2-5
テーブルに1人取り残されたケイトは不安になった。見知らぬ場所、見知らぬ家で1人になるのは落ち着かないが、もしあのサムが降りてきたら身の危険さえも感じる。初めは不躾だと思ったヒルデが今では救いに感じた。
ケイトは料理を口に詰め込むと、ヒルデと同じように皿を流しに置いた。すると足元でキャンキャン吠える声が聞こえたので見降ろすと、チョコレートがケイトの足に纏わりついて、遊ぼうと誘っていた。
「なによ、おチビちゃん。遊びたいの?」しゃがんでチョコレートを撫でる。「君は若いけど、ちょっと太り気味ね。歯の状態もいいとは言えないわよ」職業病でつい診察してしまう。
ゴールデンレトリーバーのビスケットも、あなたはどちら様ですか?とケイトの元へやってきた。
「君はお婆さんかな?」毛並みや皮膚の状態などを診ながらケイトは撫でた。「でも悪いところはなさそうね」
ついでにスシという猫も診ておこうとケイトは立ち上がってリビングに移った。チョコレートだけがついてくる。
ちょうどヒルデが置いた皿のところに三毛猫がいた。餌を食べて満足したのか毛づくろいをしている。
「君は独り立ちしたばかりみたいね」撫でながらスシの状態を診た。大人の猫と比べると少し体が小さいのでまだ1歳にはなっていない。親猫から離れ、この家に辿り着いたのだろう。病気は持っていなさそうだ。怪我もない。
チョコレートが近づくとスシは小さな牙を見せて威嚇した。低く唸ってこっちに来るなと牽制する。チョコレートは後ずさりした。
「仲は良くないのね」
正直に言うと、ここまで動物たちの状態がいいとは思っていなかった。サムとヒルデのことだから劣悪な環境で餌もろくに与えず手入れもせず、ケガや病気だらけなのかと予測したのだが、どの子も大きな問題はない。唯一気になるのはチョコレートの歯だ。軽度の歯周病に見える。
歯をもう少し詳しく診ようとスシに怒られて凹んでいるチョコレートを抱っこすると、ヒルデが2階から降りて来た。ジャージに着替えて肩にタオルをかけている。短い髪は湿っていた。
「この子ちょっと太り気味よ」ケイトは抱いている犬を指した。「歯磨きはしてる?」
「ビスケットの残したご飯を食べるんだ」ヒルデは欠伸しながらキッチンに立った。「スシのご飯も狙ってるけど、いつも怒られてる。歯磨きはたまにしてるよ。骨ガムとかもあげてる」皿洗いを始めた。
「軽い歯周病みたい。これ以上酷くなる前に治療した方がいいわ」
「そんな暇ないよ。今で手一杯なのに」眠そうな顔でヒルデは皿を洗う。
「病院で治療して薬をあげるだけよ。難しくないわ」
「はいはい。わかったから。それよりバスルーム使うなら早く使った方がいいよ。10時以降はサムが使うから」
「あ」ケイトは腕時計を見た。8時50分だ。
あとで治療のことを話しましょうと言ってケイトはチョコレートを降ろすと2階の部屋へ行き、洗面用具を持ってバスルームに入った。
バスルームには洗面台とトイレ、シャワーブース、洗濯乾燥機があった。とても綺麗なバスルームとは言えないが汚れているわけでもない。ヒルデが入ったあとなので少し暖かくなっていた。
ケイトはシャワーを使わず洗面台を借りた。顔を洗って歯を磨く。髪を梳かしてトイレも済ませ、部屋に戻って服を着替えた。脱いだ服を畳んで鞄に仕舞う。本当はシャワーを浴びたいが、なんとなくここのを借りるのは躊躇われた。
ケイトは再びキッチンに降りる。
ヒルデがいるかと思ったがもう皿洗いを終えていなくなっていた。猫も犬たちもいない。部屋に戻ったのかと思い、2階へ上がった。ヒルデの部屋は屋根裏。廊下の奥に階段があると言っていた。
サムの部屋がある右側の廊下の奥は行き止まりだったので、ケイトの部屋がある左側の廊下の奥へ行ってみた。見た限り2階には他にもいくつか部屋があるのにヒルデはなぜ屋根裏にいるのだろう?
暗いが廊下の突き当りに木の階段があった。手すりは無く、角度も急だ。
軋む階段をのぼると押し上げて開けるタイプの扉がケイトの頭上に現れた。その扉には南京錠がかけられており、中に入ることは出来ない。つまりヒルデは中にいないということだ。
どこへ行ったのだろう?他の部屋?
ケイトはまた1階に降りた。リビングにもキッチンにもヒルデはいない。だが裏口の扉が少し開いているのに気付いた。夕方、ヒルデが乱暴に閉めた扉だ。
外に行ったのだろうかと思ったケイトは上着を取ってきて羽織り、裏口から外へ出た。
上着の前をしっかり閉め、ポケットに手を入れて歩く。今夜は空気が冷たく肌寒い。しかしのどかで静かだった。星もよく見える。
新しい厩舎の裏についた。扉は閉められているが中から小さな明かりが漏れている。ケイトは扉を数cm開けて中を覗いた。すぐ右にアンドロメダの馬房がある。その向かいの馬房の前にヒルデはいた。
「なにしてるの?」ケイトは尋ねた。
「見てわかるだろ。寒いから閉めてくんない?」ヒルデは毛布にくるまって、背を馬房の扉に預けて座っていた。どうやら寝ていたようだ。
ケイトは中に入って扉を閉めた。風が当たらない分、寒さが少し緩む。
「ここで寝るつもり?」
「そうだよ。見守ってんの」ヒルデはアンドロメダを指さした。「付いてないと不安」もぞもぞと毛布の中に手を仕舞う。
ケイトはアンドロメダを見た。馬着を着せられている。「落ち着いてるから今夜は生まれそうにないわよ。あなたが風邪ひくわ」
「いいんだよ。なにが起るか分からないだろ?あたしにできることなんて少ないけどさ…。それにもう何日もこうしてるから平気」
「せめてストーブとかないの?」
「ない」ヒルデは目を閉じた。「ちょっと寝るからあんたは部屋に戻りな。医者が風邪ひくとかありえないから」
ケイトはため息をついた。馬の世話を1人でこなし、寝床を移して見守るなんて。ヒルデの動物に対する献身さには感嘆するが、同時にサムのずさんさが目立った。若い女の子がたった1人でここまで頑張っているのに責任者が何もしないなんて。
放ってはおけなかったのでケイトは一度厩舎を出て自分の部屋に戻った。バンの鍵を手にして外に出る。家の前に停めてあるバンの後ろを開けて収納の中から寝袋を取り出す。出張用バンならではの装備。それを持ってヒルデのところへ行った。
「これ使って」ケイトは寝袋を渡す。
ヒルデは眠い目を開けて見た。「なに?」
「寝袋。無いよりマシでしょ」と寝袋を押し付ける。
ケイトがこれを使って一緒にここで寝てもいいのだが、ヒルデの言う通り風邪を引くわけにはいかない。今夜は冷える。だが彼女にも風邪を引かれたくなかった。
「なにかあったら呼んで」ケイトはそう言うと厩舎を出た。
家に戻って階段を上がるとバスルームから物音が聞こえた。腕時計を見るとちょうど10時。サムが使っているのだ。
ケイトはバスルームの扉に向かって舌を突き出したあと部屋に入ってあたたかいベッドに潜った。