その百七
僕は磐神武彦。大学一年。
先日、姉に、
「今度の日曜日の食事会の挨拶を考えておけ」
と言われ、頭の中が真っ白になった。
そこですぐに彼女の都坂亜希ちゃんに相談した。
「まだ時間あるんだし、二人で考えようよ」
優しい亜希ちゃんはそう言ってくれた。ホッとした。
ホントに亜希ちゃんは僕の女神様だ。
そう言うと嫌がられるので、言えないけど。
それから、橘音子さんが亜希ちゃんと二人で話があるって言って来て、僕は先に教室に行くように言われた。
亜希ちゃんと橘さんが何を話したのかすごく気になったけど、亜希ちゃんがその事に触れて欲しくないみたいだったので、尋ねなかった。
その日はバイトが休みだったので、久しぶりに亜希ちゃんと二人で帰れると思ったら、姉が現れて、
「今日もキスしたのか?」
と訊いて来た。僕は動揺しながらも、
「姉ちゃんこそ、今日もキスしたの?」
と訊き返した。姉は高笑いして答えるかと思ったが、
「バ、バカ、恥ずかしい事訊くな!」
と妙に可愛い声で言うと、走り去ってしまった。
意外だ。って言うか、やっぱり僕の姉だ。
本当は恥ずかしがり屋なんだよね。
何となくホッコリした気持ちになっていると、
「相変わらず仲がいいね、美鈴さんと武君」
と亜希ちゃんに言われた。
ギクッとして亜希ちゃんを見たが、嫉妬して言っているのではないようだ。
ニコニコしていたし、目も笑っていたから。
「そ、そんな事ないよ。僕が仲がいいのは、亜希ちゃんだよ」
それでも、何かフォローはしておいた方がいいと思い、そう言ってみた。
「ありがと、武君」
亜希ちゃんは飛びっきりの笑顔になった。ああ、可愛いなあ。
亜希ちゃんがご機嫌そうなので、僕は思い切って橘さんの事を訊く事にした。
「あのさ、亜希ちゃん」
僕はホームに入って来た電車を目で追いながら言う。
「何、武君?」
亜希ちゃんは電車のドアに近づきながら僕を見る。
「橘さんとは何を話したの?」
僕は電車に乗り込みながら尋ねた。亜希ちゃんは座席に腰を下ろして、膝の上に鞄を置き、
「大した事話してないよ。結論から言うと、武君はお人好し過ぎるで一致しました」
「は?」
僕は亜希ちゃんの隣に座りながら、キョトンとしてしまった。
亜希ちゃんはクスクス笑いながら、
「私も、橘さんがそれだけ言うと話を切り上げたので、ポカンてしてしまったの。今の武君みたいにね」
「そうなんだ」
僕はホッとしていいのか悪いのか、一瞬悩んだが、ホッとする事にした。
「武君、話の内容が気になったの?」
名探偵の顔になった亜希ちゃんが僕を見る。容疑者武彦はグッと詰まった。
橘さんが気になるとは言えない。
決して、彼女に心を惹かれているとかではない。
それは断言できるのだけど、いずれにしても、亜希ちゃん以外の女性に興味があるというのはまずい。
同じ外国語クラスの丹木葉泰史君の事があるからというのもあった。
そして、この前、この駅のホームで、歩いて行く若井建君と長石姫子さんをジッと見ている橘さんを見たせいもあった。
これは僕の思い過ごしかも知れないけど、橘さんて、何となく怖い感じがするのだ。
怖いといっても、姉のような怖さではない。
内に秘めた怖さというか。いつか爆発しそうな危うさ? うーん、サスペンス小説の読み過ぎ?
「どうしたの、武君?」
亜希ちゃんがずっと黙っている僕を不思議に思ったのか、尋ねて来た。
どうしよう? 「何でもないよ」は亜希ちゃんと姉には通用しない。
僕は思い切って、この前のホームでの事を亜希ちゃんに話した。
「ふーん。橘さん、やっぱり若井君を諦めていないのね」
亜希ちゃんも深刻な顔になった。
「でも」
亜希ちゃんは僕を見た。僕はドキッとした。
「もう、武君は関わっちゃダメ。自分が傷つくだけなんだから」
亜希ちゃんは僕の事を心配してそう言ってくれたのだろう。
それがわかって、すごく嬉しかったが、でもちょっとだけ寂しい。
橘さんも大事な友達だけど、丹木葉君も友達だ。
彼の事も助けてあげたい。
それは余計な事なのだろうか?
「できる事とできない事がある。それに気づく事も必要だと思うよ、武君」
亜希ちゃんはまるで僕の心を見透かすかのように言い、微笑んだ。
「そうだね」
僕は微笑み返した。
でも、丹木葉君の力になりたい。どうすればいいんだろう?
それに橘さんも何となく心配だし。
「お前はそれどころじゃないだろ!」
頭の中で姉が叫ぶ。
「ちゃんと食事会の時の挨拶を考えとかないと、只じゃ置かないぞ!」
ううう……。確かに、こっちの方が難問だなあ……。