2-3
「血液とエコーってすぐ終わる?」ヒルデガルドが尋ねた。
「いいえ」
「じゃあ、あとでやってくんない?あたしはやることがあるから。勝手に1人で馬房に入らないで」そう言うと彼女はスタスタと歩いて厩舎を出て行く。
「え、ちょっと」ケイトは追いかけた。「あの、ヒルデガルドさん?」
「ヒルデでいいよ」彼女は歩きながら答える。
「色々と聞きたいことがあるんだけど」ヒルデの隣を急ぎ足で歩きながらケイトは言った。歩くというより走っているように感じる。
ケイトの方が背が高く、足の長さもあるのに、ヒルデの歩く速さは風のように素早かった。
「なに?」ヒルデは前を向いたまま応える。
「あなたの他にも従業員はいるの?」ここに来てから彼女しか見ていない。
「いない。あたしとサムだけ」
家の前を通り過ぎる。
「サム?」
「ここのボス」
ケイトは家を見た。しゃがれた低い声を思い出す。「2人だけでこの牧場を回してるの?他にも馬がいるんでしょ?牛もいたりする?」
アンドロメダのいる厩舎には12部屋ほど馬房があるのに、馬は3頭しかいなかった。もうひとつの厩舎にも馬がいるはず。
「牛はいないよ。いつの話してるんだ」ヒルデは呆れた。
「いないの?」
「いたけど、牛は全部サムの息子に譲ったんだよ。何年も前にね。その息子は別の地区で牧場やってる。アンドロメダのいる厩舎はもともと牛舎だったんだ」
「馬だけでやっていけるの?」
「知らない。潰れてないってことは、やって行けてんじゃない?あたしとサムしかいないし」
「馬の世話はちゃんとできているの?全部で何頭いるの?どうやって収入を得ているの?酪農ではなさそうだけど」ケイトは次々と尋ねた。「もし手が回らないようなら馬に悪影響よ」
「あのさ」ヒルデは立ち止まった。「あんた、ここに何しに来たの?あたしにお説教?」
「違うけど」
「ならそういう文句はここのボスに言ってくれる?あたしはただの従業員」ヒルデは吐き捨てるように言った。
倉庫のひとつに着く。
「私は獣医として馬の心配をしているだけで、」
ヒルデは聞いていなかった。倉庫の扉を開ける。中には大量の干し草や牧草がブロックになって置いてあった。
ヒルデは近くにあったリヤカーに牧草のブロックをいくつか乗せると倉庫から出た。ガタガタとリヤカーを引きながら厩舎に戻っていく。
揺れのせいで牧草のブロックがひとつ落ちた。
「落ちたわよ!」ケイトは大声で教えた。
「拾って!」ヒルデはリヤカーを引いているのに先ほどと同じ速さで歩き、どんどん遠ざかっていく。
ケイトは迷ったがブロックを拾って追いかけた。牧草の塊なので重くない。
「ねぇ。私は動物を診に来たんだけど」ヒルデに追いつくとケイトは持っている牧草を指した。こんなことをしに来たんじゃない。
「知ってる。付いてきて」ヒルデはちらっとケイトを見ただけだった。
ケイトは一瞬立ち止まって悪態をつくと、ヒルデのあとに続いた。
ヒルデは適当でめんどくさがり。不真面目でガサツ。いい育ち方はしていない。体にも態度にも口調にもそれが現れているのでケイトはますます彼女を嫌いになった。
もと来た道を戻り、アンドロメダのいる厩舎の中までリヤカーを引くと、ヒルデはケイトが持っていた牧草を受け取って馬房の中にあった大きなバケツにそれを入れた。
他の馬房にいる2頭にも同じように牧草を与える。
それが済むとヒルデはリヤカーを引いて隣の厩舎へ向かった。ケイトも付いて行く。
もうひとつの厩舎の中は隣の厩舎と同じ造りになっており、建物自体に古さが見られた。かなり昔からこの厩舎はここに建っていたようだ。
馬房の数は同じくらい。しかし馬の数は違った。ここには7,8頭いる。餌を心待ちにしていたのか何頭かの馬は馬房から顔を出してこちらを見ていた。
ヒルデはバケツに餌を入れていく。
「ねぇ」ケイトは忙しく動き回っているヒルデに話しかけた。
「なに?」ヒルデは鬱陶しそうに言った。
「さっきアンドロメダのことを勝手にそう呼んでるって言ってたけど、別に名前があるってこと?」ケイトは馬房のひとつを見た。扉の上部に番号の印刷された札がぶら下がっている。個体識別番号だ。
「違う」
「じゃあなんでそう言ったの?」
「だから、あたしが勝手にそう呼んでるだけ」
「どういうことよ?」
ヒルデはため息をついた。ペラペラおしゃべりをするのは好きじゃないらしい。「ここにいる馬たちには名前がないんだ」
「え?」
「サムは自分のお気に入りの馬しか名付けない」ヒルデはすべての馬に牧草を与えるとリヤカーを外に出した。そしてケイトを連れて新しい方の厩舎に行くと、ひとつの馬房の前に立った。
「この黒くてデカいのがペルシュロンのゼット」ヒルデは中にいる馬を指した。ケイトがここに来て一番最初に見た額に白い星のある馬だ。
ペルシュロンは馬の中でも大型の種。他の馬よりひと回り大きい。
「あとはクォーターホースとハクニ―しかいない」
どちらも中間種。一般的な馬の大きさ。
「ゼットの隣にいるのがビースト。うちのボスはこの2頭の世話しかしない」ヒルデはゼットの馬房の中にあるバケツを取り出した。牧草ではなく、こちらには水が入っている。
「2頭だけ?あとの馬はあなたが1人で世話をしてるってこと?」ケイトは驚いた。
「そうだよ」バケツに入っていた水を通路の排水溝に流す。
「他に誰か雇わないの?」
「さぁ?サムはそんな気ないと思う」ヒルデはそのバケツを厩舎の端にある水道まで持って行って洗った。
「どうして?」
「知らない」洗い終えるとバケツに水を溜めて、重量挙げの選手のように歯を食いしばりながら持ち上げた。素早く歩いてそれをゼットの馬房に戻す。
「…もっと効率のいい水のあげ方があるんじゃない?ホースを使うとか」ケイトは指摘した。
「あるけど長さが足りない」あったらとっくに使ってるという言い方。
「そう…。それじゃ、ずっと1人で世話しているの?」ケイトは記者やパパラッチのようにヒルデにくっついて質問を続けていた。
「いいや。半年くらい前までもう1人従業員がいたけど、サムと喧嘩して辞めた」ヒルデはビーストの水バケツも同じようにした。
「あなたはここでどのくらい働いてるの?」
「2年」
「何歳?」
「22」
「にじゅう…」ケイトは立ち止まった。2年ということは20歳からここで働いている。
ヒルデはアンドロメダの水バケツも洗った。
「え?サムとは親子か何か?」ケイトは再び質問を続けた。
「はぁ?そんな冗談笑えない」ヒルデは舌を出してウェっとなった。「あいつと親子とか死んだ方がマシだね」とバケツに水を溜めてアンドロメダのところへ持っていく。
「そんなに彼が嫌いなら辞めればいいのに」
「簡単に言うなよ。それに、あたしが辞めたらここの馬は死ぬよ?」彼女は厩舎全体を指した。「あたしだって辞められるなら辞めたいけど」
「あなたが辞めたらサムも誰か雇うでしょ?」
「そんなことしないね。こっちにも色々あんの」ヒルデは苛立ち始めた。「あぁ、もう。時間がない。あんたも手伝ってよ」
「え?」
「犬みたいに付いてきておしゃべりしてるだけなら手伝えって言ってんの」そう言うと彼女は厩舎から出て行った。
ケイトは少し傷ついたが、ただおしゃべりをするだけの犬だと思われたくなかったので手伝うことにした。
ヒルデは古い厩舎にいる馬たちの水も変えていたので、ケイトは空になったバケツを水道へ持って行き、洗って水を満たす役目を担った。
最初はなみなみと新鮮な水が入ったバケツを運ぼうと試みたが、重すぎて4,5歩で力尽きた。腰をやられそうだった。獣医も体力勝負の仕事だがさすがにこれはきつい。
水替えが終了するとヒルデは外に出て古い厩舎の戸締りをした。
「付いてきて」と彼女は言う。何度も重いバケツを運んでいたのにまだ元気に見える。