その百十六(亜希)
私は都坂亜希。現在大学一年。
夏休みになった。
親友の櫛名田姫乃ちゃんに沖縄旅行のお土産をもらった時、
「磐神君、亜希との混浴でも妄想してるんじゃないの?」
なんて言われて、酷く動転してしまった。
確かに、小さい頃は、武君と一緒にお互いの家のお風呂に入った事があるけど、あの頃とは状況が違うし……。
ああ、思い出すだけで、顔が熱くなってしまう。
そんな時だった。
「亜希、忍ちゃんから電話があったわよ」
母が部屋に呼びに来てくれた時、私は「忍ちゃん」が誰なのかすぐには思い出せなかった。
「忘れちゃったの? 昔、近所に住んでいた、従兄の忍ちゃん」
母はキョトンとしている私に呆れ気味に説明した。
「ああ!」
うすボンヤリとなのだが、思い出した。
まだ私が幼稚園に行く前、よく遊んでもらった一つ年上の忍ちゃん。
でもそれからまもなく、公務員であるお父さんの都合で、確か九州に引っ越してしまったのだ。
「落ち着いたら、連絡します」
忍ちゃんのお父さんは、私の父の弟。つまり、叔父さんだ。
あの時、そんな事を言い、叔父さん達はタクシーで空港へと向かったはず。
はっきりとは覚えていないけど、泣きながら見送ったような気がする。
でも、母の話によると、叔父さんからは連絡はなかったらしい。
人伝に聞いた話では、大きな計画立案に携わり、毎日忙しくしていて、更にその後九州から山陰地方に転勤になったため、連絡ができなかったらしい。
山陰への引越しは叔父さん一人でしたらしく、忍ちゃん達は九州に留まっていたようだ。
でも、十五年以上連絡がなかったなんて、どういう事なのだろう?
「お祖父ちゃんと叔父さん、うまくいってなかったからね」
母が溜息混じりに教えてくれた。
「叔父さんが転勤先で亡くなったらしいの。通夜と告別式は家族だけですませたって」
母は悲しそうに言う。それはそうだ。父と叔父は、たった二人の兄弟だったのだから。
何故連絡すらくれなかったのかと思う。
只、私は、叔父さんには申し訳ないのだが、悲しみがこみ上げて来ない。
ほとんど何も覚えていないから。
「そんなにお祖父ちゃんと仲が悪かったの、叔父さん?」
私は母に尋ねてみた。母は言い辛そうだったが、
「そうね。叔父さん、学生結婚だったのよ。そこからお祖父ちゃんとこじれ始めちゃってね」
「そんな事で?」
呆れてしまったが、今とは時代が違う。
しかも、私の祖父は「頑固一徹」をまさに絵に描いたような「日本の父」だったらしい。
叔父の事を許せるはずがなかった。
祖父が怒ったのは、それだけではない。当時、父は母と婚約中で、もうすぐ挙式という段階だったらしいのだ。
父より三つ年下の叔父が先に結婚した上、花嫁はすでに妊娠してたので、祖父は「勘当」を言い渡したのだそうだ。
勘当だなんて、時代がかり過ぎだけど、仕方ないのかな?
「お祖父ちゃんも、すっかり丸くなってしまって、叔父さんが亡くなった事を知って泣いたそうよ。自分のせいだと何度も呟いていたらしいわ」
悲しい話だ。人って、どうしてわかり合うのに時間がかかるのだろう。
「ああ、そうだ、忍ちゃんの伝言があったんだわ」
すっかり話し込んでしまった母は、苦笑いして言った。
「今日のお昼の十二時、ドコスでランチでもしながら、いろいろ話がしたいんですって。どうする?」
母のその問いかけに、私は首を傾げて、
「どうするって、どういう事? 行きましょうよ、今日は予定ないんだし」
「ああ、違うの。亜希だけで来て欲しいって」
母の様子がおかしいのは、そういう事だったのだ。
「え? それって……」
私は更に混乱した。母は肩を竦めて、
「はっきり言っちゃうわね。忍ちゃん、昔、亜希と結婚の約束をしたのを覚えていて、それが今でも有効か知りたいんですって」
「えええ!?」
私は思わず叫んでしまった。
「どうして断ってくれなかったのよ、お母さん!」
つい母に抗議してしまった。母は頭を掻きながら、
「そうなんだけどさあ。何か、言い出しにくくって……」
テヘっと笑ってみせる母をちょっとだけ憎らしいと思った。
「私には武君がいるんだから、無理に決まってるじゃない……」
私はそう言いながら顔を熱くした。すると母は、
「それはやっぱり、自分の口から言う方がいいわ、亜希」
と言うと、逃げるように階下に行ってしまった。
「もう……」
困り果てた私は、取り敢えず私の彼の磐神武彦君に電話した。
でも、武君は忍ちゃんを全然覚えていないらしく、反応が悪かった。
「覚えていないよね。ごめんね、武君、おかしな事訊いて」
私は、自分で解決するしかないと判断し、単身ドコスに向かう事にした。
約束の時間、私はドコスに行った。
あまりかしこまった服装だと、忍ちゃんに期待を抱かせると思い、Tシャツとジーパンにした。
「いらっしゃいませ」
中に入って、店内を見回すと、昔の面影を僅かながら残した男性が、二人がけのテーブルに陣取り、私に向かって笑顔を見せた。
「亜希ちゃん、来てくれたんだ」
忍ちゃん。もうそう呼ぶのは申し訳ないほど、彼は大きくなっていた。
多分、他の女子から見れば、間違いなくイケメンだ。
座っているのではっきりとはわからないけど、身長も高そうだ。
それにしても、紺のスーツを着ているなんて、営業マンみたい。
カジュアル過ぎる格好の私が間抜けな感じだ。
「奇麗になったね、亜希ちゃん。いや、あの当時から、抜群に可愛かったけど」
忍ちゃんは八重歯をキラッとさせて、歯の浮くような事を言った。
思い出した。彼は、あの頃からこんな感じなのだ。
でも小さかった私は、それが「お世辞」だと気づかず、喜んでいた記憶が甦って来た。
「忍さんこそ、カッコよくなりましたよ」
私は苦笑いしながら、向かいの席に座った。
「ありがとう、亜希ちゃん。でも、忍さんは嫌だなあ。昔通り、忍ちゃんでいいよ」
忍ちゃんはニコッとして言う。私は顔が引きつっていないか心配になりながら、
「そ、そうですか」
と応じるのが精一杯だった。そして、叔父さんの事を思い出し、
「このたびはご愁傷様でした」
と頭を下げた。すると忍ちゃんは、
「ああ、親父の事? いいよ、そんな事言わなくて。転勤先で愛人作って、その揚げ句酒が原因で死んだんだからさ」
と苦々しそうな顔で言った。
私はびっくりして、目を見開いた。転勤先で愛人?
だから、葬儀を連絡なしですませてしまったのかな?
「そんな陰気な話より、僕らの話をしようよ、亜希ちゃん」
忍ちゃんは私の手を握って来た。でも振り払えない。
どうしようと思った時だった。
「あれえ、亜希ちゃんじゃない?」
そこへ救いの神、武君のお姉さんの美鈴さんが、お友達の藤原美智子さんと共に現れたのだ。
「こ、こんにちは、美鈴さん」
私が挨拶すると、何故か忍ちゃんはビクッとして手を引っ込め、顔を俯かせた。
「あれ、あんた、昔近所に住んでたお漏らし君?」
その顔を覗き込んだ美鈴さんのいきなりの「爆弾発言」で、赤面した忍ちゃんはスッと立ち上がると、
「また連絡するね!」
と言い、店を飛び出して行った。
「何だよ、あいつ?」
美鈴さんは忍ちゃんが出て行ったドアをムッとした顔で睨んでいた。
私達より三つ年上の美鈴さんは、忍ちゃんの事をはっきり覚えていた。
「あいつさ、チビのくせにませててさ。ホント、根っからのエロヤロウだったよ」
美鈴さんは、忍ちゃんの「悪行」の数々を話してくれたが、どれもこれも凄過ぎて、私は藤原さんと赤面したままだった。
「でも、助かりました、美鈴さん。ありがとうございます」
美鈴さんのトークが止まらないので、私はそう言って強制終了にした。
「ませガキなのにオムツが取れるのが遅かったみたいで、よく漏らして泣いてたんだ」
ガハハと笑う美鈴さん。
忍ちゃんも、悪い人にまずい事を知られていたのね。
お陰で私は助かったけど。