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ケイトが付いて行くと、ヒルデは玄関から家に入った。入ってすぐに広いリビングがあり、その奥にダイニングとキッチンが見える。キッチンの横には2階へ続く階段と裏口があった。
2人はその階段をのぼった。階段を上がりきると左右に廊下が伸びている。
「このすぐ右がサムの部屋」ヒルデは右を指した。「この正面の扉はバスルーム。こっちがあんたの部屋」階段の左隣にある扉を開ける。
「私の?」ケイトは中を見た。白い壁に木の床。机と椅子。ベッドが置いてある。窓からは馬場が見えた。
「ここは客用の部屋だから好きに使って。朝食は6時。昼は1時。夜は8時だけど、土曜と日曜は6時になるから。2階のバスルームは夜の10時以降は入らないで」ヒルデは淡々と説明した。
「え?」ケイトはヒルデを見た。彼女は階段を降りていく。
「それがこの家のルール。トイレは1階にもあるから」
「あなたはここに住んでるの?」ケイトも階段を降りる。
「そう。住み込み」ヒルデはキッチンに立つと食器棚から中身の詰まった大きな袋を取り出した。袋の側面には犬の画像とドッグフードという文字が印刷されている。
「どの部屋を使ってるの?」
「屋根裏」別の棚から犬用の皿を2枚取り出し、大きな袋を開けてドッグフードを両方の皿に入れた。
「屋根裏?」
「2階の廊下の奥に階段があるから、そこを上がったところ」ドッグフードの入った皿を床に置く。同じように水も用意して床に置いた。「チョコレート!ビスケット!ごはん!」と叫ぶ。
するとどこからか2匹の犬が現れた。1匹は先ほど見た黒い小型犬。もう1匹はゴールデンレトリーバーだった。黒い犬は餌にがっつき、ゴールデンはゆっくり食べ始める。
ヒルデは餌の袋を片付けると、別の袋と皿を用意した。袋に入っているフードを皿に入れて何かを探し始める。「スシ!ごはんだよー」と皿を振って音を出した。
「なにを探してるの?」ケイトは尋ねた。
「猫」ヒルデは机の下や家具の裏を探したが見つからず、諦めて皿をリビングの床に置いた。「置いとけば勝手に食べるだろ」
「チョコレートにビスケットにスシ?」全部たべもの。
「うん。そのチビで黒いのがチョコレート。ゴールデンがビスケット」
「可愛い名前ね」ケイトは微笑んだ。馬のゼットやビーストと比べるとずいぶん愛らしい名前だ。
「言っとくけど、犬はあたしやサムが名付けたんじゃないから。サムの元カノが飼ってたんだよ。でもここに置いていった」
「元カノ?置いていったですって?」ケイトは一変して険しい顔になる。
「スシは野良猫。あたしが適当に名付けた。最近この辺りに住みつき始めたんだよね」
「野良猫なの?飼ってないってことよね?」
「あたしは食事を作るから」ヒルデは壁にかかっている時計を見た。7時半を過ぎている。「あんたは好きにしてな」とキッチンで夕食を作り始めた。
「えぇ…」ケイトは戸惑った。質問には答えてもらえず、気にかけてもらえなくて放り出された気分だった。
とりあえずここに長居することになるだろうと考えて、ケイトはバンに積んでいた自分の荷物を2階のあてがわれた部屋へ運んだ。そして仕事用の電話を確認する。マイルズ院長が言っていた通り、この牧場の登録馬名簿などが送られてきていた。じっくり読みたいがもうすぐ8時だ。
部屋を出ると、階段の前で大柄な男性と鉢合わせた。50代くらいで髪には白いものが混ざっている。分厚い体格で首が太く、無精ひげを生やし、少々アルコールの匂いが鼻についた。しゃがれた低い声の持ち主。ここの責任者。サムだ。
サムはケイトを上から下まで見回すと、ふんと鼻を鳴らして階段を降りて行った。
値踏みされたのだと分かった瞬間、ケイトは吐き気がした。仕事で来ただけなのにそういった目で見られるなんて気持ち悪い。サムの目に好ましく映ったとしてもこっちから願い下げだ。
不快な気分のまま下へ降りるとダイニングテーブルに食事が用意されていた。手の凝ったものではなく買ってきたものを温めるだけの料理だったが、ケイトはそれで問題なかった。
結婚してから家族のために頑張って料理をしていたケイトだが、離婚してからはあまりやらなくなった。オーウェンがいるときだけちゃんと料理している。それ以外はスーパーで出来上がったものを買って食べることが多い。
ここでは食事が用意されるだけ有難い。ここから食料の売っている店まで行くには時間がかかる。それに波乱な仕事の始まりにはなんでもごちそうに見えた。匂いにつられて腹の虫が鳴る。
既にサムが席について食べ始めていた。
「ケイト。さっさと食べて」ヒルデはサムの向かいに座り、隣の席をケイトに勧めた。
「え、えぇ」いきなり名前を呼ばれてドキリとした。席に着く。
「サム。この人が獣医のマックスウェル」ヒルデが説明した。
「お前が代わりの獣医か」サムは低い声で言った。
「そうよ」ケイトは小声で返す。
「けっ。あいつ、よりによってこの時期にくたばりやがって」サムは悪態をついた。
「入院してるだけだろ」ヒルデが訂正する。グリーン院長のことだ。
「お前が面倒見ろよ」サムはヒルデに言った。
「うるせぇ」ヒルデは言い返して夕食を食べ始めた。
ケイトは身震いした。3月の夜の寒さからではなく、こんなに雰囲気の悪い食事の席は初めてだったからだ。
面倒を見るというのはケイトのこと。サムはここの責任者であるにもかかわらず、馬の健診をしに来た獣医と接点を持ちたくないと言っているのだ。
ケイトはますます気分が塞いだ。今まで獣医として必要とされてきたのでこんな除け者扱いされることに慣れていない。
サムは馬のように鼻を鳴らすとさっさと食事を終えて2階へあがって行った。
「彼はここで何をしているの?」2階の扉が閉まる音がしてからケイトは尋ねた。
「なにもしてない」ヒルデは苛立ちながら答えた。
「本当にあの2頭の世話しかしてないってこと?」
「それは気が向いたときにしかしない」
「え?どういうこと?」よくわからなくなってきた。「2頭の手入れとかは誰が?」
「あたしがやったり、サムにせっついてやらせたりしてる。ゼットはサムの方が好きなんだ。最近やっとあたしがあげた餌を食べてくれるようになったけど、未だに触らせてくれない」
「それって、ここの馬の世話はほとんど全頭あなた1人でやってることになるじゃない。どうしてサムはそんなに怠けてるの?」
「色々あんだよ」ヒルデは説明をめんどくさがった。
「全部で何頭いるの?」ケイトは質問を変えた。
「10頭。仔馬が生まれたら11頭」
「どうして3頭だけあの新しい厩舎にいるの?ひとつの厩舎に全頭入るでしょ?」アンドロメダは妊娠しているからだろうが、彼女だけ奥の馬房に入れられていて、他の2頭が隣同士であの厩舎に入っている理由が分からなかった。
「もともとは全部一緒だったけど、改装してからは別になった。新しい厩舎の方がこの家から近いし、サムがあの2頭の世話しやすいから。やってないけど。
ま、あたしがここに来た時には既にそうなってたよ。アンドロメダは妊娠中の今だけ移してる。あの奥の馬房だけ少し広いから」
「へぇ…。アンドロメダはなぜ苛立っていたの?」
「今日はあんまり構ってやれなかったから。あいつ寂しがり屋なんだよ。獣医が来るって聞いてあたしも色々忙しかったし。健診が入るなら予定が狂うだろ?
でも今年はあのじいさんじゃなくなったってサムが言ってて、その理由を尋ねても教えてくれなかったからあたしはムカついてたんだよ。代わりがいつ来るのか、本当に来るのか分からなかったから余計に。あたしが苛立つと、アンも苛立つ」
「そうだったのね」ヒルデとアンドロメダの関係性が見えた気がした。恋人のように謝っていたことも理解できる。
「あの…。この牧場はなにで生計を立ててるの?」失礼な質問だと分かっていたがケイトはどうしても気になった。
「映画とかドラマとか広告とかの撮影に馬を貸し出してる。最近は依頼も減ったけどな。あとは土曜と日曜に乗馬体験を開いてる。馬糞も安く売ってる」ヒルデはあっという間に食事を終えた。
「へぇ」
「今日の仕事はもう終わりだよ」ヒルデは言った。「明日から健診とかやってくれない?ゼットとビーストは後回しでいいから」と皿を持って立ち上がる。
「えぇ」
「じゃ、あたしは先にシャワーしてくるから。食べ終わったらあんたもバスルーム使いなよ」ヒルデは皿をキッチンの流しに置くと階段をのぼって行った。