その百十一
僕は磐神武彦。大学一年。
とうとう、大学生活初の前期試験に挑む事になった。
それが終われば、夏休みだ。
高校の時と違って、完全に自由な休暇。
しかし、だからこそ、何かをしなければならない時でもある。
まあ、夏休みはバイト三昧だろうけど。
只、彼女の都坂亜希ちゃんとの事を考えると、そんなに働いてばかりと言う訳にもいかない気もする。
その上、姉の婚約者の力丸憲太郎さんのお母さんの香弥乃さんに、
「家に招待したい」
とも言われていて、何かと波乱万丈な予感なのだ。
亜希ちゃんといつもと同じように大学に行った。
そして、試験の第一日目はあっという間に終わった。
高校の時ほどではなかったが、試験時間の長さと問題範囲の広さにドキドキした。
僕と亜希ちゃんは駅へと向かった。今日はバイトなので、そこから別行動だ。
この前、ホームで、仲良く歩いている若井建君と長石姫子さん、そして、それを離れて見ている橘音子さんを見かけた。
その後、三人には何も変化はない。
橘さんはごく普通に(少なくとも僕にはそう見える)若井君と話し、長石さんと笑ってお喋りしている。
あれが大人なのかな、などと思ってしまった。
僕なら、絶対にあんな風にしていられない。
そう言えば、姫つながりで、今ふと中学の時の同級生の櫛名田姫乃さんを思い出した。
あの人も、長石さんと同じく、積極的で困ったけど。
「じゃあね」
亜希ちゃんは携帯で誰かと話していたらしく、そう言って携帯を切ると、バッグに入れる。
「ごめん、武君、お待たせ。行きましょ」
亜希ちゃんは、ぼんやりしていた僕が長電話に呆れていると思ったのか、すごく申し訳なさそうに言った。
「ああ、別にいいよ。誰からだったの?」
「姫ちゃんから。しばらく話してなかったから、嬉しくて長く喋っちゃった」
ペロッと舌を出して言う亜希ちゃん。ああ、そういうのも可愛い。
「そうなんだ。偶然だね」
そう言ってしまい、あっと思う僕。
「偶然? 何が?」
亜希ちゃんはキョトンとした。
それはそうだ。僕はたまたま櫛名田さんを思い出した。
亜希ちゃんはその櫛名田さんと話していた。
そんな訳で思わずそう言ってしまったが、亜希ちゃんには何の事かわからない。
だからと言って、
「櫛名田さんの事を思い出していたんだ」
とは断じて言えない。それはダメだと思う。絶対変に思われる。
「ああ、その、須佐君と随分会っていないなあって思っていたんだ、ちょうど」
僕は嫌な汗を背中にいっぱい掻いて言った。
「そうなんだ。でも、どうして急に須佐君を思い出したの?」
亜希ちゃんは別に他意なく疑問に思った事を訊いているだけなのだろうけど、僕は心臓が飛び出すのではないかと思うくらいビクビクした。
「ほら、あの予備校に『東大合格率』っていう垂れ幕が下がっているからだよ」
僕は咄嗟に視界に入った予備校を指差し、うまく言い逃れた。
「ああ、そうなんだ」
亜希ちゃんは垂れ幕を見上げて頷く。
「私、てっきり、姫ちゃんの事を思い出しているのかと思ったわ」
ううう。発作が起こりそうだ。息が詰まる。亜希ちゃん、本当は何もかもお見通しなのでは……。
「そ、そんな事ないよ。嫌だなあ」
僕はじっとりと汗ばんだポロシャツをパタパタさせて、亜希ちゃんに愛想笑いをした。
「変な武君」
亜希ちゃんは全然僕の動揺に気づいていないようだ。
僕の様子がおかしいのは気づいているらしいけど。
「武君」
亜希ちゃんが手を引いて階段の陰に誘導した。
これは、もしかして……。
亜希ちゃんは目を閉じ、サクランボのような潤いのある唇をチョンと突き出す。
僕はそれに応じ、軽くキスした。
最近、日を追うごとに、なんていうと大袈裟かも知れないけど、亜希ちゃんが大胆になっている。
「じゃあね、武君。頑張ってね」
亜希ちゃんと僕は手を振り合いながら、違うホームへと歩き出した。
今日は、若井君と長石さんの姿はない。もちろん、橘さんの姿も。
たびたびあんなのを目撃すると、当人達に会った時、何となく気まずいからなあ。
僕はバイト先のコンビニがある駅で降りた。
コンビニの先の路地を曲がると、橘さんの家があるらしい。
近いのかな? まあ、どこにあってもいいけど。
いかん、いかん。他の女の子の事を考えるなんて……。
僕は、亜希ちゃんに心の中で土下座してから、コンビニに向かった。
顔見知りに会うかと思ったが、そんな時には誰も来ないものだ。
僕は寂しいような、ホッとしたような複雑な心境でバイトを終えた。
「お疲れ様です」
裏口から出ると、そのまま駅へと歩き出す。
もう十時過ぎだ。
人通りもまばらになっている。
だからこそ、目に付いたのかも知れない。
(丹木葉君?)
そう。橘さんに好意を寄せている丹木葉泰史君を見かけたのだ。
彼の方は、何か封筒のようなモノを握りしめ、ブツブツ言いながら歩いているので、僕には気づいていない。
こんな時間にどこに行くんだろう?
ああ、でも、橘さんと高校が一緒だから、家がこの辺なのか。
そう思って、駅に行こうとした時、丹木葉君が角を曲がった。
そこは、以前橘さんを送った時、彼女が曲がった路地だった。
まさか? 嫌な予感がしてしまい、つい丹木葉君をつけてしまった。
お互いの家が近いんだよ、きっと。
そう思いながらも、尾行もどきをやめられない僕。
あ、丹木葉君が立ち止まった。ハッとして電柱の陰に隠れる。
丹木葉君はある一軒の家の前に立ち、その家の二階を見つめている。
思わず唾をゴクリと飲みそうになるくらい、ハラハラして来た。
丹木葉君はしばらく二階を見上げてから、手にしていた封筒をその家のポストに入れると、駆け去った。
僕は丹木葉君が見えなくなってから、その家の前に近づき、表札を確かめた。
そこには「TACHIBANA」とローマ字で書かれていた。
ああ、やっぱり……。
どうしよう? つけてこなければ良かったと後悔した。
明日どんな顔をして二人と顔を合わせればいいんだ?
いろいろ考えながら家に帰った。
「只今」
玄関の中が明るかったので、そう言って中に入った。
すると、そこには幽霊でも見たのかと言うような雰囲気で姉が立っていた。
「どうしたの、姉ちゃん?」
僕はその姿にビビりながら尋ねた。すると姉はいつもの元気はなく、
「武、リッキー宅への訪問、姉ちゃんも呼ばれた」
と携帯を差し出した。
「え?」
携帯を受け取り、その画面を見ると、香弥乃さんからのメールで、
「美鈴さんだけお呼びしないのは失礼なので、武彦君と亜希さんと三人でいらしてください」
と書かれていた。
「姉ちゃんはこれから高熱を出すために毎日裸で寝るから」
「ええ!?」
何、その宣言? やめてよ、迷惑だから!
「後の事は頼んだぞ、武」
そう言うと、姉はダアッと階段を駆け上がった。
全く。発想が小学生だよ。
そんなとこが可愛いんだけどね。