その九十九
僕は磐神武彦。大学一年。
同じ外国語クラスの長石姫子さんと和解できてホッとした僕。
ところが、それは新たな火種になってしまった。
長石さんは幼馴染の若井建君と付き合う事になったのだ。
長石さんには迫られなくなるし、若井君には睨まれなくなるしで、一挙両得の僕だった。
新たな火種は、そこから始まっていたのだ。
若井君は僕の彼女の都坂亜希ちゃんと同じ外国語クラス。
その同じクラスにいる橘音子さん。
彼女は、亜希ちゃんの話によると、若井君に気があるのだそうだ。
その橘さんが、大学の歩行者回廊で、若井君に平手打ちをしたのだ。
偶然その現場を見てしまった僕と亜希ちゃん。
若井君と橘さんは、その後の講義に姿を見せず、その日は大学から帰ったらしかった。
翌日になって、何だか、僕のせいのような気がしてしまい、気分が落ち込んだ。
「どうしたの、武君?」
駅へと歩く道すがら、亜希ちゃんに尋ねられるほど、僕はしょんぼりしていたらしい。
理由を話すと、ちょっと呆れられる。
「それって、諺の『風が吹けば桶屋が儲かる』と変わらないよ、武君」
「そうかも知れないけど」
僕もそう言われて恥ずかしくなり、頭を掻く。
「でも、そんな優しいところが武君のいいところなんだよね」
ニコニコして言う亜希ちゃんを見て、照れ臭くなる。
「でも、私も気になっちゃうなあ。若井君も橘さんも、同じ外国語クラスだから」
亜希ちゃんも僕の影響で二人の今後を心配し始めた。
「どうしてあんな事になったのか訊いて、力になれればなりたいね」
さすが、亜希ちゃん。高校三年間、委員長を務めていたのは伊達じゃない。
それを言うとムッとされるから、絶対に言えないけど。
大学に着き、学部棟のロビーに入ると、講義の変更などが掲示されているボードの前に、亜希ちゃんと同じクラスの五瀬一郎君と大国主税君が立っていた。
「おはようございます」
亜希ちゃんが二人に声をかける。すると二人は僕が気になるくらい嬉しそうな顔をして亜希ちゃんに近づいて来た。
「やあ、おはよう、亜希ちゃん」
え? 「亜希ちゃん」? 図々しいな、この人達。
亜希ちゃんはちょうど良かったと言う顔をして、早速二人に昨日の一件を尋ねた。
すると五瀬君が、
「ああ、あれは若井が悪いんだよ」
「え? どういう事?」
亜希ちゃんが更に尋ねる。今度は大国君が、
「若井の奴、長石さんが付き合ってくれないもんだから、橘さんと付き合う事にしたんだ」
そうなんだ。
「それで、橘さんは大喜びでデートプランを練って、日曜日に遊園地に行く事になっていたんだ」
再び五瀬君が説明す亜希ちゃんは大きく頷いて聞き入っているようだ。
「それなのに、若井の奴、長石さんと付き合う事になったから、あっさり橘さんに別れ話を切り出してさ」
大国君がまた話し始める。何だか様子が変だな。二人がどんどん代わりばんこに亜希ちゃんに話しながら距離を詰めている気がする。
「それは酷いね」
それに気づいた亜希ちゃんが二人から離れ、僕の隣に立つ。
五瀬君と大国君はようやく僕の存在に気づいたようだ。ハッとして僕を見た。
「橘さんは、長石さんとも友達だから、その関係を壊したくなくて、別れ話に応じたんだ。健気でしょ?」
五瀬君は僕を気にしながらも、亜希ちゃんを見つめて話を続ける。ちょっとムカつくな。
「そ、そうね。じゃあ、何故?」
亜希ちゃんは苦笑いして尋ねる。
そう。何故、橘さんは若井君を平手打ちしたの?
「若井が最低なんだよ。その直後長石さんと行ったのが、橘さんと行くはずだった遊園地なんだ」
大国君は肩を竦めて言った。それは確かに酷いな。
「こら、お喋り!」
そこに長石さんが現れた。僕は思わずビクッとした。
長石さんは僕達に会釈してから、
「勝手に脚色するんじゃないの、あんた達は。騒動の原因は、あんた達じゃないのよ」
「あ、いや、その……」
跋が悪そうな顔になった五瀬君と大国君は、逃げるようにロビーからいなくなった。
「おはよう、磐神君、都坂さん」
長石さんは少しだけ決まりが悪そうに挨拶した。
「おはようございます」
でも僕も亜希ちゃんももう長石さんには何もわだかまりはない。
長石さんはそれに気づいてホッとしたように微笑み、
「あいつら、建が都坂さんを狙ってるって、音子ちゃんに吹き込んでいたのよ」
「ええ!?」
それは衝撃的な話だ。しかも、それを長石さんから聞くなんて。
「都坂さんも気づいているでしょうけど、あいつら、身の程もわきまえずに貴女と付き合いたいと思っていたの」
長石さんにそんな事を言われると、僕と亜希ちゃんは苦笑いするしかない。
「それで、建が参戦すると困るから、そんな嘘を音子ちゃんに吹き込んだの。だから、音子ちゃんが怒って、建をバシッてね」
長石さんはフリを入れて解説してくれた。
「でも、音子ちゃんから建を奪ったのは確かに私だから、半分は本当なんだけど」
長石さんは悲しそうだ。聞けば、橘さんとは浪人時代に同じ予備校で出会って以来の親友なんだとか。橘さんは現役高校生だったけど。
「本当に音子ちゃんは良い子なの。自分だって、建の事好きなのに、建が私と付き合う事になったのを喜んでくれて」
長石さん、涙ぐんでる。この人も橘さんも、すごくいい人だ。
「だから、建とも、音子ちゃんとも、友達になって欲しいの」
「ええ、もちろん。ね、武君?」
亜希ちゃんが大きく頷いて僕を見る。僕も頷いて、
「うん」
と言った。長石さんはニコッとして、
「朝からご馳走様。でも、ありがとう」
と言うと、ロビーから出て行った。
僕と亜希ちゃんは、長石さんに言われた事を思い返し、赤面して顔を見合わせた。
でも、男女の仲って、怖いよなあ。
五瀬君と大国君がそんな人だなんて思わなかったし。
それもこれも、亜希ちゃんが可愛過ぎるからなんだろうな。
ああ、僕、バカな事考えてた。
その日はバイトがあったので、亜希ちゃんとは駅で別れた。
あれ? あの子、確か、噂の橘さんだ。
こんな日も高いうちから酔っ払ってる変なオヤジに絡まれてるぞ。
周囲にいる人達は見て見ぬふり。
どうしよう? 顔見知りが絡まれているのに黙って通り過ぎるのはどうかと思うけど。
相手は酔っ払いだから、僕でも勝てるかな。
意を決して二人に近づいた時だった。
「この子が嫌がってるでしょ? いい加減にしなさいよ、オジさん」
そう言ってオヤジの手を振り払ったのは、正義の味方美鈴仮面、すなわち我が姉だった。
たまにはいいところに現れてくれるんだ。
「おお、あんたも別嬪さんだなあ。みんなで飲みに行こうか、オジさんと」
オヤジは怯むどころか、更にエロそうな顔になる。
「わあ、そうなんだ。じゃあ、お言葉に甘えて」
姉がそう言うと、姉の後ろから三十人くらいの体格のいい男の人達が現れた。
「みんな、このオジさんがご馳走してくれるって」
「おお! ありがとうございます!」
男の人達は、酔っ払いオヤジを取り囲んで次々に握手を求めた。
オヤジはその勢いに抗し切れず、そのままホームの外に連れて行かれてしまった。
すごい、姉ちゃん。
すると、いつから気づいていたのか、姉が僕を手招きする。
「何?」
僕は姉に近づいた。
「リッキーの同級生達に酔っ払いを任せたから、もう大丈夫。後はこの子を送ってあげて」
「え?」
僕は仰天して橘さんを見た。
「大学の同級生なんでしょ? 心配しなくても、亜希ちゃんには言わないから」
姉は悪い魔女のような顔で呟く。
えええ!?
「ご迷惑をおかけします」
橘さんは涙を拭いながら僕に頭を下げた。
「はあ……」
ここで断わったりしたら鬼だ。だから、橘さんを送るのはいいとしよう。
「この先一ヶ月、家の朝食当番、お願いね、武君」
姉の魂胆はそこだった。ああ。どうしてそうなるのさ?
どうなっちゃうの、僕?