その百十八
僕は磐神武彦。大学一年。
長いと思っていた夏休みも、もう半分が終わり、何だか寂しくなって来た。
姉の婚約者の力丸憲太郎さんのお母さんの香弥乃さんに、
「夏休み中に家に招待したい」
と言われていたが、香弥乃さんが忙しいのと、同席したいと言っていた沙久弥さんとの予定が合わないのとで、延び延びになってしまっていた。
いつの間にか、参加を「義務づけられていた」姉は、
「このまま無期延期で」
とか、とんでもない事を言っていたけど。
逆に彼女の都坂亜希ちゃんは、
「残念ね、延期になって」
と目が笑っていない笑顔で言う。亜希ちゃん、怖いからやめて。
可愛い顔が台無しだよ……。沙久弥さんと香弥乃さんに嫉妬するの、止めたんじゃなかったの?
「そ、そんな事ないよ」
そう言うしかない僕である。
そんな事があったからではないが、バイト休みの日に、しばらくぶりに亜希ちゃんとデートした。
大通りの舗道を手を繋いで歩く。
観たい映画があるのと、行きたいオープンカフェがあるらしく、テンションが高い亜希ちゃん。
僕はそんな亜希ちゃんを見て、気持ちが高揚する。
「何、武君、私の顔に何か付いてる?」
笑顔満開で、亜希ちゃんが僕を見る。小首を傾げているのが、もう悩殺ポーズだ。
鼻血が出る一歩手前になりそう。
「違うよ、亜希ちゃんが楽しそうで、来て良かったなって思ってたんだ」
僕は照れ臭くなって頭を掻きながら言った。
「ありがとう、武君!」
亜希ちゃんがギュウッと腕を組んで来た。ああ、またあの感触……。
亜希ちゃん、まさか意図的にしてるって事はないよね?
その時だった。
「あれ、亜希ちゃんじゃない? 偶然だね」
背の高い男の人が声をかけて来た。途端に亜希ちゃんがピクンとしたのがわかった。
「し、忍さん」
え? 忍さん? もしかして、この人が「お漏らし君」?
確か、亜希ちゃんのお父さんの弟さんの息子。つまり、従兄だ。
都坂家の遺伝子なのだろうか、イケメンである。
「どこに行くの?」
忍さんは、まるで僕が存在しないかのように亜希ちゃんに話しかける。
「彼と映画を観に」
亜希ちゃんは僕を見て答えた。しかし、忍さんは、
「映画を観に行くの? 一人で? そりゃ寂しいなあ。僕が一緒に行こうか?」
と言い出した。
「え?」
僕と亜希ちゃんが何かを言う前に、後ろから現れた二人の男の人が僕を亜希ちゃんから引き離す。
「武君!」
亜希ちゃんは驚いて叫び、僕を押さえつけている男に近づこうとしたが、
「亜希ちゃん、早く行こうよ。そんな冴えない男は放っておいてさ」
忍さんは亜希ちゃんの腕を掴み、強引に連れて行こうとした。
「止めて、忍さん! 放して!」
亜希ちゃんは忍さんの手を振り解こうとするが、忍さんはニヤニヤ笑って、
「騒がないでよ、亜希ちゃん。君が抵抗すると、あの冴えない男が痛い目に遭うよ」
冴えないを連発されるのも癪に障るが、それ以上に許せないのは、僕を利用して亜希ちゃんに言う事を聞かせようとする事だ。
「放してください!」
僕も、二人の男の人に叫んだ。身体を動かそうとしたが、男の人二人は僕より身長も体重もあるので、ビクともしない。
「さ、行こうか、亜希ちゃん」
忍さんは亜希ちゃんの肩に手を回す。僕を「人質」にされた亜希ちゃんは、悲しそうな顔でそれに従い、歩き出した。
忍さんは、僕の方を振り返り、ニッとした。
何だろう、あの笑いは?
「お前はこっちだよ」
二人の男の人は、僕を路地裏に連れて行こうとした。
「はい、そこまで。それ以上その子に何かをするつもりなら、それなりの罰を受けてもらうよ」
後ろから、聞き覚えのある声が聞こえた。
「何?」
僕を押さえつけている二人の男の人が声の主をギロッと睨む。
そこには、憲太郎さんがいた。何故か笑顔で。
「げ、こいつ、力丸憲太郎だ」
一人が焦ったように言う。するともう一人が、
「大学柔道の星で、オリンピック候補だろ? だったら、こんなところで、素人相手に喧嘩しちゃまずいんじゃないの?」
と嫌な事を言い出した。憲太郎さん、それはいけない。僕なんかのために。
「何か思い違いしてないか、お前ら? 僕は、自分の大切な人が危険な目に遭おうとしているのに、保身を考えるようなバカじゃないよ」
途端に憲太郎さんの顔つきが変わった。
試合を観に行って、何度か見たことがある「格闘家」の顔だ。
「ひ!」
二人はその気迫に圧倒されたのか、たちまち僕を放して逃げて行ってしまった。
僕は思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
「大丈夫、武彦君? 怪我はないかい?」
憲太郎さんはまたいつもの優しい笑顔に戻って、僕を立たせてくれた。
「ありがとうございました、憲太郎さん」
僕は泣いてしまった。助けてもらった事、そして、自分の事を省みずに僕を守ろうとしてくれた事に感動して。
「どういたしまして」
憲太郎さんは僕の肩をしっかり抱きしめて言った。
「そうだ、亜希ちゃんが!」
僕はハッとして涙を拭い、憲太郎さんを見上げる。
「大丈夫。そっちはそっちで、正義の味方が駆けつけてるから」
「え?」
何だか、嫌な予感。
僕と憲太郎さんは大通りに戻った。すると、
「武君!」
涙を浮かべながらも、笑顔の亜希ちゃんが向こうから駆けて来た。
そして、人目も憚らず、僕に抱きついて来た。
「よかった、武君が無事で」
亜希ちゃんは僕をギュウッと抱きしめてくれた。ああ、またあの感触、なんて考えちゃいけない。
「亜希ちゃん」
僕も亜希ちゃんを抱きしめた。周囲の視線なんて気にならなかった。
亜希ちゃんが無事だったのが嬉しかったから。
「感謝しろよ、武、姉ちゃんに」
予想通り、その後ろから現れたのは、我が姉美鈴だった。
僕と亜希ちゃんは名残惜しかったけど、抱き合うのを終了した。
「ありがとう、姉ちゃん」
ちょっとだけ、その言い方にムッとしたが、助けてもらった事に変わりはないので、素直に礼を言った。
「お漏らし君、私の顔を見た途端に逃げ出してさ。私は怪獣かってえの」
姉はムッとして言った。まあ、それに近いとは思うけど。
「ありがとうございました、憲太郎さん」
亜希ちゃんが憲太郎さんに頭を下げる。憲太郎さんはニコッとして、
「僕は、美鈴の取り越し苦労だって思ったんだけど、二人をつけて来て良かったよ」
「え?」
思わず姉を見てしまう僕と亜希ちゃん。
「あ、いや、えーと、リッキーとデートしてたら、偶然見かけただけだよ」
焦る姉。何だか可愛いと思ってしまう。亜希ちゃんはクスクス笑っている。
憲太郎さんも、そんな姉を愛おしそうに見て微笑んでいる。
昔からそうだった。いつも僕を陰で守ってくれた。
亜希ちゃんと憲太郎さんがいるから、声に出して言えないけど、大好きだよ、姉ちゃん。