表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Piece  作者: 香坂茉音
5/79

2-2


  2時間後、ケイトは夕日を見ながら田舎道をつらつらと走っていた。段々と建物が少なくなり、牧草地が果てしなく続いているような地域に入る。やがて舗装されていない道になり、ケイトの前に大きな建物が見えるようになった。


 今回の目的地、ブラウン牧場。古くて大きい木造2階建ての一軒家が舗装されていない道の終わりに建っている。


その家の左側には木造の倉庫が2棟並んでいて、家の右側にはレンガと鉄筋で出来た厩舎(きゅうしゃ)と思われる建物が2棟建っている。その2棟の間は10~15mほど離れていた。


 木造の倉庫の前には高さ130cmくらいの木柵に囲まれた正方形のスペースがあった。20㎡くらいの広さ。砂地になっているので、馬場と呼ばれる馬を放つ場所だろう。


 ケイトは家の前にバンを停めた。バンを降りて家のポーチを上がり、チャイムを鳴らす。だが壊れているのか鳴った気配がない。


 扉をノックする。反応なし。


 もう一度ノックしたが誰かが出てくることはなかった。


 「すみません」ケイトは家に呼びかけた。すると中から小型犬と思われる犬の鳴き声がした。人間は出てこない。


 ケイトはポーチから降りて家の周りを確認した。犬以外、人の気配がない。


 家の左側にある倉庫を見てみるがどちらも扉が閉まっている。


 次に右にある厩舎に目をやると、家に近い方の厩舎の扉が開いていて、人の姿が一瞬見えた。


 そこに向かう。厩舎に近づくと馬と干し草の香りがしてきた。


 「すみません」ケイトは厩舎の出入り口に立った。


 厩舎の中はコンクリートでできた1本の通路が真っすぐに伸びていて、突き当りにはもうひとつ出入り口が見える。


通路の両側には馬の部屋となる馬房が並んでいた。片側に約6部屋。全部で12部屋ほどありそうだ。


馬房の造りは下半分が木で、上半分が鉄格子になっている。馬が顔を出せる分の隙間も空いていた。厩舎全体を見るとあまり汚れてはおらず真新しい印象を受ける。


 ケイトのすぐ右、一番手前にある馬房から大きな青毛で額に白い星のある馬が顔を出し、ケイトのことをじっと見た。その隣の馬房にも馬がいて同じように顔を出している。


 通路の左側、一番奥にある馬房から先ほど見かけた人が顔を出した。ケイトに気付くと、馬房から出てこちらへ近づいてくる。


 その人は女性で、恐らく18歳から20代前半くらいの若さ。黒い髪をバズカットのようにかなり短くしていた。


凛々しい眉に大きな瞳。丸い鼻と薄めの唇。子供のように小さい輪郭。


作業用の紺のつなぎを着て、その上から黒のダウンベストを羽織っている。足元は黒いブーツ。ケイトの身長が167cmなので、この女性は160cmくらい。細身だが筋力はあるように見える。


 「なに?」ケイトの前に来ると女性は少年のような声でめんどくさそうに言った。


 「マイルズ動物医療センターから来ました。獣医のマックスウェルです」ケイトは女性に嫌悪を抱いた。「グリーン院長の代理です」


 「あぁ」女性は腕を組んだ。つなぎの袖を肘まで捲っていて、その両腕にはいくつものタトゥーがある。


 それを見て、ケイトはこの女性が自分の苦手なタイプだと悟った。


 ケイトは派手な性格ではないが、暗いわけでもない。社交的だが度を越すことはなく節度を持っている。


この女性はどう見てもそれとは違う性格であり、普段ケイトが交わることのないタイプ。いわゆるヤンチャで不真面目。ケイトは女性をろくな人間ではないと決めつけて、来たばかりなのにもう帰りたくなっていた。


 「こっち来て」女性は頭を投げて指示すると厩舎から出た。


 付いて行くと、女性は家の裏に辿り着いた。裏には扉があり、女性はそれを開けて叫んだ。


 「サム!」女性の大声が家の中に響く。


 犬の声以外、何の返事もない。


 女性は舌打ちをしてもう一度呼びかけた。「おい!サム!」


 ケイトにはそれが荒々しく見えて、一段と不快になった。


 小型犬が姿を現す。黒い毛の雑種。さっきから吠えているのはこの子だ。小型犬はケイトの匂いを嗅ぐと、吠えながら足元をすり抜けて外へ出て行った。


 ケイトはその犬を目で追った。犬は元気に辺りを走り回る。


 家の裏にはサッカーコートよりも大きいスペースがあり、木柵でふたつに分けられていた。一方は広く、もう一方はそれより小さい。倉庫の前にある囲いとは違いこちらには牧草が生えていた。


 「なんだ」


 しゃがれた低い男性の声が聞こえて、ケイトは家の中を見た。しかしその声の持ち主は見当たらなかった。


 「獣医が来たんだけど!」女性は家の奥に向かって叫んだ。


 「お前がなんとかしろ!」低い声も叫び返してきた。


 女性はそれを聞くとまた舌打ちして、クソじじいと呟いた。扉を乱暴に閉めてケイトを見る。


 「こっち来て」と言って、スタスタと歩いて行った。


 「ちょっと、」ケイトは戸惑った。この女性も、家主と思われる男性も、柄が悪い。ますます帰りたくなった。


 女性は先ほどの厩舎に今度は裏から入っていく。


 ケイトは慌てて追いかけて中に入った。女性はすぐ右にある馬房の前に立っている。先ほど彼女が顔を出した馬房と同じところだ。


 「この子を診てもらいたいんだけど」女性は中にいる馬を指した。


 馬は栃栗毛の牝馬(ひんば)(メス)だ。体は暗い赤茶色だが、足の先だけ靴下を履いているように白い。腹部が大きく膨れ、鼻息も少し荒くなっている。落ち着かずにソワソワしていた。妊娠している馬とはこの子のことだ。


 馬房の中には床一面に敷材の(わら)が敷いてあり、大きなバケツが2つと塩の塊が壁につるしてあった。


 「ちょっとイライラしてるから気を付けて」女性が言った。


 「どうして苛々しているの?」ケイトは尋ねた。


 「気に入らないことがあるから。いま何時?」


 腕時計を見る。「5時25分」


 「もうそんな時間か。早く診てくれない?」女性の方も苛々して見えた。


 「ちょっと待って。鞄を取ってくるわ」ケイトは厩舎を抜けて、家の前に停めてあるバンから診察用の鞄を取って戻った。


 「この子の歳は?」ケイトは鞄を馬房の前に置いた。


 「4歳。いつものじいさんはどうした?」女性は怪しげにケイトを見た。


 「グリーン院長のこと?彼なら骨折して入院したわ。聞いてないの?」


 「じいさんの代わりが来るとしか」


 「そう」ケイトは不審に思ったが、診察するために馬房に入った。「ちょっと触るわよ」と馬に触れようとすると、馬は耳をピンと立てて首を振り、鼻を鳴らした。


 「触らない方がいいかも」女性が言う。


 「それじゃ診れないわ」ケイトは肩をすくめた。


 女性は馬房に入り、馬の鼻面を撫でて(なだ)め始めた。


 「なぁ、アン。大丈夫だ。落ち着けって。あたしが悪かったよ。この人はあんたを診るだけだからさ。機嫌直して」と優しい声で話しかける。まるで怒った彼女をなだめる彼氏のように見えた。


 馬はそれを理解したのか、ソワソワしていた体が徐々に落ち着いてきた。


 「あんま声を出さないで。うしろに行くと蹴られるから行かないで」女性は小声でケイトに言った。


 「体温を測れない」ケイトも小声で言う。直腸で体温を測るのに。


 「あんた獣医だろ?どうにかしなよ」女性は眉をしかめた。


 「なに言ってるの。あなた馬の体温を測ったことないの?」声に角を立ててケイトは責めた。


 女性はため息をつく。それに合わせて馬も首を振って苛つき始めた。


 「体温計ある?」女性は馬を撫でながら聞いた。


 「あるけど」ケイトは鞄から未使用の体温計を出した。


 「それ貸して。あたしがやるから。あんたは外に出てて。この子の視界に入らないところ」


 ケイトは腹立ちながらも女性に体温計を渡して馬房を出た。厩舎からも出る。


 口の悪い従業員に、管理体制も悪そうなこの牧場をケイトは嫌いになった。なぜこの仕事を受けてしまったのだろう。断ればよかったと後悔する。


 2,3分すると女性が呼びに来た。「終わったよ」


 ケイトと女性は再び馬房の前に立つ。


 「38,1度だって」女性が言った。


 「そう」ケイトは腰に手を当てた。馬の体温は人間より少し高い。それに夕方はやや高くなる。妊娠中でもあることから、熱はなさそうだ。「妊娠何週目?」


 「よくわかんない」


 「え?」


 「父馬も誰かわかんない」女性は首を傾げた。


 「ちょっとずさんじゃない?」ケイトは(たしな)めた。


 女性は悪びれもせずケイトを見る。「そんなに怒んないでよ」あたしのせいじゃない、という顔。


 「あなたここで働いてるんでしょ?だったらしっかり管理しなさいよ」


 「はいはい」耳に指を差し込んで鬱陶しそうにする。「あたしに怒るのはあとにしてくれない?とにかくこの子を診てよ」と顎で馬を指す。


 ケイトはハッキリとため息をついた。苛立ちをあからさまに顔に出す。この女性がいくつなのか知らないが、礼儀知らずでオーウェンのような幼稚さを感じる。


 「心音を聞いたり触診したいんだけど」


 「やめた方がいいんじゃない?怒って蹴られるよ」


 「じゃあ何もできないわ」ケイトは手を挙げた。


 「は?なんもできないの?」


 「えぇ。なにもできない」ケイトは怒鳴りそうになるのを我慢した。「私、このまま帰りましょうか?」


 女性は唸った。「じゃあ、あたしがなんとかなだめておくから」


 最初からそうしなさいよ。「そうして頂戴」


 2人は馬房に入った。


 「アン。頼むからもう少し我慢してくれ」女性は馬の頬を掻いて注意を逸らした。


 馬の気が女性に向いた隙に、ケイトは鞄から聴診器を取り出して馬の左側に立った。聴診器を着けて心音を聞く。脈拍と呼吸の回数も測った。妊娠中なので少し増加しているが問題はない。


 「この子、アンって名前なの?」ケイトは聴診器を外して尋ねた。


 「アンドロメダ。あたしが勝手にそう呼んでる」女性はちらりとケイトを見た。「あんたは?」


 「私?」


 「名前」


 「マックスウェルって言ったけど…?」


 「それは苗字だろ」


 「ケイト。ケイト・マックスウェル。あなたは?」


 「ヒルデガルド」


 「ヒルデガルド?ドイツ系なの?」


 「違う」ヒルデガルドはめんどくさそうに目を回した。何度もされる質問なのだろう。


 「家族がその出身とか?」


 「違う」


 ケイトは名前の意味を教えてくれるものだと思って待ったが、彼女は何も答えなかった。


 「で?どうなの?」ヒルデガルドは言った。「アンの様子は」


 「もう少し診るわ。もう触っても大丈夫かしら?」


 ヒルデガルドは馬を見た。「アン、どうだ?もうすぐ終わるからな。大丈夫だぞ」と優しく声をかける。「こっちに来て」とケイトに言った。


 ケイトは彼女の隣に立つ。


 「挨拶して。ゆっくり手を出して触ってみて」


 「こんにちは。アンドロメダ」ケイトは少々緊張しながら手を出した。その手がアンドロメダの頬に辿り着く。軽く指先で撫でると暖かくて滑らかな毛ざわりを感じた。


 「嫌がってないね。触ってもいいらしい」ヒルデガルドは口角を上げた。「いい子だ。アン」


 「ありがとうね」ケイトは手のひらでアンドロメダの鼻面を撫でた。


 その後ケイトが診察に移ろうとすると、ヒルデガルドが「蹴られないように気を付けてな」と注意を促した。

 

 「わかった」ケイトは頷き、なるべく迅速に容体を診た。目や鼻、口や耳など見えるところを診察して腹部にも触れる。


 「問題はなさそうね。陣痛の兆候もないし。もっと詳しく調べるなら血液検査とエコー検査が必要になるけど。今日の排泄はどうだった?」


 「普通。いつもと変わんない」ヒルデガルドはアンドロメダの顎の下、頤凹(おとがいくぼ)と呼ばれるところを掻いてやった。


 「食欲は?」


 「よく食べる」


 ケイトは他にも細々とした問診を続けた。ヒルデガルドは自分のことのように答える。


 「わかったわ。とりあえず大丈夫そうね」ケイトは言った。


 「終わったよ、アン。よく頑張ったな」アンドロメダの鼻を叩くと彼女は馬房から出た。


 ケイトも出る。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ