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姉ちゃん全集  作者: 神村 律子
大学一年編
136/313

その百三十五

 僕は磐神いわがみ武彦たけひこ。大学一年。


 今日は日曜日。


 でも、いつもと雰囲気が違う。


 何故なら今日は、姉の婚約者である力丸憲太郎さんの一家がウチにいらっしゃるのだ。


 姉は朝五時から料理の準備をしているらしい。


 らしいというのは、僕が起きたのが七時で、母が起きたのが四時半だから。


 元々朝は弱い姉だったので、母に起こしてくれるように頼んだらしいのだが、結局一睡もできなかったようだ。


 さすがに気の毒になった。


 しかし、僕の予想に反して、姉はヘロヘロになっているどころか、テンションが高かった。


「おはようございます」


 八時頃になって、僕の彼女の都坂みやこざか亜希あきちゃんが来てくれた。


 姉がテンパる前にフォローをしてもらおうと思って、僕がお願いしたのだ。


「おはよう、亜希。ごめんね、休みの日に」


「ううん、私は大丈夫だよ、武彦」


 そんな僕達の会話を聞いた母が、


「あなた達、私の知らないうちに随分親密になったのね」


と小声で言った。僕は何だかとても恥ずかしくなった。


 姉はと言うと、もうそれどころではないらしく、材料と格闘していた。


 変に突っ込まれずにすんで、ホッとしたけど、


「美鈴さん、大丈夫なの?」


 亜希ちゃんは心配そうだ。確かに姉の顔は、鬼気迫るものがあり、怖かった。


 力丸家をお呼びしたのは昼食なのに、朝食の準備かと思うくらい朝早くから頑張っている姉。


 本当に姉は、憲太郎さんの事が好きなんだな、と思った。


 変に凝った料理ではなく、シンプルなものの方がいい。


 憲太郎さんのアドバイスと、母の的確な献立が良かったのか、思ったより料理の見た目はいい気がした。


 今日はえびす講という行事の日らしい。


 それにちなんだのか、姉が作ったのは、大根、人参、里芋、コンニャク、竹輪、椎茸、牛蒡ごぼう、豆腐が入ったけんちん汁。


 そして、脂の乗った焼き秋刀魚。


 朝、近所の米屋さんに頼んで精米してもらったものを炊いたご飯。


 ぬか床を根気よくかき混ぜながら漬けたキュウリのぬか漬け。


 心のこもった品々だ。


 


 やがて、憲太郎さんを先頭に、力丸家の皆さんがいらっしゃった。


 お姉さんの沙久弥さんとお母さんの香弥乃さんはまさしく姉妹かと思ってしまうくらいそっくりで、着物の色が浅葱色と若草色で違わなければ、パッと見見分けがつかないくらいだった。


 そしてお父さんの利通さんは、パリッとしたチャコールグレイのスーツ姿だ。


 憲太郎さんはネイビーブルーのジャケットにスカイグレイのスラックスで、沙久弥さん達に比べると、ほんの少しカジュアルな装いだった。


「本日はお招きいただきありがとうございます」


 利通さんが挨拶した。


「こちらこそ、お忙しい中、おいでいただき恐縮です」


 母は、力丸家があまりにも格式高い服装で来たので、オロオロしていた。


 何せ、母は仕事に着て行くスーツの上にエプロンで、姉はエプロンの下はトレーナーとジーパン、僕に至っては、部屋着のジャージだったからだ。


 亜希ちゃんは大学に行く時のスカートスーツだったので、僕達に比べればずっとマシだったけど。


「申し訳ありません、お客様をお迎えするのにこんな不作法な格好で」


 母は顔を赤くして頭を下げた。


「いや、私達こそ、何と他人行儀な格好をして来たのかと反省しております」


 利通さんのその言葉で、僕達はとても救われた。


 まずは皆さんを居間にお通しして、お茶を出す。


 テンパり始めている姉に代わって、亜希ちゃんがお茶を淹れてくれた。


「どうぞ」


 亜希ちゃんが利通さんにお茶を出すと、


「いやあ、貴女は本当に気品がある。ウチの娘にも見習わせたい」


とびっくりするような事を言い出した。僕と亜希ちゃんはドキッとして沙久弥さんを見た。


「今から亜希さんを味方に付けようとしているの、お父さん?」


 沙久弥さんはニコッとして利通さんを見る。


「ハハハ、そんなつもりはないよ。お前が少しは料理を習ったり、茶道の心得を学んだりしてくれないものかと思っただけさ」


 利通さんは、沙久弥さんより香弥乃さんの視線にビクッとしたようで、慌てて言い繕った感じだ。


「まあ」


 沙久弥さんの料理の腕は、以前力丸家に伺って多少は知っているが、改めてそれを指摘する利通さんて、結構冒険家だと思った。


「姉貴は料理は覚えなくても大丈夫。西郷先輩がシェフ並みの腕だから」


 憲太郎さんがそんな事を言う。沙久弥さんは少し不機嫌そうな顔になった。


「武彦君や亜希さんの前でどうして姉をおとしめるの、憲太郎? 覚えてなさいよ」


 沙久弥さんにそんな事を言えるのは、憲太郎さんだけだろうな。


 恋人の西郷隆さんには絶対に無理だろうから。


 そんな事を言い合いながらも、全く険悪な雰囲気にならないのが、力丸家の家風なのだろうか。


 姉の方も準備が整ったようで、遂に力丸家の皆さんをキッチンにお通しした。


「ほう。これはえびす講にちなんだ料理ですか?」


 利通さんがテーブルに並べられた料理を見渡して言った。


「は、はい。凝ったものではなく、単純で、それでいておもてなしの心が伝わるものを作ってみました」


 姉は緊張しながらも、何とかつっかえずに言った。我が事のようにホッとする。


 憲太郎さん達はそれぞれ席に着いた。


「どうぞお召し上がりください」


 姉が顔を引きつらせて笑った。怖いようなおかしいような感じだ。


「いただきます」


 利通さん達は声を揃えて言い、橋を手にする。


 香弥乃さんがまずけんちん汁の椀を持った。


 姉が思わず唾を呑み込むのがわかった。


 椀に口を付け、ススッと汁を吸い、次に大根を箸で摘んで口に入れた。


 何だか僕まで息が止まりそうだ。


 それに対して、利通さんはご飯の茶碗を取り、そのまま一口頬張った。


 沙久弥さんは漬け物に手を伸ばしている。


 憲太郎さんは秋刀魚を箸で器用に分け、一口食べた。


「美味しい」


 四人の口からほぼ同時に漏れた言葉は、一緒だった。


 姉を見ると涙ぐんでいる。母も目を赤くしていた。


 僕は亜希ちゃんと顔を見合わせ、微笑んだ。


「皆さんも立っていないで、食べてください。本当に美味しいですから」


 利通さんの言葉でハッとなった僕達は、空いている席に座る。


 力丸家の皆さんが意図したのか、母は香弥乃さんの隣、姉はもちろん憲太郎さんの隣、僕と亜希ちゃんは憲太郎さんと沙久弥さんの間に座った。


「沙久弥さんの隣がいいわよね、武彦?」


 亜希ちゃんが小声でそう言ったので、僕はギクッとして、


「いや、そんな事は……」


と応じ、憲太郎さんの隣に座った。


「あら、武彦君、私の隣は嫌なの?」


 沙久弥さんまでそんな事を言い出す。


「あ、いえ、そんな事は……」


 沙久弥さんと亜希ちゃんが顔を見合わせてから、僕を見て笑った。


 はあ。何だか、面白がられてるみたいだ。


 こうして、姉の手料理お披露目の会は滞りなく進み、終わった。


 


 力丸家の皆さんをお送りして、姉は居間のソファにゴロンと横になった。


「疲れたー!」


 母はその姿に呆れながらも、


「ご苦労様、美鈴。頑張ったわね」


「母さん、亜希ちゃん、ありがとう」


 姉はまた涙ぐんでいた。あれ? 僕にはお礼はないの?


「何だよ、武彦、その顔は?」


 姉が僕の不満そうな顔に気づいたようだ。


「お前は何もしないで、只いただけじゃん」


「ええ!?」


 さすがにその言葉は悲しかった。


「美鈴、そんな事言わないの。武彦だって、お米屋さんに精米を頼みに行ってくれたんだから」


 母が姉をたしなめてくれた。


「冗談よ、母さん」


 姉は起き上がって、


「ありがとう、武彦」


と僕を抱きしめた。それには驚いた。


 だって、隣に亜希ちゃんがいるのだ。


 亜希ちゃんは目を見開いていた。すると姉は、


「亜希ちゃんもありがとう」


と亜希ちゃんも抱きしめた。


「あ、はい」


 亜希ちゃんは僕が抱きしめられた時より驚いた顔で返事をしていた。


 ふと見ると、姉は泣いていた。


 不覚にも、僕はもらい泣きをしそうになった。


 姉ちゃん、可愛い。そうも思ってしまった。


 いろいろごめん、亜希ちゃん。


 


 後片づけが終わった。


 そして、亜希ちゃんも家に帰る事になった。


 僕は亜希ちゃんを送って行った。


「今日はありがとう、亜希」


 忘れずに呼び捨てをする。


「うん。私も楽しかったし、いろいろ勉強になったよ、武彦」


 亜希ちゃんはニコッとして言った。そして、周囲に人影がないのを見て、すかさず目を閉じる。


 僕も周囲を気にしてから、その形のいい唇にキスした。


「私もお料理、本格的に勉強するね、武彦」


「うん。楽しみだな、亜希の料理。お弁当以外で食べた事ないから」


 僕は心の底からそう思った。


「期待してね、武彦」


 亜希ちゃんはまたニコッとして言った。


 僕達は手を振り合って別れた。


 その時の僕は、まさか亜希ちゃんとの関係を壊しかけるような存在が現れるなんて、夢にも思っていなかった。

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