食なんて、入学以来初めてかも。
亜希ちゃんは橘さんと話すうちに少しずついつものような笑顔を見せるようになった。
「ねえ、磐神君」
丹木葉君が小声で話しかけて来た。
「何?」
僕は箸を止めて彼を見た。
「都坂さん、どうしたの? 今朝若井君に聞いたんだけど、元気なかったとか。お弁当を忘れたなんて、どうしたのかなと思って」
丹木葉君は本当に亜希ちゃんの事を心配しているのがよくわかる。
だからさっき、あんなに驚いていたんだ。
「ちょっと個人的な事で疲れたみたいで。ありがとう、心配してくれて」
僕は軽く頭を下げて礼を言った。すると丹木葉君は、
「当然だよ。僕達、友達でしょ? 友達の事を心配するのは、当たり前だよ」
と言ってから更に小声で、
「磐神君、まさか浮気してないよね?」
「え?」
僕は心臓が飛び出すのではないかと思うくらいギクッとした。
「何日か前の夜、音子の家から帰る途中で、磐神君と高校生の女の子が一緒にいるのを見たから」
僕は目を見開いてしまった。真弥さんが僕にキスしたのを見たのかな、丹木葉君は?
もう心穏やかではいられない。
どうしよう? 本当の事を話すべきだろうか?
僕は亜希ちゃんの肩にちょっと触れた。
「何、武彦?」
亜希ちゃんはニコニコして僕を見た。
僕はもの凄く言いにくかったが、
「丹木葉君が、僕と真弥さんが一緒にいたのを見たんだって。どうしよう?」
その途端、亜希ちゃんの顔が曇った。思い出したくない事を思い出させてしまったのだ。
「そうなんだ。誤解されても困るから、全部話していいよ。武彦が構わないのなら」
亜希ちゃんは悲しそうに微笑んで言う。僕は胸が締めつけられる思いがしたが、
「わかった。じゃあ、話すね」
僕は橘さんにも聞いてもらおうと思って声をかけ、二人に事情を説明した。
橘さんは呆気に取られている。丹木葉君も唖然としていた。
「泰史」
橘さんが丹木葉君に小声で何か囁いている。丹木葉君はそれに頷いて、
「そういう事なら、僕達が協力するよ。磐神君と一緒に帰るよ」
と僕と亜希ちゃんを見た。
「そうすれば、都坂さんの従妹の子も、磐神君に近づかないでしょ?」
橘さんはニコッとして言い添えた。
「ありがとう、二人共」
僕と亜希ちゃんは二人の申し出を快く受け入れた。
相手は女の子だから、僕以外に男子がいれば近づかないだろう。
「それでもやめないのなら、私が話をつけてあげる」
橘さんは真剣な表情で言った。
「磐神君と都坂さんには、いろいろ助けてもらったから、今度は私達が助ける番よ」
橘さんは見かけによらず気が強いようだから、真弥さんと十分渡り合えるかも知れない。
そんな訳で、その日は、亜希ちゃんと別れてからは丹木葉君が僕と一緒。
そして、亜希ちゃんには、念のためと橘さんが同行してくれた。
友達ってありがたいな。つくづくそう思った。
幸いな事に、その日は真弥さんはどちらにも現れなかった。
「帰りも心配だから」
丹木葉君がそう言ってくれたけど、さすがにそこまでしてもらっては悪いので、僕は遠慮して一人で帰った。
真弥さんは帰り道にも姿を見せず、僕は何事もなく家に辿り着いた。
亜希ちゃんに電話すると、
「こっちも大丈夫だよ。とにかく、何もなくて良かった」
「そうだね。お休み、亜希」
「お休み、武彦」
携帯を切り、家に入ると、姉が玄関で待っていた。
何が知りたいのかわかっているので、
「大丈夫だったよ。真弥さんは現れなかったから」
「そうか、良かったな」
姉もホッとしているようだ。僕は丹木葉君と橘さんの事を姉に話した。
「いい友達だな。大事にするんだぞ、武彦」
姉は目を潤ませて言ってくれた。こういう友情話に弱いのだ。
「でも油断するな。敵は諦めた訳じゃないからな」
姉はそう言うと、キッチンへと歩いて行った。
確かにそうだ。真弥さんと会うのは嫌だけど、一度話さないといけないかも知れない。
そんな僕の思いは、意外な形で実現する事になるのだが、その時には想像すらしなかった。