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忘れられた自分がいること、社会性を手に入れること

作者: 緒方

「しょうちゃん、しょうちゃん」


 耳元で、清美の声が聞こえた。僕は目を閉じたまま、その声に、ん、と答える。


「しょうちゃん、起きて」


 聞きなれた声はさらに近くに寄ってきて、僕の肩をばんばん叩いてくる。全く起きる気配のないことを察したのか、加減がない。鬱陶しくて、わかった、とぼやきながら力の入らない手の甲で押しのけると、妹はその手をさらに鬱陶しそうにはたいた。


「ねえ、しょうちゃんってば」


 体を左右に揺すられて、僕は、うう、とうなる。


「えいこちゃんが帰ってくるって」


 そうか、とまたもぼやきながら寝返りを打つ。もう、仕方ないな、と困った清美の声が遠くに聞こえた。



──えいこちゃんが帰ってくるって。



 えいちゃん。僕と清美のお姉ちゃん。顔はそっくりなのに、僕たちとは性格が真逆のえいちゃん。



──えいこちゃんが帰ってくるって。



 清美の言葉が耳にこだました。僕の脳裏に、憎たらしいえいちゃんの笑顔が浮かび上がってくる。

同時に、去年ドライブに行ったときの記憶が夢となって思い出された。



 場所は箱根の山だった。

 ドライブしようと言い出したのはもちろんえいちゃん。免許をとりたてだった僕に、あろうことか山登りを強要してきたのだ。


 僕は本当に気が気でなくって、カーブのたびに死ぬ思いだった。いつ事故るやもしれないと、慎重に、緊張感をもって、勢いよく、ハンドルを回す。

 それなのにえいちゃんときたら、まるで僕をいたわる様子もなく、助手席にふんぞり返っていた。真っ黒な長い髪を後ろで高く結って、座席の後ろに流しながら。さらには、隣でやいのやいのとからかって、僕の運転じゃ不安だと喚くのだ。そもそも僕はまだ山登りなんてしたくないって言ったじゃないか。


 やっとの思いで山頂近くに到着して、ひとまず乗り切ったと安堵した矢先、えいちゃんはまたしても僕を罵倒した。


「ちょっとこれ見て。あんたの運転が荒いせいで髪の毛崩れたじゃない。ちゃんと指示してあげたのに、もっと優しく運転できなかったわけ?」


 さすがにむっとした。髪の毛が崩れたのは僕をからかうためにあっち向いたりこっち向いたりしたせいだろう?ずっとからかってただけのくせに、いつアドバイスをくれたっていうんだ?

 「それなら代わってよ」と強く言ったら、あからさまに不快な顔をして僕の倍の声量で「今日はそういう気分じゃない」と逆ギレしてきた。


 そのあとはずっと黙りこくってしまい、せっかく快晴でたどり着いた山頂の景色も台無しだった。


 ちょっと降りたところに甘味処があったのでソフトクリームを買ってあげたりもしたけれど、結局機嫌が直ることはなく、ひとりロープウェイで降りて先に帰ってしまった。

 麓まで降りたって駅までの道のりも長いのに、どうやって帰るつもりだ、と思いながら、僕は車で山を下る。隣からの野次がないというだけでずいぶん楽に運転できた。が、気疲れした僕は早く家に帰って休もうと、駅前の観光もすることなくさっさと帰宅した。

 案の定、僕が到着した時にはえいちゃんは帰っておらず、夜ごはんも食べ終わったころにやっと「ただいま」の声が聞こえた。


 「おかえり」と声をかけるとどうやら機嫌はすっかり直ったようで、帰って来て早々、「コンビニでおにぎり買ってきて」と、まるで何事もなかったかのように命令された。人への思いやりというものが一切ない。

 自分がドライブに誘ってきたくせに、しかも勝手に先に帰ったくせに、と思いながら僕は逆らうこともできず、おにぎりと、ついでに肉まんを買ってあげたのだった。


 家でぬくぬくとおにぎりを待っていたえいちゃんは、予想通り、「いい子だ」といって僕の頭を撫でてくれた。えいちゃんは僕をパシリのように使うけど、とにかく僕を甘やかしてくれる。憎たらしいこの笑顔が、なんだかんだ僕も好きなのだ。


 それから数日したころ、えいちゃんは家を出て行った。

 理由は、知らない。それからもう一年以上、顔を見ていなかった。


 えいちゃん、いまどうしてるんだろう。



──えいこちゃんが帰ってくるって。



 清美の言葉が頭の中に響き渡る。玄関のチャイムのなる音がした。


「あ、帰ってきちゃった」


 清美は僕を起こすのを諦めて玄関のほうに走った。どうやら、さっきの言葉は夢じゃないらしい。起きなければ、とうっすら目を開けた先に、畳が映る。

 おかえり、と清美の声が聞こえた。僕はゆっくり体を起こして、無意識に机の上のお茶へ手を伸ばす。と、それをはばかるような大きな声が家中に響き渡る。


「彰司!ただいま!」


 どん、どん、どん、という音とともに、えいちゃんが居間に入ってきた。おかえり、の声を遮り、思いっきり僕にのしかかる。重い。思わず、ぐっ、と声が漏れた。


「おかえり」

「久しぶりね。元気だった?大学ちゃんと行ってる?」


 いきなり抱き着いてきたかと思えば、ぱっと離れて、たて続けに聞いてきた。なんだか上機嫌だ。僕のほっぺをつねったり伸ばしたりして、僕の話を聞きたいんだか聞きたくないんだか。


「ひさしぶり。まあ元気にしてるよ」


 笑顔のえいちゃんに適当に答えていると、居間の入り口で所在なさそうにしている清美が目に映った。ふすまに手をかけて、見つめるでもなく、えいちゃんの真っ黒い後頭部にただ視線を落としている。


「清美、えいちゃんにお茶持ってきてあげて」


 そう声をかけるとふっといつもの笑顔に戻って、はーい、と冷蔵庫に向かっていった。


「急にどうしたの?」

「特にどうってことはないけどね、そろそろ彰司が冬休みかと思って」


 そういいながら今度は僕の髪の毛をわしゃわしゃと撫でまわした。いちいち人をこねくり回すのはやめてほしいが、帰ってきてよかった、とにこにこしながら言われるとまんざらでもない。


「はい、お茶。えいこちゃん、おかえり」


 清美が温かいほうじ茶を湯呑に入れて運んできて、えいちゃんの前にそっと置いた。でも、えいちゃんが返事をすることはない。それどころか、冷めていた僕のお茶の方を勝手にとって飲んでしまった。

 「あっ」と思わず声が漏れる。僕のお茶だったのに。ちょっと文句を言ってやろうかと思ったけど、清美を横目で見ると相変わらずいつもの笑顔だった。なんだか僕の出る幕ではない気がして、そのまま口をつぐむ。


「父さんと母さんには?連絡したの?」


 僕は清美の持ってきてくれたほうじ茶を冷ましながら尋ねる。まだ、と答えると、えいちゃんはかごに入っていたみかんに手を伸ばした。すると、玄関がガチャっと開いて、ビニール袋のすれる音がした。

 母親が買い物から帰ってきたようだった。清美がおかえり、と言いながら玄関に向かっていく。荷物を清美に任せて居間に入ってきた母さんは、久しぶりに見た長女の顔に驚いて少し声が大きくなった。


「あら、帰ってきてたの」

「うん、ただいま」


 ため息をつきながらも安堵した様子で、帰ってくるなら言いなさいよ、とえいちゃんに小言を言った。いままで気にしていなかったけど、母さんのこの様子だと逐一連絡は取っていたのだろう。急に思い立ってさ、とえいちゃんはへらへら返す。


 その日の夕飯は、えいちゃんの好きなごぼう炒めだった。久しぶりに帰ってきた長女の近況報告に、家族の会話が弾む。後先考えないえいちゃんの生活に母さんは文句をいい、僕は適当に相槌を打った。えいちゃんは僕の近況にも興味津々で、ことあるごとに大学生活の話を引っ張り出された。

 食卓に座った清美は、えいちゃんと母さんと、ときどき僕の混ざる会話に口を挟まないように、ずっと笑顔のままだった。




 翌朝、えいちゃんが僕の部屋に押しかけて起こしてきた。ノックもせずに扉を開けたかと思うと「ドライブに行こう」と無理やり僕を引っ張る。


「しばらく運転してないよ」

「ゆっくりここら辺まわればいいじゃない」


 絶対えいちゃんが地元散策だけで満足するとは思えなかったけど、断り切れない僕はしかたなく運転席に座った。最大8人乗りのファミリーカーに、僕とえいちゃんの二人だけ。えいちゃんと乗るときといえばいつも家族5人全員だったから、一人で乗るときよりも二人で乗るほうがなんだか寂しさが増す気がした。そういえば、箱根に行ったときは軽自動車を借りていったのだった。


 とりあえず大通りまで、と思い車を走らす。発進と同時にえいちゃんが口を開いた。


「昨日なんで寝てたの。電話したのに」

「昼寝以外にすることがないんだよ」

「そのせいであいつが出ちゃったじゃない。あいつもなんでうちにいたのよ」

「清美も冬休みだよ」

「ねえ、私が帰ったら、あいつなんて言ったと思う?」


 さっそく帰りたくなった。えいちゃんがイライラしている。


 ミラー越しに顔を覗いてみようかと一瞥したが、走ってきた道が見えるだけだった。


「おかえり、だってさ。あんたのうちじゃないくせに」

「清美の家だよ」

「あいつの家じゃない。あいつは家族じゃないんだから」


 えいちゃんが、家を出るちょっと前から使い始めた台詞だった。血のつながりのある、正真正銘の家族なのに、えいちゃんは何故だか清美を否定するのだった。


「家族だよ。何がそんなに気に入らないの?」


 僕はこれ以上えいちゃんの機嫌を損ねないように、諭すような気持ちで聞いた。


「あいつが我がもの顔であそこに居座ってることよ。」


 えいちゃんの言葉には迷いがなかった。僕は拭いきれないもやもやを抱えながら、慎重に、言葉を選ぶ。


「清美は、妹でしょ?えいちゃんと僕の、妹でしょ?」

「あいつのことを妹だと思ったことなんて、一度もない。」


 僕は隣に座っているえいちゃんの顔を想像した。窓に身を預けているだろうか。紡ぎ出される声は、びっくりするくらい抑揚がなくて、言葉のきつさでしか、彼女の怒りを察することができなかった。


「…なんで?」


 この問答に意味はあるんだろうか。えいちゃんはただ機嫌が悪いんだろうか。


「ねえ、あの子が生まれたとき、わたし、かわいいと思ったの。すごくすごく、可愛かった。純粋で、優しさも汚さも知らなくて、大事に、大事にしようって思った。でもね、思いすぎたのよ。そこで、終わっちゃった。わたしの清美に対する気持ち、あの子が生まれた瞬間に全部持っていかれちゃったの。」


 えいちゃんの一言一言を聞き漏らすまいとしたけれど、言わんとすることは全く分からなかった。


「僕は?」


 恐る恐る聞いたつもりだったが、案外、普通の声が出た。信号が赤になる。

 小学生と幼稚園生だろうか、手をつないだ兄弟が横断歩道を駆ける。空いた手は、きちんと空に掲げられていた。


「清美っていい子でしょ」


 えいちゃんは目の前の兄弟を見ていただろうか。僕の質問には答えてくれなかった。


「ずっといい子。あの子、悪いことなんて何も知らないのよ。見て見ぬふりをしてるの。ね、クラスでいじめられてる子がいたとして、あの子は手を差し伸べると思う?」


 そう言われて、学校にいる清美というものをあまり想像できなかった。と、いうのは、薄情な兄だろうか。友達の話はよく聞く。別にいじめられてもないだろう。でも、外で過ごす清美を想像したことがなかった。


「無視はしないんじゃない?」


 信号が青に変わった。いやに短い。目的地も何も決められなくて、ただまっすぐ進む。


「だろうね。でもいじめを止めはしないでしょ?友達が悪口言ってたら、聞き流すんじゃない?誰も見てないとこで“大丈夫?”って声をかけるのよ、きっと。」

「それの何が悪いの」

「別に。ねえ、でも清美っていい子でしょ?そう思わない?」

「そう思うよ。清美はいい子だよ」


 えいちゃんなんかより、はるかに。他人に迷惑をかけるわがままは言わないし、人のことをパシリにしないし、相手の気持ちをおもんばかることを忘れない。


「周りがいい子って必ず言うよね。でもそれだけ。きれいなことしか知らないからきれいなことしかできないの」


 抑揚のない声で、でも軽蔑の混じった声で、えいちゃんは続ける。


 ……だからなんだというんだ?


 無性に、腹が立ってきた。えいちゃんだって、同じじゃないか。人の気持ちを考えないのも、わがままを貫き通すのも、それが許される環境で生きてきたからだ。わがままでいることを許されたから、わがままなまま生きてきた。いい子でいることを許された清美と、何が違う?


「あんたもよ」


 唐突だと思った。

 思わずえいちゃんを見てしまったけど、彼女はただまっすぐに進行方向を見つめていた。


「あんたも私の弟じゃない。」

「…どうしてそんなこというの?」


 今度は、本当に、恐る恐る聞いた。


「あんた私が出て行ったあと、どうしたのよ」

「どうしたって…」


 どうもしなかった。だって、えいちゃんはすぐ帰ってくると思ったし、それに、


「いてもいなくても変わりなかったでしょ?」


 もう次の信号が来ていたことに気づかず、慌ててブレーキをかける。ひやりとした。


「探しに来ないどころか、連絡一つよこさなかったわよね」


 えいちゃんが怒っているのか、悲しんでいるのか、想像がつかなかった。事実を述べる声はただ淡々としていた。


「あんたのこともすごくかわいかったわ。今も可愛い。でも、一番大事にしたいもの、それは私自身なのよ」


 やっぱり、えいちゃんの言わんとすることが、全くわからなかった。僕が連絡ひとつよこさなかったからなんなのか。そりゃ少しは薄情かなとも思うけど、そんなことで寂しがる人じゃないだろう。えいちゃんこそ、僕がいてもいなくても変わりなかったんじゃないか?


「せいせいしたでしょ?いなくなって」


 むかむかする。なぜ僕が責められなきゃならないんだ?


 えいちゃんには、こういうところがある。自分のふるまいそっちのけで、人を追い詰めて、自らを正論にしてしまう。清美のことだってそうだ。あんな扱いを受けるいわれはないのに、気づいたらみんな、えいちゃんの前では清美の存在をなるべく薄くしていた。僕だって、そうしてた。


「せいせいしたね」


 なんだか、きっとあとになってこの会話を文字に起こしたら、僕はびっくりするんじゃないだろうか。えいちゃんに反論めいた発言をしたのは、初めてだった。


「家族じゃないって、納得できなかったけど、わかったよ。えいちゃんが、でしょ?家族じゃないのはえいちゃんだよね。そりゃ、そうだよね、居心地悪くもなるよね」


 何を言いたいのか、自分でもむちゃくちゃだった。とっくに信号は青になっていたけど、とにかくこいつを傷付けてやりたいという衝動で、いっぱいだった。


「僕らにいらないのはお前だよ。さんざん、好き勝手振る舞いやがって。」


 そうだ。ずっと好き勝手されてきたじゃないか。


「清美の家じゃない?そんなわけあるか。えいちゃんの家じゃないんだよ。自分のテリトリーじゃないからむかつくんだろ?ほかの誰かを排除して自分の家にしようとしてるんだろ?」


 うしろから、クラクションの音が、派手に聞こえた。どうしようもないむかむかのまま、車を発進させる。遠くの景色を見つめると、少しだけ冷静になって、自分の吐いた言葉を反芻できた。

 ひどい、ひどい言葉を言ってしまった、と思う。でもだめだ。むかむかする。多少冷静になっても衝動が収まらない。

 ふとコンビニが目に入ったので、そこに駐車した。サイドブレーキをかけて、えいちゃんの方を向く。


 瞬間、言葉に詰まった。本当は、むかむかがおさまらなくて、もう一度ひどい言葉を言ってやろうと思ったけど、できなかった。えいちゃんは、もう前を見ていなかった。ドア窓におでこをくっつけて、決して顔が見えないようにしていた。黒い髪が、きれいな光沢を放っている。


 えいちゃんの、ポニーテールが好きだった。まっすぐで、つやのある黒い束が、人を惑わすように揺れているのが好きだった。それを知っているかのように、えいちゃんはくるくると顔の角度を変えて、みんなを魅了していた。


 今日のえいちゃんは、髪を結くことなく、ただただ、下に流していた。それでも、真黒なその光沢は、僕をとらえて離さなかった。このきれいな髪の内側で、えいちゃんはいったいどんな顔をしているんだろう。きっと、泣いているんだなあ、と思った。声は全く聞こえなかったけど、そう思った。思えば、えいちゃんの泣いてるところなんて、見たことない。いつもでっかく僕の名前を呼んで、馬鹿笑いして、わがままを言って、いい子だね、と甘やかしてくれた。

 そう、甘やかしてくれた。僕は、えいちゃんに、甘えていたんだ。おそらく、清美も。えいちゃんがいることで、いい子を保っていたのだ。


 もう、いやになってしまったのかな。そんな風に、弟妹といることが、いやになってしまったのかな。ひどく、むかむかする。さっきとは違ういらだちが、僕の中に生まれてきた。傷つけたくない、と思うのに、傷つけて、すっきりしたくて、どうしようもない。


「泣くなよ。被害者ぶるな」


 被害者ぶっているのは、どっちだ?えいちゃんを悪者にして、被害者ぶっているのは僕じゃないか?


「でていけ。僕らの家から出ていけ」


 めちゃくちゃ言っているとわかっていても、止められなかった。自分を正当化したくて、しょうがなかった。どうしよう。わかってる。だってえいちゃんを嫌いじゃないんだから、わざわざ傷つけなくてもいいじゃないか。謝って、許すふりをして、僕自身を許せばいいじゃないか。


 でも、ダメなんだ。嫌いじゃないことが、問題なんだ。えいちゃんなんていなくても、僕は生きていける。僕は間違ってない。


「でていけ」


 えいちゃんは、なにも言わなかった。こちらを一切、振り向かなかった。押し黙ったまま、ドアを開ける。出て行って、どうするんだ?あてもなくここまで来てしまったのに、どこに向かって帰るんだ?本当に、二度と帰ってこないのか?


 バタン、と大きく扉が閉まった。すべてを拒絶し、終わらせる音だった。えいちゃんは、二度と帰ってこないのだとわかった。えいちゃんの後ろ姿は、堂々としていた。まだ、泣いているんだろうか。本当に、泣いていたんだろうか?

 えいちゃんは、止まることなく歩いていく。後ろ姿はどんどん小さくなって、瞬きをしている間に、見失ってしまった。



 いつだったか、えいちゃんが、空の写真を撮るのにはまっていたことがある。僕らは離れていても同じ空の下、とかなんとか言った歌詞の曲が流行っていた時期だった。

 同じ空の下?ばかばかしい。果たして、えいちゃんと僕が見ていた空は同じだったのだろうか?僕らは同じ家に生まれて、同じ時を生きて、同じ感覚で笑いあってきた。でもいつのまにか、別れてしまった。僕は最後までえいちゃんに寄り添ってあげられなかった。僕は、僕を大切にすることにまだ必死なんだ。


 えいちゃんは、まだ写真を撮っていたころを覚えているだろうか。僕が忘れてしまった無邪気な時間を、覚えているだろうか。

 空を見上げる気にはなれなかったけど、きっと今は、日差しと雲の入り混じった、冬の寒々しい空が広がっているんだろう。きっと。




 家に帰ると、清美が出迎えてくれた。


「しょうちゃん、おかえり」


 笑顔の清美をみて、いつか、清美と離れる時も来るのだろうか、とそんなことを考えた。僕が僕を大事にする限り、それは避けられないのかもしれない。

 えいちゃんのことは、なにも聞かれなかったし、なにも言わなかった。けれど、清美はぽつりと、寂しくなるね、とつぶやいた。

 うん、どうかな、と僕は答えた。えいちゃんがいなくたって、生きてはいける。寂しくなるかな、どうかな。

 清美はそれには答えず、そのまま自分の部屋に戻っていった。僕も手を洗って、うがいをして、僕の部屋に続く階段をのぼる。




 さようなら、えいちゃん。僕は今日のこの日を、後悔する日が来るだろうか。

 その気持ちが既に後悔だと知りながら、僕はもう、えいちゃんを取り戻すすべを知らない。



 さようなら。


 永遠に、さようなら。











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