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翌日は金曜日だったので、ケイトは仕事を終えると急いで夕食を食べてから駅に向かった。
電車に乗ってE地区にある駅で降りる。駅前の大通りにある店の前がいつもの待ち合わせ場所だった。
数分そこで待っていると、ダニエルの運転する車が現れた。ケイトの前で停まると後部座席から小さな男の子が降りてくる。
「ママ!」青いリュックを背負ったオーウェンは母めがけて走った。
「オーウェン!」ケイトは息子を受け止めた。「元気にしてた?」と抱きしめる。
「うん」オーウェンは少し恥ずかしそうに笑った。
「よかった。とっても会いたかったのよ」彼の顔を両手で包んでもみくちゃにする。
「やめてよぉ」
ケイトは笑った。「行きましょうか」
顔を上げるとダニエルの車が走り去っていくところだった。
オーウェンと手を繋いで電車に乗る。自宅の寝室のひとつは息子用にしてあるのでいつでも彼を引き取ることは出来た。
帰ってからオーウェンを風呂に行かせる。
「幼稚園はどう?」息子の髪を乾かしてあげながらケイトは尋ねた。
「楽しいよ。この前はね、かけっこに勝ったし、先生の手伝いをして褒められたんだ!」オーウェンは今週の出来事をひとつ残らず話した。
「そうなの。偉いわね」ケイトは話を聞きながら息子のブロンドヘアをかき上げてやった。そろそろ散髪に行かせないと。前髪が目に入りそうだ。
生まれたときはもっと明るいブロンドだったが、年々暗くなっているように見える。おそらくダニエルのような、明るめの茶色になるだろうとケイトは予想していた。
息子の成長を日々間近で見られないのは辛い。
ケイトはまるで自分が遠く離れて暮らしている祖母のようだと感じるときがあった。久しぶりに会った孫を見て、「背が伸びたね」「声が低くなったね」とでも言うように。
本当は母親らしく毎日側にいて、「私にとってはまだまだ赤ちゃんよ」と言いたい。
長期間体を張って命を育み、自身のお腹から生まれてきた正真正銘の我が子なのに、これからも会うたびに成長を感じるようになるのだろう。今は成長期であるし、どんどん変化が出てくる歳だ。小さな男の子から少年になっていく。
いつか気難しい思春期になったら、母親に会うのを嫌がったりするだろう。友達や他の誘惑の方が大事になるはずだ。
そのうち彼女ができて家庭を持つかもしれない。妻や子供が一番大切な人となり、実の母親は後回し。そうなると更に疎遠になって、ケイトは孤独と疎外感を味わうこととなる。
ケイトは心の中で大きなため息をついた。息子に会うたびこんなことを考えたくない。
「ママ、ゲームしてもいいでしょ?」髪を乾かし終えるとオーウェンは言った。
「駄目よ。歯を磨いてからね」ケイトはまた心の中でため息をついた。
オーウェンは早くゲームがしたいがために歯を雑に磨いたのでやり直しをさせた。
「30分だけね」ようやく歯磨きを終わらせると、ケイトは約束通りオーウェンにゲームを許した。
「はーい」オーウェンは嬉々としてリビングでゲームを始めた。
3か月前のクリスマス。オーウェンはダニエルの両親がプレゼントとして与えたゲーム機に夢中だった。
ケイトとしてはまだそういった類のものを与えたくなかった。教育上、もう少し大きくなってから、10歳くらいになってから良しとしようと考えていたのに、ダニエルの両親はそれを無視して「オーウェンが欲しがっていたから」と与えてしまった。
ケイトは義両親に腹が立ったが、一度手にしたもの、それもクリスマスプレゼントを取りあげることは出来なかったので、ゲームすることを許可している。
息子は天真爛漫で賢い子だが、熱中するとほかのことを忘れる。ゲームを与えると時間を忘れてやり続けるだろうというケイトの読みは当たった。
ゲームをやり始めてからオーウェンはそれを手放すことが出来ず、食事に呼んでもテーブルに着かない。夜中にこっそりやっていて寝不足になる。挙句の果てにはトイレに行くのも忘れて粗相することもあった。
それに怒ってゲームを取りあげると、オーウェンはこの世の終わりかのように泣き叫び、「もうママのところには行かない!」と駄々を捏ねて翌週の休日をケイトと過ごさなかった。
なので仕方なく時間を決めてゲームをやらせている。ダニエルの家でも時間を決めているはずだが、気にせずにやらせているだろうとケイトは思っていた。
ケイトにとっては息子が全てなのに、息子の方はそうでもない。いろんなものに興味を持ち、知識を吸収している。クリアすべき挑戦がゲームの中にある。それが彼のすべてなのだ。
母親として子供の楽しみを奪いたくない。やりたいことはやらせてあげたい。可愛い我が子を甘やかしてやりたいと思っているので、厳しくし過ぎることも出来ない。だがちゃんとした大人になって欲しい。そのせめぎ合いで揺れていた。
「ママのところには行かない」と言われたことが相当なダメージだったので、それだけは避けたい。もう2度と言われたくなかった。
オーウェンがゲームをしている間、ケイトはあれこれ家事を済ませた。
「オーウェン!もう終わり!」時計を見るといつの間にか30分どころか1時間経っていた。
「えぇ~!」
イヤイヤしている息子を叱ってゲームをやめさせると、彼をベッドに寝かせた。もちろん夜中にゲームをしないようケイトがゲーム機を預かっている。
「おやすみオーウェン」
「おやすみママ」
ケイトは少し膨れ面のオーウェンにおやすみのキスをすると部屋から出た。
キッチンに行って音を立てないように冷蔵庫を開ける。中からお酒を取り出して、ダイニングテーブルで静かに飲んだ。アルコールが体に染み渡る。
本当はお酒を飲むのが大好きなケイトだが、平日は飲めない。休日も呼び出されることを考え、金曜の夜、アルコール度数の低い物を少し飲むだけに留めていた。もしこの仕事をしていなかったら毎晩でも飲む酒豪となっていただろう。
お酒を飲み込み、ケイトは本物の大きなため息をついた。
週末を息子と過ごす生活にも慣れたが、これがずっと続くかもしれないと思うと憂鬱になる。
本音を言えばこの生活をやめたい。息子と一緒に暮らしたい。ダニエルは悪い父親ではないが良い夫ではなかったので、ずっとあそこに息子を住まわせたくないとも思っていた。
いずれは家を買ってそこに息子と住みたい。そんな考えがぼんやりと頭の中にあった。タイミングとしては息子が小学校に上がる前の今がチャンスなのだが、悩み事が多くてなかなか踏み出せずにいた。
まず家を買うなら家を探さなくてはいけない。もしいい物件があっても値段が気になる。買うならなるべく一括で手に入れたいので、余裕のある貯金額まではまだ遠かった。車も必要になる。
離婚のとき節約のため実家に帰ることも考えたが、どうせ両親に反対されるだろうと思ってやめた。彼らにお金を借りることも出来ない。
そして息子と暮らすにはダニエルと話し合う必要がある。ケイトは金銭の心配よりこちらの方が難点に感じていた。ダニエルがすんなりとオッケーを出すとは思えない。
さらに最大の気詰まりは両親を説得することだった。
家を買うなどと言ったら絶対に反対、激怒する。母は親子の縁を切るまで言い出すかもしれない。ダニエルと話し合うことなど、両親の説得と比べたら挨拶を交わすくらい簡単に思えてくる。
他にも家を買えばたくさんの書類仕事に追われるだろうし、自分と息子の引っ越し、新たな職場を探す可能性も出てくる。
もし一緒に住めたら息子は週末にダニエルと会う生活に変わる。それを息子が善しとするか。
この悩みたちを全て解決する気力がケイトには無かった。離婚の手続きやそれによる転職と引っ越しで疲れ果て、両親や周りの批判などで酸っぱい思いをした経験があるため、最初の家探しの段階から心が折れていた。
オーウェンがもっと大きくなってから同居することも考えたが、その頃にはもう彼は「いまさら一緒に暮らしたくない」と言うかもしれない。一緒に住めたとしてもほんの数年。すぐ大学や仕事で家を出て行くだろう。
やはり今のタイミングしかない。けれど動きたくない。こうしてぐるぐると悩み続けるうちに嫌になって後回し。そのうち手遅れになる。だが気力の無いケイトにはどうしようもできなかった。