その百十九
僕は磐神武彦。大学一年。
夏休みも半分を過ぎ、久しぶりに彼女の都坂亜希ちゃんとデートに出かけた。
そして、僕達は、亜希ちゃんの従兄である都坂忍さんに遭遇した。
忍さんは、大男二人を使って僕を亜希ちゃんから引き離し、亜希ちゃんを連れて行こうとした。
もうダメだと思った時、姉の婚約者の力丸憲太郎さんが現れた。
大学柔道の覇者でもある憲太郎さんの登場に相手はビビりながらも、
「こんなところで、素人相手に喧嘩しちゃまずいんじゃないの?」
などと脅かして来た。
しかし憲太郎さんは、
「何か思い違いしてないか、お前ら? 僕は、自分の大切な人が危険な目に遭おうとしているのに、保身を考えるようなバカじゃないよ」
と、男の僕でも痺れてしまうような事を言った。
そして、試合中に見せる迫力のある顔で相手を完全に威圧した。
大男達は、転がるようにして逃げてしまった。
一方、亜希ちゃんは我が姉美鈴の無言のプレッシャーにより、忍さんから解放された。
「お漏らし君、私の顔を見た途端に逃げ出してさ。私は怪獣かってえの」
そう言ってムッとする姉は愉快だった。
そして、姉がその時ほど頼りになる存在だと思った事はなかった。
僕と亜希ちゃんは相談して、憲太郎さんと姉を誘って食事に行く事にした。
考えてみると、この四人で食事って、初めてかも知れない。
とても楽しい会食で、映画にもオープンカフェにも行けなかったけど、大満足な日だった。
そしてそれから数日後、僕は一人で街の舗道を歩いていた。
実は高校の時の同級生にバイト先のコンビニでばったり会い、一緒に飯でも食おうという話になったので、亜希ちゃんの了承を得て、一人で出かけたのだ。
「武君、別にいちいち私に訊かなくてもいいよ。何だか、私が武君を縛っているみたいで嫌だから」
亜希ちゃんにそう言われたが、亜希ちゃんになら縛られてもいいと思ってしまう僕は変態かも知れない。
「うん、わかったよ」
口ではそう言いながらも、僕は亜希ちゃんに窘められる自分に酔っていた。
完全におかしいのかも知れない。
「あそこかな?」
僕は数軒先のイタリアンレストランの看板を見つけ、歩を速めた。
「あら、武彦君、今日は一人? 珍しいわね」
レストランの二軒手前にある貴金属店から出て来た女性が言った。
憲太郎さんのお姉さんの沙久弥さんだ。
今日もまた、白で固めた美少女ルックだ。
相変わらず、可愛い。年上とは思えない。
「こんにちは、沙久弥さん。今日は高校の同級生と食事会なんです」
僕は沙久弥さんに久しぶりに会ったので、何だかドキドキしている。
ごめん、亜希ちゃん……。
「あら、そうなの」
沙久弥さんは鈴を転がすように笑う。それも可愛い。ああ、いかん。
「沙久弥さんこそ、今日はお一人なんですか?」
僕は同級生達に沙久弥さんを紹介したくなってしまったので、もし一人なら一緒に行ってもらおうとバカな事を考えていた。
もう一度ごめん、亜希ちゃん……。
「違うのよ、今日はね……」
沙久弥さんがそう言いかけた時だった。
「おうおう、冴えない君。亜希ちゃんの目を盗んで、早速美少女とデートかい?」
嫌な声が聞こえた。
確かに誤解されそうな雰囲気だけど、違うぞ。
ムッとして振り返ると、そこには忍さんがニヤニヤしながら立っていた。
「また貴方ですか?」
僕は呆れ気味に言った。すると忍さんは急に悪そうな顔になって、
「お前のあの凶暴な姉貴と、柔道バカは今日は埼玉なのは調査ずみさ。だから、助けは来ないぞ」
姉と憲太郎さんの事まで調べるなんて、凄い執念だな。
あれ? 何だか、冷たい闘気のようなものを感じる。
僕は思わず沙久弥さんを見た。
「柔道バカ? それは誰の事かしら?」
沙久弥さんは微笑んでいるが、目が全く笑っていない。
沙久弥さん、弟の悪口を言われて、凄い気を放っている。
「はあ? 何だよ、お嬢ちゃん、怪我するからどいてな」
忍さんは沙久弥さんの事を知らない。
だから、一回痛い目に遭うといい。そう思い、僕は敢えて何も言わなかった。
不用意に沙久弥さんに突き出された忍さんの右手。
それはまさにライオンの檻に素手で肉を入れようとするのと同じかも知れない。
あ、その例えは沙久弥さんに失礼か。
「え?」
全く見えなかった。
沙久弥さんの右手が、忍さんの右手にかかったと思った次の瞬間、忍さんは舗道に投げられていた。
辺りを歩いていた人達も、一体何が起こったのかという顔で地面に倒れている忍さんを見ていた。
「誰の事かお言いなさい」
沙久弥さんはまださっきの話の続きをしていた。
投げられた忍さんはようやくハッと我に返り、
「いきなり投げ飛ばすなんて、どういう女だ! 警察を呼んでやる!」
と言うと、携帯を取り出した。
「警察ならここにいるが?」
男の人の声がした。この声は、確か……。
「西郷さん!」
僕は貴金属店から大きな紙袋を持って出て来た体格のいい黒のスーツを着た男性を見上げた。
警視庁第一機動捜査隊所属の西郷隆さん。まさに警察官の中の警察官という感じの人だ。
しかも、沙久弥さんの彼氏。そして、沙久弥さんの合気道の弟子でもある。
「あら、西郷君。今日は非番でしょ?」
沙久弥さんはさっきとは全然違う優しい顔で西郷さんを見た。
「ああ、そうだったね。貴重な休みの日を、こんなチンピラ相手に潰す事はないね」
そう言いながらも、西郷さんはギンという鋭い視線を忍さんに向けた。
「ひいい!」
分が悪い事を悟ったのか、忍さんはすごい速さで逃走した。
「ありがとうございました、沙久弥さん、西郷さん。先日の憲太郎さんに続いて、また助けていただいて……」
僕は頭を下げて礼を言った。沙久弥さんはコロコロと笑いながら、
「憲太郎から、亜希さんの従兄の方の話は聞いていたから、すぐにわかったわ」
「それにしても、沙久弥さんが憲太郎さんの悪口を言われて怒ったのには、すごく感動しました」
僕がそう言うと、西郷さんが、
「ええ? そんな事があったんだ。へえ」
と嬉しそうに沙久弥さんの顔を覗き込む。すると沙久弥さんはちょっとだけ赤くなって、
「ち、違うわ。武彦君の思い違いよ。私は別に憲太郎の事で怒った訳ではないわよ」
と言い繕おうとした。それがまた可愛い。ああ、更にごめん、亜希ちゃん。
「ね、可愛いでしょ、沙久弥って」
西郷さんが恥ずかしがる沙久弥さんを見ながら、こっそり僕に耳打ちしてくれた。
何だかこの二人、すごくいい感じだ。
「何、西郷君? 武彦君に私の悪口言ったでしょ?」
沙久弥さんがプウッとほっぺを膨らませて言う。うおお! これは……。
重ね重ね、ダメな僕でごめん、亜希ちゃん。