その百十七
僕は磐神武彦。大学一年。
この前、僕の彼女の都坂亜希ちゃんに気になる事を訊かれた。
「忍ちゃんて覚えてる?」
忍ちゃん。全然記憶になかったのだが、それを呼び覚ましてくれた人がいた。
僕の姉。いや、思い出したいとは思わなかったんだけど。
「武、ちょっと面白い話してあげる」
僕がキッチンで昼食の後片づけをしていた時、妙に嬉しそうな姉がやって来た。
「あれ、今日は藤原さんとランチだったんじゃないの?」
僕は不思議に思って尋ねた。すると姉は悪い魔女のような顔で笑い、
「そうよお。しかも、何と、亜希ちゃんとも一緒でした!」
「え?」
ドキッとした。亜希ちゃんと? どうして?
「おお、知りたそうな顔してるねえ、武君」
姉はますます悪い魔女顔になる。僕は洗い物をすませて、
「別に知りたくないよ」
「そうなの? 亜希ちゃんの事、興味ないんだ?」
何だか癪に障る言い方なので、余計に聞きたくなくなる。
「亜希ちゃんから聞くからいいよ」
僕はそう言い捨てると、キッチンを出ようとした。
「亜希ちゃんは教えてくれないと思うぞ。何せ、他の男とデート中だったんだからな」
姉が後ろから追いかけて来てそう言った。多分作り話だと思った僕はそれを無視してキッチンを出る。
「そのお相手は、何と、忍ちゃんだったんだよ、武」
その言葉にビクッとしてしまった。亜希ちゃんがさっき電話で尋ねて来た名前と同じ。
気がつくと僕は振り返っていた。
「ほうほう、食いついたな」
姉はニヤッとしていた。ホント、性格悪い。
結局僕はキッチンのテーブルを挟んで、姉から事の顛末と亜希ちゃんがその忍ちゃんという一つ年上の従兄に言い寄られた事を聞いてしまった。
「あの当時は、只のお漏らし男だったけど、結構それなりのイケメンになってたよ。姉ちゃんの趣味じゃないし、リッキーの足下にも及ばないけどね」
さり気なく、自分の婚約者の力丸憲太郎さんを持ち上げるところは、さすがだと思う。
「亜希ちゃんは、全然お漏らし君の事、眼中にないらしいんだけど、お漏らし君はそうでもないみたいでさ」
「そうなの?」
僕は何だか不安になった。
「お前、打たれ弱いもんなあ。今まで、どれだけ亜希ちゃんをヤキモキさせたのか考えれば、お漏らし君の一人や五人でそんなこの世の終わりみたいな顔できないぞ」
姉は僕の表情の変化を素早く読み取り、そう言った。
「う、うん……」
そう返事はしたが、どうにも自分に自信がない僕は、亜希ちゃんが心変わりしてしまうのではと思ってしまう。
「お漏らし君さ、どうもまた近所に引っ越して来たらしいんだ。これから頻繁に顔を合わせるかも知れないぞ」
姉は何故か楽しそうに話す。僕は更に不安になる。
亜希ちゃんがその「お漏らし君」こと忍ちゃんに惹かれる事なんてあり得ないと思うけど、それでもたびたび顔を合わせるのは嫌だな。
「武」
姉の口調が変わった。ビクッとして姉の顔を見ると、真剣な表情だ。
「ちょっと、悪い噂を耳にしたんだ。だから、気をつけろ」
「悪い噂?」
僕は意味がわからず、キョトンとしてしまった。姉は大きく頷いて、
「お漏らし君、どうもおかしな連中と付き合いがあるらしくてさ。やばいんだ」
「やばい?」
思わず背筋がゾクッとする。
「まあ、お前にちょっかい出すほど、あいつもバカじゃないとは思うけど、姉ちゃんもいつもお前のそばにいられる訳じゃないからさ」
「ええ!?」
何だか怖い話になって来た。
「取り敢えず、何かあったら、前に渡した笛を吹いてくれ。そうすれば、地球の反対側からでも駆けつけるから」
真面目に話していたと思ったら、最後はそんな冗談でまとめようとする。
全く……。
「只な、あいつの亜希ちゃんへの執念、昔から凄かったから、冗談ですまないかも知れないんだ。但し、この話は亜希ちゃんには内緒だぞ。余計な心配させたくないからな」
また真剣な表情の姉。もう、どこまで信じていいのかわからないよ。
「そんな顔するなよ、武。姉ちゃんの取り越し苦労かも知れないんだからさ」
姉は背中から僕を抱きしめてくれた。ああ、またあの感触……。
「僕も、気にかけておくよ。亜希ちゃんに何かあったら困るから」
僕は姉の手に自分の手を重ねて言った。
「よく言った、武。それでこそ、我が弟だ」
軽く僕の頭を叩き、姉はキッチンを出て行った。
僕は叩かれた頭を撫で、背中に残るあの感触に赤面した。
そして、姉の心配は現実になる。
その時の僕は、そんな事は夢にも思っていなかったけど。




