アジュールと幼子・2
ヴィオラは困っていた。
一周数十分の、一本道のはずの森の小怪を散歩していたはずだった。
それなのに、今、ヴィオラの目の前には薄く霧がかかったエメラルドの湖が現れていた。
一度引き返してみたが、なぜかまた、この湖の前に出てきてしまう。
(さて、困った。これは異世界に迷い混む予兆なのかしら)
カサッと草を踏み分ける音が聞こえたような気がして、後ろを振り返り身構えた。
(たいした魔法は出せないけど、防御ならなんとか………)
急に霧が濃くなり、目の前に差し出した指先までもが見えなくなる。 カサカサという足音は、ゆっくりと近づいてくるようで、少しずつ大きくなる。
私は目を閉じ音に集中した。いつでも防御魔法を出せるように、わずかな魔力を集める。
―――音が止んだ。
こわごわと目を開けると、黒曜石のような二つの黒い瞳と目があった。 そして、額の真ん中には鋭い角が生えている………ユニコーン………なのかしら?
角の先が私の額に当たりそうで、皮膚がピリピリとしてきた。
どれくらい対峙しているのだろうか、時間の感覚が無くなっていく。
『不思議な魂を持つ娘よ。頼み事がある』
唐突にその生き物は語りかけてきた。
『ついてきなさい』
私の意思を無視して、身体が勝手にフワフワと動き出し、角の生えた白馬の後ろを付いていった。
しかし、不思議と恐怖感はなく、どこか心地好い感覚があった。
―――行き着いた先に、あの幼子がいた。
そして、いまにも襲い掛かろうとしている、狼のような魔物が数体、幼子の回りをうろついている。
(うろついてる?)
いや、時間が止まっているようだ。 魔物の口元から滴り落ちたようなヨダレが、空中に浮いていた。
『あの幼子を助けて欲しい』
「私には無理よ。魔力が無いもの」
私は咄嗟に答えるが、ユニコーンは諦めない。
『あの幼子を助けて欲しい』
同じ言葉を繰り返すだけだった。
「だから、私には無理なの! 魔力がないのだから」
私は、繰り返し叫ぶ。すると、ユニコーンの黒曜石のようだった瞳が、みるみるうちに紅く変わっていった。
(あぁ、ユニコーンは気難しく、獰猛だったわ)
気付いた時には遅かった。 ルビーの瞳に変化したユニコーンは、私の胸に向かって角を突き立ててきた。
私はギュッと目を閉じ、死を覚悟した。
(いっ、痛くない?)
恐る恐る目を開けてみると、ユニコーンの角はしっかりと私の胸に突き立っている。 不思議な光景だった。 どう見ても、角の根元が私の胸にある。
『お前の枷を外した』
そう言いながらユニコーンは、私を時間の狭間にいる幼子の元へと押し出していく。 ズブズブと角が胸に深く刺さる。
『偉大なる魔法使いの魂を持つ者よ。あの幼子を助けて欲しい』
ユニコーンが身体から離れると、胸にポッカリと穴が開いている。 まったくもって理解不能だった。 何が起きたのだろうか。
幼子の恐怖に怯えた顔が目に入る。
おそるおそる彼女の頬に手を当てると、微かに暖かい。 生きているのだろうか。
(でも、医務室では、この子の重みはまったくもって感じなかったわ)
もう、何が何だかわからない。
『では、頼んだぞ』
言い終わるかどうかのタイミングで、全てが動き出した。 幼子は、私を見るなりしがみつき、魔物の唸り声が聞こえる。
こんな事になるとは思わなかった。 平凡な人生を送る予定だったのに、どこで選択を間違えたのだろうか? これは、サイドストーリー? エンド後の新ルートの布石?
頭の中で色々な可能性を模索するが、そんな余裕はなさそうだ。
私は、今、幼い女の子を背に庇い、両手でも余る位の数の狼型の魔物と対峙している。
(さて、どうしたものか。本当に魔法が使えるのだろうか)
いつの間にか握りしめている、白い杖を見つめる。
アメシスタス家は、風魔法が使えるはずだった。 その時、イメージが沸いた。『刃の竜巻』だ。
魔方陣と共に竜巻が巻き起こり、魔物達が飲み込まれ、切り刻まれていく。
(私、魔法を使っているわ)
驚きながら白い杖を握りしめていると、急に横から魔物が飛びかかってきた。 咄嗟に杖を向けると魔方陣が浮かび上がり、一筋の光が伸びたかと思うと魔物が消滅した。
座学で学んだ『通常攻撃』だ。
しかし、まだウンザリするほどの魔物に取り囲まれている。 私は、幼子をギュッと抱きしめた。
(この子を守りきらないと、今後こそユニコーンに殺されるわ。きっと)
魔物達はジリジリと距離を詰めてくる。そして、一斉に飛びかかってきた。
私は幼子を胸に守りきる事をイメージをした。
自然に言葉がこぼれる。
「完璧なる盾」
―――静寂が戻ってきた。先程の喧騒が嘘の様だが、生臭さと魔物の残骸が現実だと教えてくれる。
『イマ』
そんな声が頭に響いてきた。
『イマ』と言えば『アカンサスの花園』の中に出てくる女神の名前だったような。
もう、どこまでが小説の世界なのか、どこからが現実世界なのか。
私はいったい何者なのだろうか。 小説の世界を壊しても良いのだろうか。
(まぁ、もうだいぶ小説と変わってしまったから、今さらよね……)
幼子が腕の中にいる事に安心したとたん、急に睡魔に襲われる。 ユニコーンに刺された穴を眺めながら、ヴィオラは眠りについた。