その百三
僕は磐神武彦。大学一年。
父の日は、あちこちで大わらわな姉と僕だったが、例年は何となく厳粛な日だったのに、生まれて初めて陽気な父の日だった気がした。
僕の彼女の都坂亜希ちゃんと、義理のお姉さんになる予定の力丸沙久弥さんに感謝だ。
父のお墓参りをすませた後、亜希ちゃんからメールがあった。
「今日はありがとう。お父さん、大喜びだったよ。武君、好感度アップだよ!」
亜希ちゃんはハートマークだらけの文で、教えてくれた。
お父さんに対する好感度がアップしたのは、喜んでいいのだろう。
そんな亜希ちゃんの可愛さに、僕はメロメロになってしまった。
そして、翌日の月曜日。
僕と亜希ちゃんはいつものように大学に向かう。
「昨日は楽しかったよ、武君」
亜希ちゃんはニコニコしながら言った。
「僕も楽しかったよ」
「お父さんがあんなに嬉しそうなの、初めて見た気がする。今度から、時々お父さんとお出かけしようって思ったの」
「それがいいよ」
僕は、姉がとんでもない父信者なので、父親と娘が仲がいいのは嬉しいのだ。
「でも、あんまりお父さんと仲良くすると、武君、気分悪いよね?」
亜希ちゃんが神妙そうな顔で訊いたので、僕は微笑んで、
「そんな事ないよ。すごくいい事だから、嫉妬したりしないよ」
「そう」
亜希ちゃんは嬉しそうだ。元々、亜希ちゃんはお父さんとは良好な関係だから、お父さんとはずっとこのまま仲良しでいて欲しいのだ。
「只、ちょっとだけ心配なのはね」
僕は声を落として言う。
「何?」
亜希ちゃんが顔を近づけて来る。
「亜希ちゃんが可愛くなり過ぎて、お父さんが『亜希は嫁にやらん』とか言い出すと困るなあって」
「まあ」
亜希ちゃんは目を見開いてから、クスクス笑った。
「でも、そのくらいお父さんと仲がいい方が、僕は亜希ちゃんらしいと思うよ」
僕がそう言うと、亜希ちゃんは、
「武君、嬉しい。私をお嫁にもらってくれるんだ」
「え?」
亜希ちゃんにそう言われて、僕は自分の大胆発言に気づいた。
顔が熱くなるのがわかる。
「う、うん」
恥ずかしかったけど、何とか言えた。
「ありがとう、武君」
亜希ちゃんが腕を組んで来る。
僕達はそのまま、駅まで歩いた。
大学に着いた。
最初は英語。僕と亜希ちゃんは違うクラスなので、別の教室に入る。
「磐神君」
僕が教室に入ると、男子が話しかけて来た。
その子の名前は、丹木葉泰史。確か、亜希ちゃんと同じ外国語クラスの橘音子さんと高校が一緒のはず。
丹木葉君は今まで挨拶程度で、話しかけて来た事はなかったんだけど、何だろう?
僕は不思議に思いながらも、彼を見た。
「おはよう」
丹木葉君は僕に近づくと声を低くして、
「磐神君て、彼女いるんだよね?」
「え? うん。それが何か?」
僕はますます意味不明になったので、丹木葉君をジッと見る。
「ならどうして、音子と一緒にいたの?」
「え?」
何? 嫌な予感。誤解されてる?
「この前、音子と一緒に電車に乗ってたよね?」
丹木葉君の目は真剣そのもの。彼は橘さんが好きなのか?
「誤解だよ、丹木葉君。駅で酔っ払いに絡まれていた橘さんを、バイト先が近かったので、途中まで送っただけだよ」
若井建君の事があったので、僕はきっちり説明した。
「そ、そうなんだ。ごめん、おかしな事を訊いて」
丹木葉君はすぐにわかってくれたようだ。
「気にしないでね。えーと、それから、音子には内緒にしてね」
丹木葉君は本当に恥ずかしそうに言った。
「大丈夫、言わないよ」
丹木葉君は何度も「ごめんね」と言いながら、自分の席に着いた。
「泰君、音子ちゃんの事が好きなのよ」
そばで聞いていた長石姫子さんが囁く。
「そうなんですか」
僕は長石さんの囁き声が耳をくすぐったので、ゾクゾクッとしてしまった。
「だから、悪く思わないで。それに、泰君は建と違って、暴力に訴えたりしないから」
「そうなんですか」
僕は苦笑いして長石さんを見た。
「でも、驚いた。磐神君、音子ちゃんを酔っ払いから助けたの?」
長石さんは妙なところに食いついて来た。僕は更に苦笑いして、
「違うんですよ」
と理由を簡単に説明した。
「へえ。磐神君のお姉さん、カッコいい! 一度会ってみたいな」
長石さんが言ったので、
「長石さんは、姉と気が合うと思いますよ」
「そうかなあ」
長石さんは嬉しそうだった。
そして、ランチタイム。
僕は亜希ちゃんに、丹木葉君と長石さんの話をした。
「そうなんだ。橘さんて、可愛いもんね」
亜希ちゃんにそう振られると、何て答えればいいか、迷ってしまう。
「亜希ちゃんには敵わないけどね」
白々しいと思ったけど、そう言った。すると、
「やだ、武君たら」
案外喜ばれた。あはは。
「確かに、豪快な性格が、長石さんと美鈴さんは似てるから、気が合うかもね」
「そうだね」
姉と長石さん。お酒を飲んだら、凄い事になりそうで怖いな。
今日は昨日バイトを休んだので、いつもより長く働いた。
もう十時過ぎだ。
急いで家に帰る。
「只今」
ソッと玄関のドアを開き、中に入る。
「お帰り」
何故か玄関に、叱られた子供みたいにしゃがみ込んだ姉がいた。
「どうしたの、姉ちゃん?」
つい、心配になって尋ねる。すると姉は、
「昨日の食事会、とっても楽しかったから、来週も是非って、リッキーのお母さんからメールが来た」
とまるで戦地に赴く兵隊のような顔で言った。
そんなに深刻な事?
「良かったね、姉ちゃん」
「他人事だと思って、面白がってるな!」
姉は八つ当たりを開始したようだ。もうこうなったら、とことん聞いてあげるしかない。
「来週は、あんたも一緒だからね」
「えええ!?」
僕は仰天した。噂によると、沙久弥さんの百倍凄いというお母さん。
大丈夫なのだろうか? 何とか逃げる事はできないのだろうか?
「絶対逃がさないからね」
姉がゾッとする声で囁く。本日二度目のゾクゾクッとする声だ。
「亜希ちゃんも連れて行っていいかな?」
試しに言ってみた。
「いいんじゃない。その方が、私も助かる」
姉は嬉しそうに言った。
ああ、でも、亜希ちゃんの承諾なしでそんな話を進めていいのだろうか?
明日にでも言わないとなあ。
困ったなあ。