その百十二
僕は磐神武彦。大学一年。
昨日、バイトの帰りに同じ外国語クラスの丹木葉泰史君を見かけた。
気になった僕は、つい後をつけてしまった。
そして、嫌な予感は的中した。
丹木葉君は、高校の同級生であり、同じ大学に通っている橘音子さんの家に行ったのだ。
そして彼は、握りしめていた封筒を郵便受けに入れ、走り去った。
とんでもないものを見てしまったと思った。
通学途中、彼女の都坂亜希ちゃんにその事を話した。
「それ、ちょっとまずいね、武君」
亜希ちゃんも、丹木葉君の行動に驚いていた。
「ストーカーではないけど、橘さんがどう思うかなって心配なんだ」
僕は周囲に聞こえないように声を低くして言った。
「そうね。絶対、今まで以上に引かれると思うなあ」
亜希ちゃんは憤然として、
「男子って、女の子の気持ちを無視する人が多いよね。自分は好きなんだから仕方ないっていう論法で、ドンドン突き進むタイプ。嫌いだな、そういうのって」
と言った。思わずビクッとしてしまう僕。すると亜希ちゃんはクスッと笑って、
「武君は違うよ。っていうか、武君、私が押さないと答えてくれないタイプだもん」
「あ、そうなんだ」
僕は苦笑いするしかなかった。
やがて僕達は大学に着いた。何となく、丹木葉君に会いたくない自分がいる。
何しろ、彼は僕に見られていたのを知らないのだから。
どんな顔をすればいいのか、迷ってしまう。
「あ」
そんな事を考えていたら、丹木葉君が歩いているのを見つけた。
前を歩いているから、彼は僕達には気づいていない。
その時だった。
「丹木葉君!」
橘さんが前から歩いて来た。丹木葉君がピクンとするのがわかる。
彼は立ち止まり、ズンズン近づいて来る橘さんを待つ形だ。
僕と亜希ちゃんは顔を見合わせ、立ち止まった。
「何これ? 気持ち悪いからやめてください。はい!」
橘さんは丹木葉君に昨夜投函された封筒を突き出した。
うわあ。橘さん、怖い。周囲を歩いている人達は、二人を見比べながら通り過ぎて行く。
「え、でも、その……」
後ろ姿の丹木葉君は、表情はわからないけど、明らかに動揺している。
「二度とそんなもの、郵便受けに入れないで。またあったら、警察に相談しますから!」
橘さんは目を吊り上げて怒っていた。あの可愛い顔が凄い表情になっている。
彼女はプイと背を向けると、そのまま学部棟へと歩いて行ってしまった。
「強烈ね。ちょっと言い過ぎって気もするな」
亜希ちゃんは目を見開いて呟いた。僕もそう思う。
丹木葉君は肩を落として振り返り、僕達に気づいた。
僕と亜希ちゃんは気まずかったけど、会釈した。
丹木葉君も会釈を返し、僕達の横を通って、大学から出て行ってしまった。
「何だか、盗み聞きしていたみたいになっちゃったね」
亜希ちゃんは溜息を吐いて言った。
「そうだね」
僕も切なくなって溜息を吐いた。
結局、丹木葉君はあのまま戻って来なかった。
その日最後の講義が終わると、若井建君と長石姫子さんが近づいて来た。
「泰君、どうしちゃったの? 大学に来る途中で行き会ったから、あれって思ったんだけど」
長石さんが尋ねる。僕は亜希ちゃんと顔を見合わせて、どうしたものかと思っていたが、橘さんが二人の後ろに見えたので、
「さあ。どうしたんですかね」
とはぐらかした。
「心配だから、丹木葉の携帯にかけてみるよ」
若井君が鞄の中から携帯を取り出すと、
「そんな事しなくていいの、若井君。あんなストーカーに」
橘さんが口を開いた。げ。ストーカーって……。確かにそれに近い事を丹木葉君はしたけど……。
「え?」
若井君と長石さんは、橘さんのその言葉に驚いて彼女を見る。
僕と亜希ちゃんも橘さんを見た。
そして橘さんは、朝あったことを全部、若井君と長石さんに話してしまった。
「そうか。そんな事があったのか」
若井君は複雑な表情だ。丹木葉君の橘さんに対する思いを知っているからだろう。
「音子ちゃん、ちょっと言い過ぎじゃない? 泰君をストーカーだなんて」
長石さんがそう言うと、橘さんは、
「立派なストーカーですよ。毎日のように私の後をつけて、その上気持ち悪い手紙までよこして」
と身震いする。
「気持ち悪い手紙? 何が書いてあったの?」
長石さんはズケズケと尋ねた。すごいなあ。僕には訊けない。
「気持ち悪いから、開けてもいません」
橘さんのその言葉に僕はちょっとだけあれっと思った。
「そうなの」
長石さんも、橘さんの丹木葉君に対する態度に何か感じるものがあったのか、興味本位の顔から、真顔になったようだ。
「私、音子ちゃんの事、もっといい子だと思ってたけど、違ったみたい」
長石さんの言い方は冷たかった。若井君がギクッとした。橘さんは驚いた顔で長石さんを見た。
「姫子、あのさ……」
長石さんを止めようとする若井君。しかし、長石さんは、
「泰君からの手紙を読みもしないで、気持ち悪いって酷いと思わないの?」
と構わず続けた。長石さんにしては正論を言っている気がする。あ、これ、失礼かな?
「でも……」
橘さんは何か言おうとしたが、言葉が出ないみたいだ。自分でもその通りだと思っているのかも知れない。
「貴女との付き合い、考えないとね」
長石さんはそう言うと、スッと橘さんを押し退けて、ホールの階段を上がって行く。
「姫子!」
若井君は二人を互い違いに見ていたが、長石さんを追いかけた。
「何よ、私から若井君を奪っておいて!」
橘さんが涙声で怒鳴った。その声はホール中に響くような大声だった。
ホールにいた人達が一斉に橘さんを見た。
長石さんは駆け上がっていた足を止めて振り返り、
「そうね。確かに奪ったわ。でも、その私と建を、貴女もつけてるじゃない? その貴女に泰君をどうこう言う資格があるの?」
と同じくらいの大声で言い返した。長石さん、気づいていたんだ。
「……」
橘さんは黙り込み、俯いてしまった。長石さんは追いついた若井君と共にそのままホールを出て行った。若井君は橘さんを気にしていたけど。
僕と亜希ちゃんは、只唖然としてそのやり取りを見ていた。
しばらくして、橘さんは無言のままホールを出て行き、僕と亜希ちゃんも目配せし合ってホールを出た。
「武君」
亜希ちゃんが大学を出た辺りで言った。
「何?」
「関わらないでね。今回の事は、誰にも仲裁できないわ」
亜希ちゃんは真剣な顔で言う。
「そうだね。わかった」
僕も異論を唱えずに素直に返事をした。
その日はバイトのため、いつものように駅で亜希ちゃんと別れた。
幸いな事に、駅には長石さん達も橘さんもいなかった。
ホッとしてバイト先に向かった。
コンビニの辺りで、今度は丹木葉君に会うんじゃないかと思ったが、彼の姿も見かけなかった。
何事もなく、その日のバイトは終了した。
家に帰ると、まだキッチンの明かりが点いている。
明日早出の母はもう寝ているはずだから、姉が起きているのだろう。
「只今」
挨拶しないとうるさいので、僕はキッチンに行って声をかけた。
「お帰り、武」
何故かバスローブ姿の姉がいた。裾から覗く素足にドキッとしてしまう。
「どうしたの?」
つい、訊いてしまった。話が長くなるかも知れないのに……。
「どうしたらいいと思う、武? 毎晩裸で寝てるんだけど、高熱どころか、風邪すらひかないんだ」
縋るような目で僕を見る姉。何を考えているのかと思ったら、そんな事か。
「じゃあ、水風呂に入って、髪の毛濡れたままで寝たら?」
僕は面白半分にそう言ってみた。すると姉は、
「おお! ありがとう、武! そうしてみるよ! 協力、感謝する!」
ムギュウッと抱きしめられた。いつもよりずっとあの感触が……。
そうか、バスローブの下は何も着ていないんだ……。
ああ、いかん、鼻血なんか出したら、変態だと思われる……。