3-1
目が覚めると辺りはまだ薄暗かった。時間を確認するためケイトは手探りで電話を探し出す。明るい画面に目がやられたが、5時半だということは分かった。
今日は火曜日、と考えたところで自分がどこにいるのか思い出して飛び起きた。ブラウン牧場。馬を診に来てここに泊ったのだ。
確か朝食は6時だったはず。まだ時間はあるがケイトはベッドから起きて着替えた。髪の毛をひとつに纏めて腕時計を着ける。
夜中にヒルデからお呼びがかからなかったということは、何も起きなかったということだ。
部屋を出て階段を降りる。1階には誰もいなかったのでケイトは玄関から外へ出た。太陽は出てきているがまだ少し寒い。身を縮めて厩舎に向かうと、どちらの厩舎も扉が開けられていた。
アンドロメダのいる新しい厩舎からヒルデが出てくる。餌やりを終えたところなのか空のリヤカーを引いていた。
「おはよう」ケイトは声をかけた。
ヒルデは昨日と同じ型の灰色のつなぎ、黒のダウンベストとブーツ。頬と耳が少し赤くなっていた。
「アンドロメダの様子はどう?」
「落ち着いてるよ」早朝のせいかヒルデの少年のような声は一段と低くなっていた。
「よかったわ」
「健診はあたしがいるときにやって。トニーみたいに蹴っ飛ばされないように」
「トニー?」
「もう1人いた従業員。むかし馬に頭を蹴られたことがあるんだって。頭蓋骨にヒビで済んだけど。知らない人を馬房に入れるときは気を付けろってうるさく言ってたから」
「へぇ。そのトニーとは仲が良かったのね」ケイトは彼女とトニーが深い仲だったのだろうと予想した。
「まぁね。人間の朝食の時間だから戻ろう」ヒルデはリヤカーを倉庫に戻しに行った。
2人で家に入り、キッチンに立つ。
「あなたがこの家の家事もやってるの?」ケイトは言った。
「そう」ヒルデは朝食を用意する。
「大変ね。サムは本当に何もしないのね」ケイトは非難した。
「馬の餌と人間の食べ物は買ってくるよ。あと馬を貸し出すときはサムが話をつける」
「それだけ?」
「あぁ。貸し出しもサムのやつが値上げしやがったから、最近のあいつの仕事はますます減ってる」
「そうなの」
「だからトニーが休日に乗馬体験できるようにしたんだ」ヒルデはケイトを見た。「ちょっとそこの扉開けてくれない?」とリビングにある扉を指す。
ケイトがその扉を開けるとチョコレートが飛び出してきた。ビスケットも続けて出てくる。扉の向こうはウォークインクローゼットのような小さな部屋になっていて、犬用のクッションやペットシートが床に置いてある。寝るときは犬をここに入れているようだ。
「この犬たちって定期健診とかワクチンとか受けてる?」ケイトはキッチンに戻った。
「ワクチンって何度も打たなきゃいけないの?健診はしてない」
「毎年打つものがあるわ。あとは犬によって異なったりするけど、長いこと打ってないなら必要ね」
「いつ打ったかなんて知らない。子犬のときから飼ってるわけじゃないから」
「サムの元カノの犬って言ってたわよね?どういう経緯?」
「あたしがここで働き始めて3,4か月くらい経ったとき、サムがその女と付き合い始めた。その女は既にあの2匹を飼っていて、犬たちと一緒にここに転がり込んできたんだよ。でも結局サムとは半年もしないうちに別れて出て行ったけど」
「その女の人はどうして犬たちを置いていったの?もとから飼ってたのに」
「さぁ?たぶん、ビスケットはもう年だからじゃない?その女はチョコレートだけを一緒に連れて出て行ったけど、もどってきた。」ヒルデはコーヒーを淹れ始めた。
「え?わざわざここに戻しに来たってこと?」ケイトは驚いた。
「そう。出て行ってから10日くらいあとかな?なんか犬の鳴き声がすんなと思って見てみたら、チョコレートが倉庫の前にある馬場の中を走り回ってた」
「どうして?」
「知らない。その女はいなかったから。どうせ新しい家で飼えなかったからこっそりうちに戻したんだろ。ガサツな女だった。あたしとサムがデキてるってキレてたし」
マグカップにコーヒーを注ぎながら、ヒルデは舌を出してウェっとした。その女の人とはウマが合わなかったようだ。
コーヒーの香りがキッチン全体に広がると、階上で扉の開く音がした。
「サムのやつ、元カノの話をするとキレるから秘密な」ヒルデは小声でケイトに教えるとウィンクした。
ケイトは少女のような可愛らしさをヒルデに見た。
だらしない格好のサムが降りてくる。欠伸をしてダイニングテーブルに着いた。
「どうして馬の世話をしないの?」ケイトは腹が立って口が出た。こういうことは我慢ならないのでちゃんと注意する性格だった。
仕事上、こうしたずさんな飼い主をケイトは何度も見てきている。
病気になったから。年を取ったから。面倒になったから。可愛くなくなったから。大きくなり過ぎたから。言うことを聞いてくれないから、等々。
飼い主の身勝手な理由で簡単に命を捨てていく。自分が同じ理由で捨てられると想像してみろ、とケイトはいつも思っていた。
もちろん飼いたくても飼えない事情がある人もいる。飼い主が高齢になった。病気になった。金銭面で困難になった。などなど。
だからと言ってポイ捨てしていいわけじゃない。最期まで見届けることが理想だが、もし飼えなくなってしまったのなら責任を持って幸せにしてくれる人を探すべきだ。
どんな子を家族にするか。どんな生活をペットと過ごすか。明るい未来を想像するのは良いが、万が一飼えなくなった場合のことも飼う前に考える必要がある。
サムはそれを考えたことがあるのだろうか。
「なんだと?おいガキ、この女に余計なこと言ってんじゃねぇぞ」サムはヒルデを睨みつけた。
「彼女は完璧に仕事をこなしているわ。あなたに問題があるのよ」ケイトはサムを指した。
「ふざけんなよ」サムは立ち上がった。
ケイトはその威圧に怯む。
「やめろよ」ヒルデが間に入った。
「いいか。お嬢さん」サムはケイトに言った。「ここは俺の牧場だ。俺がここのボスなんだよ。ここでは俺のルールに従ってもらう。あんたは獣医の仕事だけしてればいいんだよ」脅しをきかせた声で言うと、彼は大きな足音を立てて家の外へ出て行った。
「なによ」ケイトは内心震えながらも眉根を寄せて強がった。
「ほっとけよ」ヒルデはコーヒーの入ったマグをテーブルに置いた。
「腹立たないの?」
「あんなの日常茶飯事だよ」彼女はなんでもないように言ってキッチンに戻ると、焼きたてのトーストを皿に乗せた。
「不当だわ」
「はいはい」皿もテーブルに置く。冷蔵庫からバターを出してそれもテーブルに置くと席に着いた。
「今すぐここを辞めるべきよ」ケイトはヒルデの隣に座った。
「それは昨日も言っただろ。無理だって」ヒルデはコーヒーを飲んだ。
「どうしてよ」
「色々あんの」と呆れる。
「またそれ」
「いいから早く食べてくんない?」彼女はトーストに噛みついた。
ケイトは納得しないまま朝食を食べた。