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姉ちゃん全集  作者: 神村 律子
大学一年編
125/313

その百二十四

 僕は磐神いわがみ武彦たけひこ。大学一年。


 長かったようで短かったような夏休み。


 結局、あれやこれやとしているうちに終了してしまい、彼女の都坂みやこざか亜希あきちゃんと旅行に行くどころか、遊園地とかに遊びに行く事もできないまま、後期が始まってしまった。


 まあ、亜希ちゃんとはほぼ毎日会っていたし、特別不満はなかったのだけど。


 僕の事よりも、亜希ちゃんの方が心配だ。何か不満があるのではないだろうか?


 そんな事を思ってしまう。


 


「おはよう、武君」


 今まで通り、僕が亜希ちゃんを迎えに行くと、いつもの笑顔で亜希ちゃんが挨拶してくれる。


「おはよう、亜希ちゃん」


 僕も笑顔で挨拶する。すると亜希ちゃんが、


「あのさ」


 いきなり腕を組んで来た。季節が過ぎて少し涼しくなったので、亜希ちゃんは薄い長袖のブラウスを着ている。


 だから、以前のようにあれが直接ムニュウッて事はないのだけど、ちょっとドキッとした。


「な、何?」


 上ずりそうな声を何とか平静に保ち、僕は亜希ちゃんを見る。


「私の事、呼び捨てにしてって言ったら、武君、嫌?」


 亜希ちゃんの提案は驚愕ものだった。


 今まで僕は亜希ちゃんを「亜希ちゃん」「都坂さん」「委員長」といろいろと呼んで来たけど、呼び捨ては一度もした事がない。


「ど、どうして急にそんな事を?」


 僕は心臓がバクバクするのを感じながら尋ねた。すると亜希ちゃんは照れ臭そうに笑って、


「だって、姫ちゃんと須佐君を見てると、すごくいい感じなんだもん」


 櫛名田くしなだ姫乃ひめのさんと須佐昇君。二人は中学の時の同級生だ。


 その当時からほぼ公認のカップルだったから、あの二人が、


「昇」


「姫乃」


と呼び捨てし合っていても、何も違和感はなかった。


「そ、そうだね」


 確かにあの二人は、見ていて仲のいいのが伝わって来るよね。


「じゃあ、決まりね」


 亜希ちゃんは嬉しそうに宣言した。


「え? じゃあ、僕は武って呼ばれるの?」


 それはちょっと嫌だ。我が姉が機嫌が悪い時の呼び方と一緒だもん。


「私は『武君』のままよ」


 亜希ちゃんは嬉しそうな顔のまま、あっさり言った。


「どうして?」


 僕はちょっとだけ不公平だと思って亜希ちゃんを見た。


「私、そうでなくても、気が強そうに見えるんだから、それでちょうどいいの! 何かご不満でも?」


 亜希ちゃんはムッとしたようだ。思わずビクッとしてしまった。


「そ、そんな事ないと思うけど。亜希ちゃんは気が強そうだなんて誰も思っていないよ」


「ほら、武君、ちゃんは付けないでよ。亜希でいいの」


 そう言いながら、ちょっと頬を赤らめる亜希ちゃんは可愛かった。


 そうか。亜希って呼ばれたいのか。でも、何だかドキドキするなあ。


「ありがと。武君だけよ、私の事、そんな風に言ってくれるのって」


 赤い顔で嬉しそうに微笑む亜希ちゃん。ああ、もう抱きしめたいくらい可愛い! 


「じゃ、じゃあ言うね」


 僕は立ち止まってつい身構えてしまう。亜希ちゃんも立ち止まって僕を真っ直ぐに見る。


「亜希」


 そう言って「ちゃん」を発音せずに飲み込むと、顔が火照って行くのがわかる。


「はい」


 亜希ちゃんは本当に嬉しそうだ。何だか、新婚さんみたいだな。


「できれば、僕の事も呼び捨てでお願いします」


 僕は顔を引きつらせて言ってみた。亜希ちゃんはクスッと笑って、


「そのうちにね、武君」


 僕達はまた腕を組んで歩き出した。


 


 大学に着いて、学部棟に入ると、長石ながいし姫子きこさんと若井わかいたける君がいた。


 二人共、どこに行ったのというくらい日焼けしていた。


 似合ってるから、いいんだけど。僕には日焼けは似合わないからなあ。


「久しぶり、磐神君、都坂さん」


 長石さんが笑顔で手を振って言った。


「お久しぶりです」


 僕と亜希ちゃんは声を揃えて言う。すると若井君が、


「相変わらず仲いいよね、二人は。一泊旅行にでも行ったの?」


とニヤッとして訊いて来た。


 いやいや、ストレート過ぎるでしょ、その訊き方は。


「こら、失礼な事訊くんじゃないの、建!」


 長石さんがポカンと若井君の頭を叩いた。


「いってえな、姫子……」


 そう言いながらも若井君は嬉しそうだ。


 二人はうまくいってるみたいだ。


「残念ながら、予定が合わなくて行けませんでした」


 亜希ちゃんがニコッとして言ってのけたので、僕はビックリした。


「そのうち行こうね、武君」


 亜希ちゃんは満点笑顔で僕を見る。僕は苦笑いして、


「そうだね、亜希」


とドキドキしながら言った。


「あれ、磐神君、少しは立場が変わったの?」


 若井君が目を見開いて言うので、


「え? どうして?」


と尋ねると、


「だって今、都坂さんを呼び捨てにしたからさ。少しは対等になれたのかなって」


 若井君、結構酷い事を言ってるってわかってる? それじゃあ、僕は亜希ちゃんの下僕だったみたいだよ。


「こら、また失礼だぞ、建!」


 長石さんがまた若井君をポカリと叩いた。僕と亜希ちゃんは顔を見合わせて笑ってしまった。


 


 やがて講義の時間になったので、僕達はホール棟に行った。


 中に入ると、たちばな音子おとこさんと丹木葉にぎは泰史やすし君が並んで座っているのが見えた。


 あの二人も順調なんだ。良かった。


「武君」


 席に着くと、亜希ちゃんが小声で言った。


「何?」


「さっきは嬉しかった。長石さんと若井君の前で呼び捨てで呼んでくれて」


 亜希ちゃんは何故か涙ぐんでいる。そんなに凄い事をしたのだろうか、僕は?


「泣かないでよ」


 僕は慌ててしまった。亜希ちゃんは苦笑いして、


「ごめんね。でも、それだけ嬉しかったし、感動したの」


「そ、そうなんだ」


 亜希ちゃんの感動ポイントがよくわからないと思ってしまった。


 でも、呼び捨てって、誰に対しても一度もした事がないって今気づいた。


 弟か妹でもいれば、呼び捨てにしていたかも知れないけど。


 でも、友達の中には、自分のお姉さんを呼び捨てにしているツワモノもいたなあ。


 僕には考えられないけど。「美鈴」なんて呼んだら、何発殴られるかわからないよ。


 


 そんなこんなで、後期第一日目が終了し、僕と亜希ちゃんは駅へと向かった。


「あれえ、武彦君じゃない?」


 どこからか僕の名前を呼ぶ声。何となく聞き覚えがある女性の声だ。


 僕の腕をギュッと強く握りしめる亜希ちゃん。


 まずい。勘違いされそうだ。


 声の主の方を見ると、そこにはあの西郷四姉妹の四女の詠美えいみさんがいた。


 仕事中みたいで、グレーのスーツ姿でアタッシュケースを提げている。かっこいい。


「どちら様、武君?」


 目が笑っていない笑顔で、亜希ちゃんが訊いて来る。もう嫉妬してるの? 早過ぎるよ!


「あ、あの、沙久弥さんの恋人の西郷さんのお姉さんの、詠美さんだよ」


 僕は顔を引きつらせながら言った。


「ああ、何だ、そうなの」


 亜希ちゃんは途端に笑顔満開になってくれた。良かった。


「あら、こちらが、我が姉が撃沈させられた彼女さん?」


 詠美さんはとても余計な事を言ってくれた。僕の顔が更に引きつる。


「は、はい」


 何とか応答できた。すると詠美さんは、


「本当ね。依里えり姉じゃ、勝てる要素ないわ。年上で、性格悪くて、結婚願望剥き出しじゃ、何もいいとこないもんね」


と言い、笑い出す。


 呆気に取られる僕と亜希ちゃん。詠美さんは涙を流すほど笑ってから、


「ごめんね、二人で楽しいところを邪魔して。今度は彼女さんも一緒にいらしてね。じゃあね」


と言うと、スタスタと歩いて行ってしまった。


「何があったのか、説明してください、磐神君」


 不信感MAXの亜希ちゃんが尋問して来た。ああ。


 


 取り敢えず、西郷さんの家に行ったのを話し、亜希ちゃんにそれを言わなかったのを詫びて、その場を収めた。


 亜希ちゃんも自分の嫉妬深さをまた反省していた。それも可愛いからいいんだけど、ちょっとね。


 バイトも終え、家に帰る。


 姉の靴もある。今日は早かったようだ。


 最近は就職活動が本格化して、帰宅時間が遅くなっている。


 母は姉の事を心配しているが、あの姉に限ってという思いが僕にはある。


「只今」


 キッチンを覗くと、姉が一人で夕食を食べていた。


「おっかえりー、たっけくん!」


 妙にハイテンションだ。どうしたんだろう?


「どうしたの、姉ちゃん?」


 僕は不思議に思って尋ねた。すると姉は、


「内定取れたんだよお!」


と何故か僕の頭を丸めた新聞で連打する。意味がわからない。


「そ、そう、良かったね」


 すると姉はムッとして、


「何だよ、それ? 少しも嬉しそうじゃないぞ」


 始まった。無理難題だ。どうしよう? あ、そうだ。


「頑張ったな、美鈴。お前の実力が評価されたんだよ」


 もうどうせ怒られるのなら、と思い、破れかぶれで言ってみた。


 そして、素早く身を引く。


 しかし、何故か姉は僕を見て涙ぐみ、掴みかかって来ない。


 どうしたんだ?


「か、感動した……。今の、父さんにそっくりだったよ、武」


 姉の目からポロポロと涙が零れる。


 父さん。僕はほとんど記憶にないけど、そうなの?


「お前、似て来たよ、父さんに」


 姉はとうとう号泣してしまった。


 姉にとって、父は永遠の憧れの存在だから。


 僕も何だか胸が熱くなって来た。


「姉ちゃん、おめでとう」


 そっと姉を後ろから抱きしめた。

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