番外編 セレスティナ 前編
長くなったので、三話にわけます。
番外編が本編より長くなるって、どういうこと?
ねちねちした文章になった気がします、きつかったら、無理しないでください。
(まあ。この方は前世で読んだ漫画のキャラクターだわ)
そんな、ありきたりの台詞と共に思い出しました。
八歳の時です。
私はセレスティナ・デラクルス。このノベーラ王国屈指の名門、デラクルス公爵家の娘です。父はデラクルス公爵。
私の祖先には建国に貢献してノベーラ史に名を残した方、芸術や学問の分野で活躍して国外にまで名の知られた学者や芸術家が、何人もいるのですよ。
そういう家の当主の長女として誕生したのだから、私も当然、ふさわしい未来が用意されていました。
ノベーラの王妃となり、王国の良き後継者をもうけてこの国を繁栄に導くこと。
それが、デラクルス公爵令嬢たる私に与えられた役目であり、使命でした。
そして今日は、その使命を果たす第一歩。
王宮で、夫となる未来のノベーラ国王、レオポルド王太子殿下と初めて対面する日でした。
殿下は私より一歳年長。天使のように愛くるしい顔立ちながらも、すでに王族らしい気品と風格をただよわせ、笑顔で私に手を差し出してこられます。
私はその瞬間、頭の中でなにかが閃き、山のような情報に襲われました。
(これは…………ここは『漫画』の中の世界? この方は――――私を捨てて、他の女と結婚しようとして失敗する、愚かな王太子だわ――――!)
私は、セレスティナ・デラクルスとして誕生するよりも前、別の世界で生きていた時に読んだ、物語の中の登場人物に転生してしまっていたのです。
『婚約破棄されたけど、私は皇子に溺愛されている悪役令嬢です!』
花宮愛歌という漫画家の作品です。
内容は当時、流行していた『悪役令嬢』のテンプレートを踏襲したもので、乙女ゲームの世界の悪役令嬢セレスティナ・デラクルスに転生した主人公が、愛するヒーローに助けられながら様々な妨害や試練を乗り越え、聖女の力と地位を得て幸せになる――――そのような筋書きだったと記憶しています。娘が「クラスで流行っている」というので買い与え、私も一通り目を通した漫画です。そこそこ楽しめた記憶があります。
『悪役』などと物騒な単語がついていますが、セレスティナ・デラクルス本人は容姿端麗、才色兼備、品行方正と非の打ちどころのない理想的な貴族令嬢で、良き王妃となるための努力を重ねてきたにも関わらず、そのあまりの完璧さに婚約者であるレオポルド殿下が萎縮して、彼女を忌避するようになった…………という報われぬキャラクターです。
まあ、悪い女に容易く篭絡される程度の男性の手には余る女性だった、と言えるでしょう。
「私がそのセレスティナだなんて…………」
人払いした自室で一人、鏡にむかいます。
プラチナを溶いたような銀の髪、南国の海を思わす明るい青の瞳、白磁のごときなめらかな肌。鼻も唇もすべて完璧な形に整い、難点があるとすれば、目尻がわずかに吊り上り気味なために、やや険のある印象を与えることでしょうか。
ですが、全体としては申し分のない美少女です。作者の花宮愛歌も、画力は突出した漫画家でしたしね。
「異世界転生…………でも漫画では、セレスティナの前世はしがない三十代のOLでは…………」
キャラクターの名前は思い出せませんが、漫画で読んだ前世と、私自身が思い出せる前世にはずいぶん差があるように思います。
記憶では、セレスティナの前世である日本人女性は母子家庭で、ずっと困窮した生活を送っており、高校卒業後も進学せずに派遣で働きつづけた、これといった取り柄のない人物だったように思います。
ですが私自身の前世は正反対。
私は両親に兄一人と姉二人の六人家族で、幼稚舎から私立に通っていましたし、大学にも進みました。就職こそしませんでしたが、それは私が名のある家の娘だったから。
前世での私の実家は、誰もが知る大企業(名前は出しません。本当に、日本に住む人なら知っていて当然の企業ですからね)の創業者一族で、父はその当主。兄は後継者。親戚には議員も複数人おり、先祖には大臣を務めた方もおります。
そういう家に生れた女であれば、父の決めた相手と結婚して夫を支えることこそが使命であり、世間の女がいうような『自分のために生きる』などという考えはただの利己主義にすぎないのです。
「働くのは立派な社会貢献でしょ」
そう主張する女性もいました。たしかに、彼女らのように一般的な夫を持つのが当たり前の階層では、そのような考え方も通用するでしょう。
けれど私のような血筋や家柄の女となると夫も、政界や財界の要職に就く方や、その一族から選ばれるのが当然でしたから、夫が職務に邁進して社会への責任を果たすことができるよう家庭から支える、それこそが社会貢献なのです。
前世の私の夫も、実家とは別の大企業の社長令息で、私達の間には娘も一人おりました。
一方、漫画でのセレスティナの前世は独身で、子供どころか恋人や親しい友人もなく、この点も私とは大違いでした。
推測ですが、前世の私は四十歳前後で死んだようです。
まだ高校生だったはずの娘が母親の早すぎる死のあと、どうなったか。父親と仲良く暮らすことができたのか。家と血筋にふさわしい夫を見つけることができたのか。夫は妻亡き後、どうやって生きたのか。父や母は末娘が自分達より早く逝ったことを受け容れることができたのか…………思い出すと、気にかかる事柄がいくつも出てきます。
けれど答えを得る手段は、今の私にはありませんでした。なに一つ。
「わからないわ…………何故、私がセレスティナになっているのかしら?」
小さな手で白い額を押さえ、何日も悩みました。
けれど周囲はみな、私を『八歳のセレスティナお嬢様』として扱いますし、私自身、前世に戻る手立てなど見当もつきません。
私は悪役令嬢セレスティナ・デラクルスとして生きることを決めました。
他に道はありませんでした。
そしていったん心を決めると、存外悪くない現実に思えました。
説明したように、私は前世では名のある家の娘で、名のある家に嫁ぎましたが、私は私の正しいと考える信念を、私の人生で完璧に実行できたとは言えません。
私の信念を実行するには、あの日本という社会そのものがふさわしくありませんでした。
名家に生まれた私はふさわしい教育や扱いを受け、相応の教養や洗練された美を身につけました。それはあの家に生まれた人間なら当然の義務でしたが、私の周囲の一般的な人々(いわゆる庶民ですね)はそれを理解せず、ただ私を「運よく、いい家に生まれてきただけ」と見なして私を妬み、やっかんできたのです。
私は上流に生まれ育った女です。私の家は『セレブ』などという、手垢のついた単語で表せる血筋ではありません。『高貴』です。
そして高貴な者には相応の役割があり、それは高貴でない者には果たしえないものだからこそ、高貴な者には高貴な生活を用意されている、というだけなのですが…………私が前世で出会った人々の中で、それを理解できた人はいなかったように思います。
良くも悪くも日本は平等を尊ぶ社会であり、私は彼らにとって、ただ「親ガチャに成功しただけ」「実家が太いだけ」の女でした。
社会そのものが高貴を許さない作りだったのです。
けれど、この世界は違います。
ノベーラはじめ、この世界に存在する国々には当然のように上流と下層の区別があり、高貴な生まれの者が当たり前に存在していて、人々も生まれた時からその区別の中で育ち、高貴な人間とそうでない自分達の差を、自然なものとして受け容れている。
なんて優れた世界でしょう!
私もこの世界でなら、真の自分を押し殺すことなく、のびのびと生きていける気がします。
ましてや私は、セレスティナ・デラクルス。名門公爵令嬢で、この物語の主人公!
前世につづき、新たな人生でも高貴に生まれてきたのは、きっと神が私に「今度こそ高貴たるものの義務を果たせ」と望んでいるからでしょう。
むろん、果たしてみせようではありませんか。
私はセレスティナ・デラクルス。いずれ聖女となって人々に崇められる、選ばれし高貴な人間なのですから。
さて。いざ方針を決めると、私は主に二つの問題にぶち当たりました。
一つは味方について。
騎士団長の令息、宰相の令息、大神官長の令息。この三人はセレスティナの幼なじみで、彼女の優しさや高潔さによって傷ついた心を癒されて以降、彼女に恋心にも似た深い思慕を抱きつつ忠誠を誓うという、友人の中でも特に親しい設定のキャラクター達です。
…………が、実はこの三人、漫画の序盤からセレスティナを裏切るのです。
令息達は将来の重臣として王太子やセレスティナと共に王立学園に通いますが、その学園である女と出会い、王太子共々彼女に篭絡されてセレスティナを断罪しようとして皇国の第三王子に阻まれ、最終的には貴族としての身分と権利を剥奪されて、辺境の神殿に送られる…………という、愚か者達なのです。
(どうしましょう)
私は悩みました。
正直、裏切るとわかっている者達に手を貸す必要性は感じません。
口ではなんと言おうと、卑しい女のみだらな手練手管に負けてしまう男達。生来そのような性根だったと思えば、味方にいてほしいとも思いません。
けれど漫画のことがありました。
この世界は、花宮愛歌が描いた物語の世界。
この世界において漫画の筋書きは、いわばさだめられた運命のようなもの。
そこに安易に逆らえば、どのような反動が生じることか。
私はセレスティナ・デラクルス。愚かな王太子によって窮地に立たされながらも、その麗質ゆえに真に優れた皇子に救われ、神から聖なる力をも授かって、人々に皇子妃にして聖女と崇められる選ばれし主人公。
私にふさわしい生き方でしたが、それを現実のものにするには漫画どおりに話を進める必要がありました。
つまり、あの三人を遠ざけることは可能ですが、そうすると漫画どおりの展開にならない可能性が生じてしまうのです。
私は三人を受け容れることにしました。
漫画の記憶を参考に彼らを慰め、励まし、時には叱咤して三人の警戒を解き、信頼を勝ち得た結果、私達は定期的にお茶会を開いて、私の作ったお菓子をふるまう関係になりました。
(実は前世の私はお菓子作りが大の得意で、その知識を活かして新しいレシピをいくつも考案し、やがて父である公爵の資金と後ろ盾のもと、お菓子の店を開いて繁盛させるきっかけを作ったのですが、ここでは割愛します)。
いずれ裏切る者達とはいえ、この時点では、人より多少優れた才能を見せるだけの、まだ純粋な子供にすぎませんでした。
そして二つ目の問題。
これこそが最大の問題にして謎。
レオポルド王太子殿下がおかしいのです。
いえ、「おかしい」という表現は失礼ですね、言い換えましょう。
私に残る殿下の記憶と違いすぎるのです。
前世の記憶によれば、ノベーラ王太子レオポルドは、容姿こそ端正で凛々しいものの、中身は大変お粗末。それこそ、どこぞの薄汚い破落戸の魂が間違って王子の肉体に入ってしまった、と言われても信じてしまえるほど。
婚約者であるセレスティナが、どうにか彼を立派な王太子にしようと厳しく接しても、彼女のそのような献身はレオポルドに通じず、逆に他の女に逃げるほどです。
けれど私が実際にお会いした殿下は、まるで正反対でした。
幼いながらも気品ある所作。顔を合わせれば礼儀正しくあいさつし、私の好きな花やお菓子を用意させたり、珍しい外国の品を見せてくださったり、一歳年少の私をなにかと気遣ってくださいます。
学業は家庭教師がそろって誉めそやすほど優秀で、乗馬の授業を拝見した時も、背筋をぴんと伸ばして手綱を操る様は、天上の戦士のごとき凛々しさと輝かしさにあふれて、いずれノベーラ中の女がこの方に恋するだろうとすら確信できました。
その美しく気品高い少年が、私には屈託なくほほ笑みかけ、宝物に触れるように優しく接する。少年の手つきは私を大切にしようという愛情で満ちており、私はいつの間にか、彼の宝石のような澄んだ緑の瞳を向けられるたび、どぎまぎするようになっていました。
親が決めた結婚相手。愛情など無かった設定の関係。
けれど彼はたしかに私と向き合い、私を愛そうと努力している。いえ、もう愛しはじめているのかもしれません。
私を捨てる愚か者とわかっていても、実際にこのように優しく近づいてこられれば、拒絶することなどできません。
私は教育ママよろしく、断罪の時までレオポルドの素行を叱っておればいいと考えていました。けれど彼には、説教しなければならないような短所すらありませんでした。
私はけっきょく、この齟齬を受け容れました。
漫画どおりの結末を迎えるため、そのための『美しく気高い悪役令嬢』の評価を維持するため、礼儀正しい完璧な貴族令嬢として殿下に接しつづけたのです。
おかげで私達の関係は常に良好であり、いつの間にか「ティナ」「レオ様」と愛称で呼び合うようになり、周囲も非情に安堵して「将来は、さぞや仲睦まじい夫婦となられるでしょう」と誰もがほほ笑ましく見守っていました。
私は、いずれ捨てられる身であれば今はただ、この美しい少年の無垢な愛情と、純粋な気遣いに浸っておこう。そう決めたのです。
ノベーラの豪華な宮殿で。私の婚約者たる少年はどんな豪華な宝石よりも美しく高貴に、気品を備えて成長し、私は未来の妻として、その変化を余すところなく見届けたのです。
それから七年後。私は十五歳、殿下は十六歳になりました。
この頃には、私達は主に将来の人脈作りと有益な人材の発掘のため、例の三人の子息達と共に王立学園に通っていました。
私はまだ十五歳ながらも早、才色兼備の学園の華として男女の区別なく生徒達の憧れの的となっていましたし、レオポルド殿下も貴公子達の誰より美しく凛々しく成長して、王族にふさわしい威厳と気品を備え、成績も優秀な彼に心奪われる女生徒(中には女教師も!)は後を絶ちませんでしたが、宝石のごとき緑の瞳は相変わらず私だけを見て、ゆらぐことはありません。
それでも私には重大な不安要素がありました。
やがて私達は運命の日を迎えます。
学園の入学式の日。ずらずらと大ホールへ向かう新入生達の中に、奨学生の証である焦げ茶色の制服を着た生徒が一人。
(あの少女だわ)
私は一目で直感しました。
動いている姿を目にしたのはこれがはじめてでしたが、間違いありません。
アリシア・ソル。
この漫画の舞台である乙女ゲームのヒロイン。実際は、この漫画における中盤までの悪役。
殿下を、男達を手練手管で手玉にとって、このノベーラ王国に重大な危機をもたらす偽りの聖女にして傾国の悪女、アリシア・ソルでした。
春風にひるがえる可憐なストロベリーブロンドに、こぼれ落ちそうに大きなミントグリーンの瞳。口角は可愛らしくあがって所作は軽やか、手足は健康美にあふれています。
本当に造作だけなら、たしかに聖女と呼ぶにふさわしい無垢さ、清純さが彼女には備わっていました。
すれ違う男子生徒の中にも、ちらちら彼女を盗み見る者がいます。
私は隣の殿下をそっと見上げました。
殿下が彼女の愛らしさに、虜となってしまうのではないかと不安になったのです。
実は私はこの時、すでに殿下に彼女についての情報をお伝えしていました。
むろん、漫画のことは明かせないので「夢で神のお告げを聞いた」という体で。
「学園に王太子達を篭絡してノベーラを支配しようともくろむ、悪しき女が現れる」と。
殿下は私の視線に気づくと、「大丈夫だ」と励ますようにほほ笑み返してくださいました。
そして問題の少女の前に、行く手をさえぎるように立ちました。
「ティナ、彼女だね?」
「はい、レオ様」
殿下の確認に、私もはっきりうなずきます。
「そうか」と、殿下も事情を知る三人の子息達とうなずき合いました。
そしてアリシア・ソルに宣言しました。
「アリシア・ソル。私が愛しているのは、セレスティナただ一人。このデラクルス公爵令嬢セレスティナ・デラクルスこそが、私の認めた唯一の婚約者であり、正統な次期王太子妃、未来の王妃だ。君がいかなる卑怯な手練手管を用いようと、私の心はけしてゆらがない。今後いっさい、私にもセレスティナにも近づかないでくれ。もし君がわずかでもセレスティナを傷つけたと判明した時は、追放などでは済まない報いをうけさせると宣言しよう」
殿下は一息にそう言ってのけると、私を優しく、そして情熱を込めて抱き寄せました。
「行こう、ティナ。私の心は君のものだ、心配しないで」
「レオ様…………」
私は信じられぬ思いでした。
殿下は彼女に心変わりしてしまうかもしれない、その心配は杞憂だったのです。
「嬉しいです…………嬉しいです、レオ様…………」
本心でした。私の胸は熱いものでいっぱいになり、声がふるえて今にも涙があふれそうで、それだけ口にするのがやっとでした。
殿下の美しい緑の瞳は相変わらず私だけを見つめて、私だけを想っている。
他の女が入り込む余地など、どこにもないのです。
それを心から実感し、私は蕩けそうに甘い歓喜の嵐で全身が満たされました。
私は、私を抱き寄せた殿下の腕に自分を預けます。もはやアリシア・ソルに用はありません。
三人の子息達が、なにやら口汚くアリシア・ソルを罵っているのが聞こえましたが、どうでもよいことでした。殿下同様、彼らの私への心も変わらなかった、それだけのことです。
筋金入りの『ヒドイン』であるアリシア・ソルにしても、この程度の罵倒で傷ついたりはしないでしょう。
私は、殿下から注がれる愛と幸せに浸りながら、二人でその場を離れました。