その百四十
僕は磐神武彦。大学一年。
幼馴染でその上彼女の都坂亜希ちゃんの従妹の真弥さんがバイトに行く途中で現れ、
「好き」
と言っていきなりキスして来た。
その事を姉に相談すると、亜希ちゃんには黙っていた方がいいと言われた。
ところが更にその次の日の朝、亜希ちゃんと談笑している真弥さんを見た。
亜希ちゃんに見えないところで不敵に笑ってみせた真弥さん。
一体どういうつもりなのだろうか?
また姉に相談すると、今度は亜希ちゃんに言えと言われた。
真弥さんが何か亜希ちゃんに言う前に話したほうがいいと。
僕もそう思ったので、次の日に話をするつもりでベッドに入った。
ところが……。
翌朝。
携帯が鳴っているのに気づき、僕は飛び起きた。
その着メロは、亜希ちゃん専用だからだ。
亜希ちゃんの大好きな歌手の曲なのだ。
「おはよう。どうしたの、こんなに朝早く?」
僕はシャキッと目を覚まして言った。まだ鳴っていない目覚まし時計を見ると五時だ。
「ごめんね、武君。まだ早いかなと思ったんだけど、どうしても我慢できなくてかけちゃった……」
亜希ちゃんの声は涙声だった。
何があったのだろう? ドキドキして来た。
その後、亜希ちゃんから聞かされた内容は、衝撃的なものだった。
真弥さんが、僕を待ち伏せしてキスした事をメールして来て、その上僕を亜希ちゃんから奪うと宣言していたというのだ。
ああ。僕が言う前に亜希ちゃんに伝わってしまった……。
黙っていた事を亜希ちゃんはどう思っているのだろうか……。
携帯を持つ手が震えてしまった。
「あの、亜希ちゃん……」
動揺していた僕は「呼び捨て」の約束を忘れてしまった。
「武君が真弥さんにキスされたのを私に話さなかったのは、武君が私に気を遣ってくれたからだと思っているから、気にしないで」
亜希ちゃんは必死に嗚咽を堪えながら言ってくれた。
彼女も「呼び捨て」を忘れていた。相当ショックのようだ。
その言葉に救われたと思ったが、亜希ちゃんの気持ちを考えると喜べない。
「でも、ごめん。黙ってたのは間違いだったと思う」
僕はどうにかそれだけは言えた。鼓動が高鳴り、息が苦しくなる。
「ありがとう、武君……」
亜希ちゃんはとうとう堪え切れなくなったのか、泣き出してしまった。
「真弥さんが何をして来ようと、僕は彼女に心を奪われたりしないよ。それだけは信じて」
僕は亜希ちゃんを元気づけたい一心でそう言った。
「ありがとう、武君」
その後しばらく亜希ちゃんの嗚咽だけが聞こえた。
「大丈夫?」
「うん。ごめんね、朝早く」
亜希ちゃんは声を震わせて詫びてくれた。
「気にしないで。僕達、恋人同士でしょ? そんな事、言わなくていいよ」
「うん」
互いにまた後でと言い合い、通話を切った。
真弥さん。
何を考えているんだ? 彼女の行動が理解できない。
また姿を見せるのだろうか?
もし現れるとしたら、僕が一人の時だから、バイト先までの経路かな?
気をつけないと。
「武、もう起きてるのか?」
姉の声がドア越しに聞こえた。
「ああ、ごめん、姉ちゃん。起こしちゃった?」
「それはいいけどさ。亜希ちゃんから電話だったのか?」
姉の声は神妙そうだった。何かあったと感じているようだ。
「うん」
僕はドアを開いて姉を中に入れようと思ったが、
「ダメ! 開けるな! いくら弟でも、今の姿は見せられない」
妙な事を言われた。まさか、また全裸で寝てたのか?
「と、取り敢えず、詳しい話は朝食の時に聞かせろ」
姉はそう言うと部屋に戻って行った。
母は早出ですでに出勤していた。
まあ、だからこそ、姉は朝食の時に話を聞くと言ったのだろう。
僕は深呼吸をしてから、事情を説明した。
「なるほどな」
姉は深刻な表情で頷く。
「何を企んでいるんだ、お漏らし妹は?」
姉にとっては、忍さんはどこまでいっても「お漏らし君」のようだ。
「わからないよ。真弥さんにそんな事をされる理由がないし」
僕は首を傾げた。すると姉は、
「兄貴の仇を妹が討つとか?」
以前僕に絡んで来た忍さんは、姉や姉の婚約者の憲太郎さんやお姉さんの沙久弥さんにやっつけられているからな。
可能性はあるかも知れないけど。
「うーん。どうなんだろう? その辺は亜希ちゃんにもう一度訊いてみるけど」
姉は顔をグッと近づけて、
「そうしろ。姉ちゃんはこの一件、複雑だと読んでいるんだ」
「面白がってない?」
僕はちょっとムッとして尋ねてみた。
「そ、そんな事ないよ」
妙に動揺したので、追及する気がなくなった。丸わかりだよ、姉ちゃん。
僕は朝食をすませ、出かける準備をすると、家を出た。
亜希ちゃんの家に向かうと、いつもの明るさが微塵も感じられない亜希ちゃんがそこにいた。
「亜希ちゃん」
僕は呼び捨てを忘れて呼びかけた。
「武君」
亜希ちゃんも忘れたままだ。目が赤くて、凄く痛々しい顔。悲しくなってしまう。
「歩きながら話そうか」
僕は亜希ちゃんの肩を優しく抱いて言った。
いつもなら恥ずかしくてできない事だが、それ以上に亜希ちゃんは弱っていて、今にも崩れそうな雰囲気だったのだ。
「うん」
亜希ちゃんは小さく頷き、歩き出す。
「忍さんが関係しているのかな?」
僕は早速尋ねてみた。すると亜希ちゃんは首を横に振って、
「昨日、忍さんに訊いてみたけど、真弥さんの事を嫌っているみたいだったから、関係ないと思う」
「嫌っている? 妹なのに?」
僕は目を見開いて亜希ちゃんを見た。亜希ちゃんは俯いたままで、
「真弥さんは、叔父さんが九州で出会った女の人に産ませた子らしいの。だから、僕の妹じゃないって……」
「そうなんだ……」
何だか、複雑な事情があるみたいだ。
「だとすると、どうして真弥さんは僕を亜希ちゃんから奪うなんて事を言ったんだろう?」
「私にもそれがわからないの」
真弥さんが亜希ちゃんに対して敵意があるのも謎だ。
亜希ちゃんが真弥さんに恨まれる事なんてあるはずがない。
何しろ、知り合ったのはつい先日なのだから。
やがて駅に着き、電車を待つ。
「昨日、全然眠れなかったの。武君の事、信じたいのに、どこかで信じ切れない自分がいて……」
亜希ちゃんは電車に乗りながらそう言った。
だからあんなに朝早く電話をかけて来たんだ。目が真っ赤なのはそのせいもあるのか。
「じゃあ、降りる駅に着くまで、寝た方がいいよ」
「え?」
亜希ちゃんは恥ずかしそうに僕を見た。
僕は亜希ちゃんを座席に座らせ、その隣に腰を下ろす。
「僕に寄りかかっていいから」
「うん」
亜希ちゃんは嬉しそうに頷いた。こんな時に何だけど、可愛過ぎるよ、亜希ちゃん!
それにしても、真弥さん、何を考えているのだろう? 不安だ。