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Piece  作者: 香坂茉音
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2-1


  土曜日、日曜日はあっという間に過ぎ、日曜の夜には待ち合わせの場所にオーウェンを連れて行ってバイバイした。ケイトは息子に手を焼きながらも充実した休みを過ごせたが、これからまた寂しい5日間が始まる。


  月曜日、いつもの時間に出勤して午前中の診察を行った。


 「マックスウェルくん」


 昼休憩中にケイトがスタッフルームにいると、院長のマイルズに呼ばれた。


 マイルズ院長は50代後半の男性で、口髭とスキンヘッドがトレードマーク。背が高く、スポーツをしていたので体格も良かった。


 「なんですか?」ケイトは応えた。


 「ちょっと来て」マイルズ院長はそれだけ言うとスタッフルームを出て行った。


 ケイトは急いでお茶を飲み干して院長のあとを追った。


 マイルズ院長はスタッフルームの隣にある院長室に入った。従業員がここに入ることはほとんどない。


院長用の椅子と机があるだけの小部屋で、マイルズ院長自身もあまり入室しない。彼がいるのは診察室か手術室が多く、出張にもよく出ている。


 「さて」マイルズ院長は椅子に座った。


 ケイトは立ったまま話を聞く。


 「実はさっき、E地区のグリーン動物病院から電話があってね」院長は話し出した。


 「はい」ケイトは首を傾げる。


  E地区のグリーン動物病院と言えば、ケイトがこのセンターに来る前、半年だけ働いていたところだ。


 離婚が成立する半年前、ケイトはダニエルと別居するためにE地区の端、通りを1本越えればD地区という所に仮暮らしをした。


そのとき結婚してから勤めていた動物病院を辞め、仮暮らし近くにあるグリーン動物病院にアルバイトのような形で勤めた。とても小さな病院で、顔なじみの動物しか来ないようなところだった。


 そこのグリーン院長という人がマイルズ院長と知り合いだったので、彼の勧めでケイトはこのセンターにやってきた。


 グリーン院長は60代後半の小柄な男性で、優しく、いつも穏やか。常に微笑んだ顔でみんなから好かれる雰囲気を持っていた。


  「昨夜、というより今日の早朝。グリーン院長が転倒して、鎖骨と足の骨を折ったそうだ」マイルズ院長は言った。


 「え?大丈夫なんですか?」


 「あぁ。だがしばらくは入院するそうだよ。それで、グリーン院長が毎年この時期にC地区の牧場へ行ってるのは知ってる?」


 「はい。聞いたことはあります」


 C地区には牧場がいくつもあって、グリーン院長は毎春そのうちのひとつの牧場へ健診しに行っていた。


 「今年はそこの馬が妊娠中で、代わりに君に様子を診てもらいたいんだって。あとついでに他の馬の健診もお願いしたいと」


 「私が?」ケイトは驚いた。


 「うん。馬、診たことあるでしょ?」


 「ありますけど…。どうして私なんですか?」


 「グリーン院長が君を指名したから。君は優秀だし、経験もあるから大丈夫だって言ってたよ」


 「でも私は馬専門ではありません」


 「今の時期、馬専門獣医はどこも予約でいっぱいでね。手の空いている人がいないんだよ。探している間に馬に何かあったら大変だろう?とりあえず今日のところは君が診てきてほしいんだ。こちらでも代わりの人を探しておくから」


 「今日?今から?」ケイトは口をあんぐりと開けた。


 「そうだ」マイルズ院長は真剣だった。


 「あなたが診ることは出来ないんですか?」


 「マックスウェルくん。私のスケジュールは知っているだろう。これから手術がある。訪問診察もある。長い事ここを留守にするわけにはいかないんだ。お相手の牧場は馬の出産まで付いていて欲しいそうで、通いか宿泊を希望しているんだよ。どうする?」


マイルズ院長は決定したものとして話を進めていた。


 「ちょっと待ってください」ケイトは焦った。


 「頼むよ。他に手が空いてないんだ。君の予約はこちらでなんとかするから」彼は眉を下げた。


 「他の獣医は?グリーン院長のところの獣医でもいいのでは?私にも予定があるんですよ?休日まで長引いたらどうするんです?私は息子と会えなくなります」ケイトは強く主張した。馬を診るのは構わない。しかしそれがいつまでかかるかが問題だった。


 「もうすぐ出産といっているから、長引かないと思うよ。他の獣医には君の仕事を回すし、グリーン院長のところの獣医はそもそも数が少ないんだ。君も知っているだろう?グリーン院長が入院したことで既に手一杯なんだ」


 グリーン動物病院は小さな病院なので獣医が2,3人しかいない。


 「そうですけど、」


 「息子さんのことは何とかならないかな?」マイルズ院長はケイトを制した。「もしかしたら仔馬はすぐに生まれるかもしれない。そうなったら予定通り息子さんと会えるよ」


 「しかし…。通うと言っても車がありません」


 「うちの車を使えばいい。必要なものはなんでも持って行ってくれて構わない」


 ケイトは悩んだ。休日は息子に会いたい。今週の平日中に馬が出産してくれればいいが、こればかりはどうなるか分からない。


 「もちろん出張手当てや特別手当ても出すよ」マイルズ院長は最後のひと押しをした。


 それを聞いてケイトの心はぐらりと揺らいだ。手当てが貰えれば家を買うのに1歩近づく。今週は息子に会えなくなるかもしれないが、ずっと一緒に暮らせる家が手に入ると考えるなら引き受けてもいいのでは?ダニエルか両親に頼めばオーウェンを見ていてくれるだろう。


 「…………わかりました」ケイトはため息交じりに受け入れた。これでは金目当てだと思われてしまうが、実際にお金が必要だった。


 「ありがとう」マイルズ院長は微笑んだ。「じゃあさっそく準備してくれ。こちらから各所に連絡を入れておく。出張勤務手続きもしておくよ」


 「はい…」


 ケイトは肩を落としながら一旦自宅に帰った。ダニエルに連絡して、仕事が入ったから今週末はオーウェンをあずかれないだろうと伝えると、彼は快く了承してくれた。


ダニエルの勤務形態はケイトと同じ。土日は休みになっている。彼が土日に何をしているのか知らないが、それを考えることはしたくなかった。


 念のため泊りの用意をして、それをセンターに持っていくと、[マイルズ動物医療センター]と印刷された古いバンがセンターの前に停めてあった。


出張や往診、訪問などにこのバンが使われていて、ケイトも何度かこれを運転したことがある。このセンターは同じバンを2台、乗用車タイプを4台所有していた。


 ケイトがバンに近づくと、マイルズ院長が現れた。


 「場所はナビに入れてあるよ。一応、私がバンの中身を確認しておいたが、もし何か必要なものがあったら取りに来てくれ。用意しておくよ。


さっきグリーン動物病院に馬の登録名簿を君に送るよう頼んでおいたから、メールで届くだろう。仕事用の携帯電話は持っているかい?充電器はあるね?よし。


もし泊まることになったら場所はお相手が用意してくれているから。なるべくこまめに私に連絡を入れてくれ」


 ケイトはマイルズ院長の準備の良さと早さに驚いた。とても優秀な院長であるが、ケイトがこの件を引き受ける前提で今朝から準備していたのかもしれない。


 そのとき、ケイトの脳裏に引っかかりを覚えた。私に指名がかかったのは知識と経験があるからと言っていたが、本当は独身で身軽だから動きやすいと思ったのでは?


グリーン院長が2年も前、半年だけ働いていた私に目を付けるとは思えない。


 「マックスウェルくん?」


 「はい?」ケイトはハッとした。


 「大丈夫かい?無理を言ってすまないと思っているが」


 「平気ですよ」ケイトは自分の荷物をバンに乗せて運転席に座った。「マイルズ院長」


 「なんだい?」


 「グリーン院長が私を指名したというのは本当ですか?」


 「本当だよ」


 「でも彼と仕事をしたのは2年も前ですよ。しかも半年だけ。どうして私を?」


 「マックスウェルくん。君にこのセンターに勧めたのは彼だろう。彼は君が優秀だと思ったからここを勧めたんだ。今回の指名もそう。


自慢になるが、うちはどの従業員も優秀だ。そのおかげで良い医療を提供できている。それは私の誇りだよ。


私は従業員にも同じように思ってもらいたいから、なるべく融通が利くようにしている。今の君には申し訳ないがね」


 「私はこの職場になにひとつ不満はありません。私のプライベートを配慮して頂けてとても感謝しています」


 「それはよかった。とにかく私も、グリーン院長も、君を信頼しているからね。よろしく頼むよ」マイルズ院長はそう言うと運転席のドアを閉めた。


 ケイトは本当にこのセンターに感謝しているし、充実した職場だと思っている。今回のことは過剰に考えすぎているだけなのだろうか?なんだか選ばれた理由をはぐらかされた気もして納得は出来なかった。


 センターに戻っていく院長の姿を見ていると、建物の窓からエマがこちらを見ているのに気付いた。目が合うと、彼女は握り拳を作り頑張れと口の動きを見せた。


 ケイトはそれに手を振って応え、バンを発進させた。ナビによるとここからC地区の牧場までは2時間かかる。


 マイルズ院長は優秀だと褒めてくれたが、バンがセンターから遠ざかるにつれてケイトは悲しくなっていった。


 ケイトの獣医人生で出張は何度も経験がある。


動物も人と同じで容体が急変するので、予定を変更してその動物がいるところまで車を飛ばす。往診に行ってそのまま泊りになることだってある。


今回もその類だ。けれど離婚してからの長期出張は初めてだった。


 もし独り身でなければこの役目が他の獣医に回っていたかも。子供と一緒に住んでいれば出張など頼まれなかったかも。


ひねくれず優秀だと褒められたことを素直に嬉しく思いたい。腕を見込んで選ばれたのだと思いたい。そのことを誇りたかった。


けれどやはり‘そういった事情’があるからではと勘繰ってしまい、虚しくなった。


 悲しさと虚しさが通り過ぎると、今度は怒りが湧いてきた。


グリーン院長が骨折したのは偶然なのに、なぜよりによってこの時期に怪我をするんだ。馬は春が出産シーズンで、年に1回の健診も春に行われることが多いのに。


他の獣医を指名すればいいのになぜ私なんだ。私だってこれでも母親で子育てをしているのに。私だって自分の仕事があるのに。






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