その百二十五
僕は磐神武彦。大学一年。
彼女の都坂亜希ちゃんに、
「呼び捨てにして」
と言われ、動悸息切れになりながら、
「亜希」
と初めて呼んでみた。何故か亜希ちゃんは大喜びだった。
そんなに呼び捨てっていいのかな?
そして、我が姉が就職の内定をもらった。
姉は大喜びして、僕に無理難題を言って来たので、
「頑張ったな、美鈴。お前の実力が評価されたんだよ」
と命懸けで言ってみたら、
「父さんにそっくりだ」
と妙に感動され、その上号泣されてしまった。
亜希ちゃんと姉の感動ポイントがよくわからない。
そして今日も亜希ちゃんと電車に乗り、大学に向かう。
「そうなんだ、良かったね、美鈴さん」
姉の内定の話をすると、亜希ちゃんも喜んでくれた。
「いよいよダメだったら、今バイトしている建設会社に就職するって言ってたんだ。それもありかと思ってたけど、取り敢えず、姉ちゃんが機嫌が良くなってホッとしてるよ」
僕は苦笑いして言った。亜希ちゃんもクスッと笑って、
「でも、美鈴さんなら、どこでも大丈夫よ。あのバイタリティ、見習いたいわ」
「え? 僕はあまり見習って欲しくないけど」
思わずビクッとしてしまう。
「もう、武君たら、どうして美鈴さんをそんなに怖がるの? 優しいお姉さんじゃない?」
亜希ちゃんは僕のリアクションに呆れた顔で言う。
「優しいかなあ。怖いのが先行して、そういう発想が浮かばないよ」
「優しいわよ、美鈴さんは」
亜希ちゃんが強行に主張するので、僕は仕方なく、
「そうだね」
と同意した。はあ。
「でも、亜希ちゃんの方が優しいし、素敵だよ」
中学の時の同級生の須佐昇君から、彼女の櫛名田姫乃さんが機嫌が悪くなった時の対処法を聞いていたので、すかさずそう言ってみた。
「や、やだ、武君」
亜希ちゃんはマジ照れしたが、ハッとして、
「ほら、また呼び捨て忘れてる!」
またムッとされてしまった。しくじったなあ。
「ごめん、亜希」
そして、「ちゃん」を飲み込む。まだ慣れないなあ。
「うん」
亜希ちゃんは途端にご機嫌になった。どうもその心理がわからないなあ。
そう言えば、姉も恋人の力丸憲太郎さんに、
「美鈴」
って呼び捨てにされてるな。姉に訊いてみようかな。
そんな事を思っているうちに、大学に着いた。
「おはよう、磐神君、都坂さん」
そこへ橘音子さんと丹木葉泰史君が来た。
「おはよう」
互いに挨拶を交わした。橘さん、夏休み前と違って、すごく穏やかな顔になった。
丹木葉君も、明るい表情になった。二人の関係が修復して本当に良かった。
亜希ちゃんと橘さんが服装の事で盛り上がっているので、僕は丹木葉君にこっそり、
「橘さんを名前で呼び捨てにしてるのは、橘さんに言われたから?」
と尋ねてみた。すると丹木葉君は笑って、
「違うよ。僕と音子は、幼稚園に行く以前からの顔見知りだから、もう小さい頃からさ。磐神君もそうでしょ?」
と言った。え? そうなの? 僕は亜希ちゃんを小さい頃から呼び捨てにしてないよ。
「あれ、そう言えば、磐神君て、都坂さんの事を『亜希ちゃん』って呼んでるんだっけ?」
丹木葉君は意外そうな顔で僕に尋ねて来た。
「おはよう。どうしたのさ、男二人でかたまって」
そこへ若井建君と長石姫子さんまで現れた。
長石さんは亜希ちゃんと橘さんの話に加わったみたいだ。
三人共、笑顔で話している。
「若井君も、長石さんの事、昔から呼び捨てでしょ? 磐神君は違うみたいだけど」
丹木葉君が若井君に話題を振った。すると若井君は、
「まあ、人それぞれじゃないの」
と言って僕を見てニコッとした。僕は苦笑いした。
そうかあ。丹木葉君も若井君も、小さい頃から呼び捨てだったんだ。
普通はそうなのかなあ。幼馴染って、そんな感じなんだろうか?
須佐君と櫛名田さんもそうだし。
亜希ちゃんはそれが気になったのだろうか?
でも、若井君が言う通りで、人それぞれなんだから、いいと思うんだけど、亜希ちゃんが望むのなら、僕はそれでいいし。
あれ? それじゃあ、僕は若井君が昨日言ったみたいに「亜希ちゃんの下僕」だな。
別にそれでもいいけどね。
やがて講義の時間になり、僕達はホール棟に向かった。
その日一日、僕は努力して、亜希ちゃんを「亜希」と五回くらい呼んだと思う。
疲れたけど。
そして、亜希ちゃんと駅で別れてコンビニのバイトに向かった。
バイトの人にも気になって訊いちゃったけど、やっぱり彼女を呼び捨てにしている人が多い。
一人だけ、まだ付き合い始めて日が浅い人だけは、ちゃん付けで呼んでいるって言ってたけど。
結論として、僕は特殊だと言われてしまった。
そうなのかなあ。まあ、いいけど。
バイトを終え、帰宅した。
今日は取り敢えずおめでとう会を友達に開いてもらった姉がもう帰っていた。
早かったなあ。でも、まだ完全に決まった訳じゃないしね。
「たっけくん!」
今日もテンションが高い姉が玄関で出迎えてくれたのには驚いたけど。
少し酔っ払ってるみたいだ。ちょっと警戒しないと。絡まれそうだ。
「ほらほら、ケーキのおすそ分けがあるから」
強引にキッチンに連れて行かれた。
おお! このケーキ、有名なパティシエの店のものだ。
てっきりコンビニの安いケーキだと思っていたので、びっくりした。
それもワンホールまるまる。
「姉ちゃんは食べてないの?」
僕は尋ねた。すると姉はニヘラッとして、
「武君と母さんに食べて欲しいから、我慢したの」
その言葉に思わずウルッと来た。
「そうなんだ」
母さんは今日は遅いシフトなので、帰りは深夜だ。
「じゃあ、半分ね」
姉が嬉しそうに切り分ける。
「ああ、いいよ、半分も。その半分して、二人で食べようよ、姉ちゃん」
僕がそう言うと、姉は僕を目を潤ませて見て、
「優しいんだね、武君。美鈴、嬉しい!」
何だか、幼児退行しているのかな? 様子がおかしいぞ。
「ねえねえ、また言ってみてよ」
姉はお皿にケーキを取り分けながら甘えた声で言う。
「何を?」
僕はキョトンとした。
「これは美鈴の分だよって、呼び捨てで言ってみて」
「え?」
懇願するような目で姉がそう言った時、姉の意図がわかった。
姉は昨日からずっと父の思い出に浸っている。
僕が父に似て来たって喜んでいたから、そういう事なんだろう。
「これは美鈴の分だよ」
僕は姉に渡されたお皿を再び姉に返した。
「ありがとう」
姉は酔いも手伝ったのか、本当に嬉しそうにケーキを受け取った。
僕もジンとしてしまった。
「おいしいね」
姉は一口食べて言った。
「そうだね」
僕もケーキを口に運んで応じた。
父の思い出に浸れる姉が羨ましい。僕も父といろいろ話をしたかったなあ。