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芸術と心と

作者: かななる

私は帰宅してすぐ、母に告げた。


「お母さん、私、芸術大学に行きたい!」


高校三年の夏、みんなが進路を決めて、努力を重ねて、本格的に進学の準備をする時期。


私は志望校を変えた。


散々悩んだ。何度も何度も自問自答を繰り返して、やっと辿り着いた私なりの正解だった。だけど……


「何を言ってるの!?あなたは将来、医者になるのよ!芸術大学なんて行かせられないわ!」


母は猛反対した。


わかってたことだ。母は昔から私を医者にすると豪語していたから。


小学校、中学校、高校。どれもエリートが通う、進学校に入学した。母に言われるがままに。


高校に入学してからも、難関大の医学部に入学できるよう勉強した。母に言われるがままに。


休みたい日もあった。遊びたい日もあった。でも、母の期待に応える為、毎日努力した。


━━私の人生は母の描いたものだった。


でも、今回だけは自分で描きたい。私の灰色の人生に、カラフルな色を与えたい。


「お母さん、最初で最後のわがままだから……お願い」


「ダメよ!あなたは医者にするって決めてるの!」


母は取り合おうともしない。取りつく島もないとはこのことだろう。


それでも、私は何度も頼み込んだ。でも、やっぱり母の許可を得られない。


私は深い谷底を覗き込んだような絶望を受けた。


私が頼んで、母が断る。この押し問答は次第に口論のようになっていった。そして、最終的に、


「あなたなんて、産まなければ良かった!」


母のこの一言で、終わった。


私は自分の部屋に駆け込み、鍵を閉め、ベッドに入る。


月並みな言葉だったけど、私には深く、深く、きた。鋭い悲しみで、枕を濡らした。



思い出すのは、去年の春。学校の行事で美術館に行った。


勉強のリフレッシュに丁度いい、と私は美術品を見て回った。


そこで、見つけた。


たった一枚の絵画だった。


一瞥で、変わった。


飼い慣らされた私の中に、違う世界が生まれた気がした。


私は、絵画に……魅入られた。



「夕飯ができたぞ」


気がつくと、数時間経っていた。この声は、父だ。仕事から帰ったようだ。


私は何気なく返事をし、腫れた眼を擦って食卓へ向かった。


きっと、怒られる。父が帰っているのなら、尚更。


父は厳しい人だ。必要とあらば、折檻のようなものも厭わない人だ。


沈む気持ちを抑え、食卓に着く。すると、やはり父が口を開いた。


「母さんから聞いた、芸術大学に行きたいそうだな」

「うん」


次の瞬間、声を荒げて怒られる……はずだった。


「そうか……頑張りなさい」

「……え?」


怒られなかった。それどころか、応援された。


「あ、ありがとう!お父さん!」


気になって母を見ると、少し不満そうにしながらも、口を開く気配はない。既に父が説得してくれたようだ。


「ごちそうさま!」


ご機嫌で夕食を終え、自室へと向かう。


「待ちなさい」


だが、父に呼び止められた。不意に、一抹の不安が襲った。


「芸術大学へ進学するに当たって、これだけは覚えていなさい」


しかし、それは杞憂だ。


「この世界を、自分の目でしっかりと見なさい。決して、心で見てはいけないよ」


覚悟を込めて、ゆっくりと、


「うん」


頷いた。



桜並木に馥郁とした風が吹き付ける季節。私は大学生になった。


志望した芸術大学だ。


これから初めての絵画の講義が始まる。緊張が胸に降りしきるが、それ以上の期待が胸に溜まっていた。


講義室を埋め尽くす学生たち、それに伴う喧騒が波のように広がる。


ふと、荒い波に凪ができた。見ると、そこには一人の男。彼が教授だと瞬時にわかった。


凪は瞬く間に広がり、講義室は静寂で塗りたくられた。


「皆さん、はじめまして」


どこにでもいるような初老の教授だが、何かが違う。


他とは……違う。


「突然ですが皆さん。芸術において一番大切なことは何だと思いますか?」


技術力、思考力、独創性など。私の頭には数々の言葉が浮かび上がる。しかし、口には出さない。誰も、口には出さない。


教授の次の言葉を、一刻も早く聞きたいから。


「芸術に一番大切なことは……期待しないことです」


期待しないこと。


「私はあなたたちに期待などしていません。あなたたちも、私に期待などしないでください。誰にも期待などしないでください。何にも期待などしないでください」


言い終えた教授は、黙々と講義を進める。


夢にまで見た絵画の講義。でも、私は集中できなかった。


教授の言葉が、私の頭に根付いて、離れなかったから。


『期待しないこと』


それが何故大切なのか、私にはわからなかった。それでも、それはすごく、重く聞こえたから。


講義が終わった。沢山の学生が雪崩のように退室する。


そんな中、私は居ても立っても居られなかった。


足早に教授に迫る。声を掛ける。


「すみません!」

「ん?どうしたんだい?」


優しく反応を返す教授に反して、私は鬼気迫るような面差しに違いない。


「あの、さっきの言葉は……芸術に一番大切なことは、期待しないことって、何故ですか?」

「聞きたいかい?」

「はい」


すると、教授は私の瞳を覗き込み、じっと見つめた。突然のことに、私は少し狼狽した。


「ああ、ごめんごめん。君はとても綺麗な目をしているね。絵が好きなのかい?」

「はい」

「じゃあ今日の講義が全て終わったら私の研究室に来なさい」


そう言って、教授は退室した。


結局、何故なのか聞けなかった。夕方に教授の研究室に伺って、今度こそ聞こう。


それからの講義もやはり頭に入らない。それほどまで、あの言葉が気がかりだった。


内容もさることながら、あの教授が言ったということも要因だろう。不思議な雰囲気を持つ人だった。達観したような……いや、諦観したような雰囲気。でも、人を惹きつける何かがある。


夕方、講座が終わると私はすぐさま教授の研究室に伺った。


ノックをすると返事があり、すぐに部屋に入れてくれた。


「やぁ、よく来たね。ここが僕の研究室だよ。まぁ、アトリエだね」


教授の言う通り、この部屋には様々な画材が置かれていた。


筆やパレットから、ペインティングナイフや礬水など。どんな絵画も描けるよう種類が豊富だ。


そして、それ以上に目を惹かれるのは、部屋の中央に置かれた、大きなキャンバス。


そこには様々な風景が描かれていた。たった一枚の絵画とは思えないような、様々な風景。空や海や山や森。それらが咲き誇るように現されていた。


そして、その中心で羽ばたく、一羽の色のない小鳥がいた。いや、小鳥の形をした空白だった。


「き、綺麗……」

「そうかい?ありがとう。君は、この絵のどこが綺麗だと思ったかい?」

「小鳥の周りの……優雅で荘厳な、この風景たちに」

「そう……やはり、そうか」


教授が少し寂しそうな顔をした気がした。


「あの、小鳥は今から描くんですか?」

「いや、この絵はもう完成だよ……」

「え?描かないんですか?」


私の問いに対し、教授は優しく微笑んで返す。


「描けない、いや、描いてはいけないんだよ。私にはね……」


続けて、私の顔を覗き込んで、


「美しすぎるから」


と。


教授の言葉が分からず、私は呆然とする。


「これが答えだよ。昼間の君の質問のね」


またもや、私には分からなかった。


「まだ分からなくていいんだ。むしろ、分からないままの方がいいのかも知れない」


そう言う教授の瞳は、どこか遠くを捉えているようだった。


「さぁ、今日はもう帰りなさい」

「でも、私まだ何も分からなくて……」

「またいつでも来るといい。絵画のかの字くらいなら教えられるから」


そう言われ、私はしぶしぶ部屋を後にした。



それから私は、毎日のように教授のアトリエへと通った。


教授の技術やその教え方には筆舌にしがたいものがあり、私の中に流れるように染み込んだ。


そんな折、まだ薄ら寒い初春の頃、進級制作をすることになった。


周りの学生が弱音を吐く中、私は……浮き足立っていた。


一年間、教授から教わった技術を駆使して、どのような作品を描くか。想像が膨らみ、雲のように広がった。


浮かんだままにキャンバスを色付けた。誰にも縛られず、私だけのものを……完成させた。


それは、私の心を描いた、最高の作品……になるはずだった。


でも、出来上がった作品は、とても、そんな、そんなものではない。


私は理解した。


まず、教授の言葉を……


次に、父の言葉を……


そして、母の言葉でさえも……


「分かってしまったようだね。僕たちの心は、人の心は、美しすぎるんだよ」

「はい」


教授は悲しそうだった。


「自分の心を、完璧に絵にするなんて……無理なんだよ。だから、期待してはいけないんだよ。自分にさえもね」

「はい」


私は俯いて、返事をした。


「顔を上げて」


教授は私の顔を覗き込むように屈んだ。私は、顔を上げる。


その顔を見て、教授は驚いた。


「何故、君の目はまだこんなに綺麗なんだい?」

「諦めません」


芸術とは野暮なものだと思った。


人の心を、感情を、思考を、形のないものを。絵や文、音や動きで現すなんて。


でも、だからこそ私は惹かれたのかも知れない。


鎖に繋がれた私の心を、解き放ってくれたのかも知れない。


「私は諦めません。いつか、教授の小鳥を描けるように。いつか、私の心を描けるように」

「そうか」


教授は優しく笑っていた。


きっと私も、笑っていた。

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