1-2
次の日。ケイトはいつも7時前に起きる。
センターは9時に開くので、顔を洗って歯を磨き、ゆっくりと朝食を摂ったあと髪を纏めて服を着替える。メイクはあまりしない。眉毛を整えてまつ毛を上げ、保湿用のリップクリームを塗る程度。動物のために極力なにもしない。
準備が済むと、色々と入っている仕事用の大きな鞄を担いで家を出た。
昨日逃がしたはずの疲れがまだ体に居座っていて眠気もあったが、週末には息子に会える。彼から元気を頂けるので、それまでの我慢だとケイトは気合を入れて15分歩いた。
8時頃にセンターに着き、裏口から入る。更衣室で着替えたあと事務室で出勤記録を残し、診察室で今日の予約を確認した。
予約の無い時間は急病や怪我などの予約がない動物を診る。昨日のトイプードルは、ちょうど予約していた犬の診察が終わったところにあの女性が飛び込んできた。
ケイトの診察室がセンターの入り口から一番近いので、女性は表の引き戸に表示されている[診察室6]の文字を見て入ったのだろう。
このセンターに来るのは飼い犬と飼い猫が大半だ。野良犬や野良猫を拾ったので診て欲しいというのもよくある。
他にもアライグマや鹿、うさぎ、狐、リス、猿、豚、鳥類。ここでは診ることが出来ないが亀や爬虫類が来たことも。ケイトがむかし勤めていた動物病院ではヤギや牛、馬も診たことがあっった。
ケイトの午前中の仕事は予約で終わった。ラブラドールの健康診断。ブルドック兄弟のワクチン接種。アメリカンショートヘアの診察。
こういった仕事が大半で、その次がケガの治療や経過観察、去勢避妊手術などだ。
緊急性のあるものを担当することは少ない。昨日のトイプードルは予想外だったが、こういう日もある。あの子は今朝一番に女性が引き取りに来ていた。
寝る暇もないほど忙しく働いている時期が20代のころのケイトにもあった。だが今は一線を退いている。
なぜそうなったのかというと、体力的な面もあるが、結婚と出産をしたからだ。それは離婚した今も続いている。
幸いなことに、マイルズ動物医療センターはそのあたりを理解してくれているので、子供が幼稚園にいる平日のみ出勤で、土日は子供と会うため休みにしてもらっている。
休みであってもセンターからヘルプの電話が来ることがあるが、多くはない。緊急性のない仕事ばかり担当しているのもそのためだ。子供に何かあると平日でも仕事を抜けることが出来る。
若い頃はどれだけ仕事が忙しくてもやりがいを感じて、ケイト自身もバイタリティに溢れていた。
今もそうかと問われると肯定は出来ない。あの頃のような軽快さや快活さは薄れている。この歳のせいなのか、酸いも甘いも経験してきたからなのか。なんにせよケイトの魅力や自信はいつの間にかどこかへ隠れてしまった。
しかし、いつもこの仕事に誇りと責任を持っている。悪いこともたくさん起こるが辞めようと思ったことはない。唯一、妊娠中に専業主婦になるか悩んだくらいだ。
昼休憩中はスタッフルームにあるスナックをつまんで腹を満たす。お茶を飲んでから診察室に戻った。食生活も乱れている。1人になると特に。
次の予約まで1時間半ほど手が空くので、その間に予約の無い動物を診察室に招いた。
「こんにちは」ケイトは入ってきた男性を見た。
30代前半で白のセーターに黒のスラックスを履いている。丸みのある顔立ちに黒髪。背は170cm代で筋肉質。左手の薬指にはシリコン製の指環をはめていた。
「こんにちは。ちょっとこの子が鼻水を出していて」男性は動物用の赤いキャリーバッグを診察台に置いた。
中には身を縮めてこちらを威嚇している猫がいる。
ケイトは男性が待合室で書いた問診票を見た。それから男性に名前を尋ねて本人かどうか確認を取る。これはこのセンターの決まりだ。
「えーっと、5歳のオスのスコティッシュフォールドですね」ケイトは問診票を見ながら言った。ワクチンと去勢は済んでいる。「今回ここを利用するのは初めてですよね?どうして?」
「前のところはあまり気に入らなくて」男性は肩をすくめた。
「そうですか」病院を変える飼い主はいる。その理由は様々だ。
おそらくこの猫は元々男性の奥さんが飼っていて、今日は奥さんの代わりに彼が連れてきたのだろうとケイトは勝手に推測した。
猫はバッグの中でシャーシャーと威嚇している。男性より奥さんに懐いていそうだ。
ケイトは椅子から立ち上がって看護師を呼んだ。すぐに熟練の女性が来てくれる。
「バッグから出します。あなたは猫の頭の方にいてください」男性に言うと、ケイトは厚手の手袋をはめた。
威嚇している動物は危険なので、たとえ飼い主であっても噛んだり引っ掻いたりする。見知らぬ獣医ならなおさら警戒するので、十分に注意が必要だ。
「気を付けて」ケイトは男性と看護師に指示を出しながらバッグを開けた。
猫はバッグの中で体の形を失くすほどぺったんこに縮み、小さな牙をむき出しにして威嚇している。
ケイトは猫の頭と首元を押さえながらバッグの外に出した。猫はバタバタと暴れながら逃げようとする。看護師がお腹や後ろ足を押さえた。
猫がこの場に慣れるまで少しのあいだ診察台に押さえつける。やがて猫が低い声で唸りながら身動きを止めるとケイトは診察を始めた。体温を測ってから鼻を診る。他にも目や口の中、耳、皮膚、毛並み、体の触診と次々に素早く状態を確認した。
「はい。いいですよ。バッグに戻しましょう」ケイトは言った。
「痛っ!噛むなよ」バッグに戻している最中、猫が男性を噛んでしまったようだ。
「大丈夫ですか?」
「えぇ。血は出ていないので。すみませんね。家では大人しいんですけど」男性は困ったように笑った。
「猫はそういう子が多いですよ」ケイトは頷く。「風邪を引いていますね。この子は今朝、排泄をしましたか?」
「どうだったかな?今朝は僕が片付けたわけじゃないので、トイレを見ていなくて」男性は首を傾げた。「昨夜は普通でしたよ」
「そうですか。おうちの中で飼われていますよね?」
「えぇ。そうです。でもたまに散歩に連れて行きます。昨日の昼間は暖かかったでしょう?だから行きました」
「どこに行きました?」
「公園です。でもノースはずっとケビンが抱いていて、」
「ケビン?」ノースというのはこの猫の名前だ。
「僕の婚約者です。昨日はずっと彼が抱っこしていました。ベンチで休憩したときにノースを地面に降ろしましたけど、リードを付けていたので側にいました」
「わかりました」ケイトは内心気落ちした。
自分の推測が外れていたこともそうだが、カップルが暖かい日に動物を連れて散歩に行く、という幸せなシチュエーションを羨ましくも思ったのだ。
「他の動物に会ったりしましたか?」ケイトは質問を続けた。
「いいえ。ノースは他の動物が苦手なので近づいたりしません。…あ。でもすれ違った人とか、公園をランニングをしている人とかがノースを撫でることはありました。猫を飼っていると言った人もいたかな…?」男性は思い出すために斜め上を見た。
「そのときに貰ったのかもしれませんね。排泄の状態が普通ならば、お腹を壊したりしていないようですので、飲み薬を出しておきます。2,3日様子を見て、鼻水が収まらないようでしたらまた来てください。他にも何か症状が出ましたらすぐに来ていただくか、電話してください」
ケイトは処方箋を出して、薬について男性に詳しく説明した。
「わかりました。ありがとうございます」男性は安堵して微笑んだ。
「お大事に」ケイトも微笑み返して男性を見送った。
男性が診察室から出て行くと、ケイトはパソコンで記録を取った。
元夫のダニエルともこんな風に出会った。
彼の実家で飼っていた犬が出産したが、その子犬のうちの1匹が体調不良だった。そのためダニエルが当時ケイトが勤めていた動物病院にその子犬を連れてきたのがきっかけだった。
子犬の通院を重ねるにつれ2人は親密になった。
ケイトは話が合って愉快で優しいダニエルに惹かれた。
当時のダニエルには彼女がいたのだが、ある日ふと「シングルになった」というようなことを仄めかしたので、ケイトはここがチャンスだと思い交際に発展した。
ちなみに子犬はケイトの治療のおかげで元気になり、里親にも恵まれている。
交際は順調に進み、1年ほどで結婚。E地区にある可愛らしいアパートに引っ越して職場も変わった。そのさらに1年後には息子のオーウェンも生まれた。
ケイトはこのまま仕事と子育てをして、家族みんなで幸せに暮らしていくものだと安心していたのに、息子が3歳のときダニエルの浮気が発覚した。もうそろそろオーウェンに兄弟ができたらいいよね、なんて話をしていた矢先のことだった。
ダニエルの浮気相手はなんと元彼女だった。浮気を問い詰めると、ダニエルは元彼女のことを友達だと言って頑なに認めようとしなかった。それに加えて、元彼女とはしばらく会っていないし、もう連絡も取っていないとも言った。
ケイトは交際しているときからダニエルに少々の不満を抱えていた。
電話は絶対に見せてくれない。デートには遅れてくる。急に仕事が入ったと言ってドタキャンされたことも。記念日も忘れる。しかしそこは仕方ないと割り切った。これくらいで別れたりしない。
ケイトはダニエルより少し年上なので気持ちに余裕がある様に思われたかったし、なにより彼の一番のよき理解者となりたかった。
それにどのカップルもお互いに少々の不満くらいある。予定がかみ合わない時も、気持ちがすれ違うときもある。ケイトだって仕事上、休みがずれることがあった。
恋による盲目の魔法か、不安と向き合いたくないために目を反らしていたともいえるが、それらの不満を大袈裟に気にすることはしなかった。
そうして自分を納得させていたが、実はケイトには簡単に別れられない理由があった。
30歳を超えて、友人や同僚たちがどんどん結婚し母になっていく姿を目にして、焦りを感じていたのだ。
また誰かと新しく出会って、付き合って、結婚となると時間がかかる。だから簡単にダニエルと別れるわけにはいかなかった。
自分は仕事ができて自立している。今の世の中ひとりでも生きていける。このまま独りで生活していくことも出来ると思ったが、ケイトはやはりどうしても結婚して子供が欲しかった。
周りと同じようにパートナーがいて、子供を育てたかった。母親になりたかった。
そう望むのは悪いことではない。むしろ多数の人が自然とそうしている。ケイトもそうありたかった。だからダニエルの不満には目をつぶり結婚した。
それともうひとつ理由があった。ケイトは両親からのプレッシャーを強く感じていた。
ケイトは比較的厳しい家庭で育てられ、両親はちゃんと家庭を持つべきと考える人たちだった。
ケイトの3つ年下の妹エミリーは奔放な性格だったが、ケイトより先に結婚して子供を授かっている。それもプレッシャーを増幅させていた。
やっとケイトが結婚して子供を授かったことで両親は一安心しただろう。
だが結婚から4年経ち、離婚すると伝えると両親は当然のように怒って反対した。特に母は1度や2度の浮気くらい見逃してあげなさいよとケイトを窘めた。
ケイトだって我慢したり、見なかったことにしたり、話し合ってダニエルを許そうかと何度も考えた。
どこぞの見知らぬ女ならそうできたかもしれない。たった一度の過ちなら余裕を持てたかもしれない。けれど、相手は元彼女だ。到底許しがたく、我慢なんてできなかった。
ダニエルはなかなか整った顔立ちのかっこいい人だ。身長は170cm後半で、仕事も真面目にこなす。息子にとってもいい父親だった。
しかし浮気していると分かると、ケイトは急に彼が汚らわしく、醜く見えてしまった。
一度そうなるともうあとは悪い点ばかりが目立つ。他人にとっては気にならない彼の小さな癖にさえも、ケイトは苛立つようになった。
日に日にそれらの苛立ちが募り、仕事と子育てのストレスも重なって、ケイトは自分の両親とダニエルの両親、ダニエル自身の説得を耳に入れることなく離婚した。
独身に戻ったケイトに待っていた結果は良いと言えない。家も職場も変わり、息子のオーウェンとは離れ、休日にしか会えない。
周りの目も厳しかった。実家に帰るたびに両親から冷たい視線を感じてしまうので、オーウェンを連れて行く回数を減らし、1人で会いに行くこともなくなった。
オーウェンの通っている幼稚園には事情を説明してあっても、周りの保護者からは詮索されたり噂を立てられたりした。なにしろ家を出て行ったのはケイトの方だ。ケイトが何かやらかしたと思われている。
オーウェンにも辛い思いをさせていた。平日は父と過ごし、休日は母と過ごす生活になってしまった。両親が離婚したというのは理解しているだろう。そのときは3歳だったが、今は5歳。まだまだ小さい体なのに、大きなストレスとなっているはずだ。
「ケイト」エマが裏の引き戸から顔を出した。
「なに?」ケイトは現実に戻ってきた。
「ごめんだけど、往診が入っちゃってさ。この後の予約代わってくれない?」エマは手を合わせた。
「えぇ。いいわよ」ケイトは椅子に凭れた。
「ありがとう」
こうして他の獣医の予約を受けることはよくある。ケイトも昨日そうした。退勤時間が遅れても、どうせ家には誰もいない。すぐ帰る予定もない。
午後には自分の予約とエマの予約をこなしてこの日は仕事を終えた。