その百二十四
僕は磐神武彦。大学一年。
長かったようで短かったような夏休み。
結局、あれやこれやとしているうちに終了してしまい、彼女の都坂亜希ちゃんと旅行に行くどころか、遊園地とかに遊びに行く事もできないまま、後期が始まってしまった。
まあ、亜希ちゃんとはほぼ毎日会っていたし、特別不満はなかったのだけど。
僕の事よりも、亜希ちゃんの方が心配だ。何か不満があるのではないだろうか?
そんな事を思ってしまう。
「おはよう、武君」
今まで通り、僕が亜希ちゃんを迎えに行くと、いつもの笑顔で亜希ちゃんが挨拶してくれる。
「おはよう、亜希ちゃん」
僕も笑顔で挨拶する。すると亜希ちゃんが、
「あのさ」
いきなり腕を組んで来た。季節が過ぎて少し涼しくなったので、亜希ちゃんは薄い長袖のブラウスを着ている。
だから、以前のようにあれが直接ムニュウッて事はないのだけど、ちょっとドキッとした。
「な、何?」
上ずりそうな声を何とか平静に保ち、僕は亜希ちゃんを見る。
「私の事、呼び捨てにしてって言ったら、武君、嫌?」
亜希ちゃんの提案は驚愕ものだった。
今まで僕は亜希ちゃんを「亜希ちゃん」「都坂さん」「委員長」といろいろと呼んで来たけど、呼び捨ては一度もした事がない。
「ど、どうして急にそんな事を?」
僕は心臓がバクバクするのを感じながら尋ねた。すると亜希ちゃんは照れ臭そうに笑って、
「だって、姫ちゃんと須佐君を見てると、すごくいい感じなんだもん」
櫛名田姫乃さんと須佐昇君。二人は中学の時の同級生だ。
その当時からほぼ公認のカップルだったから、あの二人が、
「昇」
「姫乃」
と呼び捨てし合っていても、何も違和感はなかった。
「そ、そうだね」
確かにあの二人は、見ていて仲のいいのが伝わって来るよね。
「じゃあ、決まりね」
亜希ちゃんは嬉しそうに宣言した。
「え? じゃあ、僕は武って呼ばれるの?」
それはちょっと嫌だ。我が姉が機嫌が悪い時の呼び方と一緒だもん。
「私は『武君』のままよ」
亜希ちゃんは嬉しそうな顔のまま、あっさり言った。
「どうして?」
僕はちょっとだけ不公平だと思って亜希ちゃんを見た。
「私、そうでなくても、気が強そうに見えるんだから、それでちょうどいいの! 何かご不満でも?」
亜希ちゃんはムッとしたようだ。思わずビクッとしてしまった。
「そ、そんな事ないと思うけど。亜希ちゃんは気が強そうだなんて誰も思っていないよ」
「ほら、武君、ちゃんは付けないでよ。亜希でいいの」
そう言いながら、ちょっと頬を赤らめる亜希ちゃんは可愛かった。
そうか。亜希って呼ばれたいのか。でも、何だかドキドキするなあ。
「ありがと。武君だけよ、私の事、そんな風に言ってくれるのって」
赤い顔で嬉しそうに微笑む亜希ちゃん。ああ、もう抱きしめたいくらい可愛い!
「じゃ、じゃあ言うね」
僕は立ち止まってつい身構えてしまう。亜希ちゃんも立ち止まって僕を真っ直ぐに見る。
「亜希」
そう言って「ちゃん」を発音せずに飲み込むと、顔が火照って行くのがわかる。
「はい」
亜希ちゃんは本当に嬉しそうだ。何だか、新婚さんみたいだな。
「できれば、僕の事も呼び捨てでお願いします」
僕は顔を引きつらせて言ってみた。亜希ちゃんはクスッと笑って、
「そのうちにね、武君」
僕達はまた腕を組んで歩き出した。
大学に着いて、学部棟に入ると、長石姫子さんと若井建君がいた。
二人共、どこに行ったのというくらい日焼けしていた。
似合ってるから、いいんだけど。僕には日焼けは似合わないからなあ。
「久しぶり、磐神君、都坂さん」
長石さんが笑顔で手を振って言った。
「お久しぶりです」
僕と亜希ちゃんは声を揃えて言う。すると若井君が、
「相変わらず仲いいよね、二人は。一泊旅行にでも行ったの?」
とニヤッとして訊いて来た。
いやいや、ストレート過ぎるでしょ、その訊き方は。
「こら、失礼な事訊くんじゃないの、建!」
長石さんがポカンと若井君の頭を叩いた。
「いってえな、姫子……」
そう言いながらも若井君は嬉しそうだ。
二人はうまくいってるみたいだ。
「残念ながら、予定が合わなくて行けませんでした」
亜希ちゃんがニコッとして言ってのけたので、僕はビックリした。
「そのうち行こうね、武君」
亜希ちゃんは満点笑顔で僕を見る。僕は苦笑いして、
「そうだね、亜希」
とドキドキしながら言った。
「あれ、磐神君、少しは立場が変わったの?」
若井君が目を見開いて言うので、
「え? どうして?」
と尋ねると、
「だって今、都坂さんを呼び捨てにしたからさ。少しは対等になれたのかなって」
若井君、結構酷い事を言ってるってわかってる? それじゃあ、僕は亜希ちゃんの下僕だったみたいだよ。
「こら、また失礼だぞ、建!」
長石さんがまた若井君をポカリと叩いた。僕と亜希ちゃんは顔を見合わせて笑ってしまった。
やがて講義の時間になったので、僕達はホール棟に行った。
中に入ると、橘音子さんと丹木葉泰史君が並んで座っているのが見えた。
あの二人も順調なんだ。良かった。
「武君」
席に着くと、亜希ちゃんが小声で言った。
「何?」
「さっきは嬉しかった。長石さんと若井君の前で呼び捨てで呼んでくれて」
亜希ちゃんは何故か涙ぐんでいる。そんなに凄い事をしたのだろうか、僕は?
「泣かないでよ」
僕は慌ててしまった。亜希ちゃんは苦笑いして、
「ごめんね。でも、それだけ嬉しかったし、感動したの」
「そ、そうなんだ」
亜希ちゃんの感動ポイントがよくわからないと思ってしまった。
でも、呼び捨てって、誰に対しても一度もした事がないって今気づいた。
弟か妹でもいれば、呼び捨てにしていたかも知れないけど。
でも、友達の中には、自分のお姉さんを呼び捨てにしているツワモノもいたなあ。
僕には考えられないけど。「美鈴」なんて呼んだら、何発殴られるかわからないよ。
そんなこんなで、後期第一日目が終了し、僕と亜希ちゃんは駅へと向かった。
「あれえ、武彦君じゃない?」
どこからか僕の名前を呼ぶ声。何となく聞き覚えがある女性の声だ。
僕の腕をギュッと強く握りしめる亜希ちゃん。
まずい。勘違いされそうだ。
声の主の方を見ると、そこにはあの西郷四姉妹の四女の詠美さんがいた。
仕事中みたいで、グレーのスーツ姿でアタッシュケースを提げている。かっこいい。
「どちら様、武君?」
目が笑っていない笑顔で、亜希ちゃんが訊いて来る。もう嫉妬してるの? 早過ぎるよ!
「あ、あの、沙久弥さんの恋人の西郷さんのお姉さんの、詠美さんだよ」
僕は顔を引きつらせながら言った。
「ああ、何だ、そうなの」
亜希ちゃんは途端に笑顔満開になってくれた。良かった。
「あら、こちらが、我が姉が撃沈させられた彼女さん?」
詠美さんはとても余計な事を言ってくれた。僕の顔が更に引きつる。
「は、はい」
何とか応答できた。すると詠美さんは、
「本当ね。依里姉じゃ、勝てる要素ないわ。年上で、性格悪くて、結婚願望剥き出しじゃ、何もいいとこないもんね」
と言い、笑い出す。
呆気に取られる僕と亜希ちゃん。詠美さんは涙を流すほど笑ってから、
「ごめんね、二人で楽しいところを邪魔して。今度は彼女さんも一緒にいらしてね。じゃあね」
と言うと、スタスタと歩いて行ってしまった。
「何があったのか、説明してください、磐神君」
不信感MAXの亜希ちゃんが尋問して来た。ああ。
取り敢えず、西郷さんの家に行ったのを話し、亜希ちゃんにそれを言わなかったのを詫びて、その場を収めた。
亜希ちゃんも自分の嫉妬深さをまた反省していた。それも可愛いからいいんだけど、ちょっとね。
バイトも終え、家に帰る。
姉の靴もある。今日は早かったようだ。
最近は就職活動が本格化して、帰宅時間が遅くなっている。
母は姉の事を心配しているが、あの姉に限ってという思いが僕にはある。
「只今」
キッチンを覗くと、姉が一人で夕食を食べていた。
「おっかえりー、たっけくん!」
妙にハイテンションだ。どうしたんだろう?
「どうしたの、姉ちゃん?」
僕は不思議に思って尋ねた。すると姉は、
「内定取れたんだよお!」
と何故か僕の頭を丸めた新聞で連打する。意味がわからない。
「そ、そう、良かったね」
すると姉はムッとして、
「何だよ、それ? 少しも嬉しそうじゃないぞ」
始まった。無理難題だ。どうしよう? あ、そうだ。
「頑張ったな、美鈴。お前の実力が評価されたんだよ」
もうどうせ怒られるのなら、と思い、破れかぶれで言ってみた。
そして、素早く身を引く。
しかし、何故か姉は僕を見て涙ぐみ、掴みかかって来ない。
どうしたんだ?
「か、感動した……。今の、父さんにそっくりだったよ、武」
姉の目からポロポロと涙が零れる。
父さん。僕はほとんど記憶にないけど、そうなの?
「お前、似て来たよ、父さんに」
姉はとうとう号泣してしまった。
姉にとって、父は永遠の憧れの存在だから。
僕も何だか胸が熱くなって来た。
「姉ちゃん、おめでとう」
そっと姉を後ろから抱きしめた。