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Piece  作者: 香坂茉音
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1-1




  一目見た瞬間、この子はもう駄目だとケイトは悟った。後ろ足はあり得ない方向へ曲がり、裂けた腹部からは腸が飛び出している。出血多量で既に意識もない。


 「先生!どうかお願いします!この子を助けて!」高価な服やアクセサリーを血まみれにした40代後半くらいの女性が涙しながらケイトへ訴えた。


 「手は尽くしますので」ケイトは側にいた看護師に女性を外へ連れて行くよう指示した。


 女性と看護師が診察室の表の引き戸から出て行くと、ケイトは内線を使ってエマを呼んだ。


 「エマ!手を貸して!」と言いながら既に始めている止血に集中する。


 「どうした?」1分とかからずエマが診察室の裏の引き戸から顔を出した。


 エマはカーリーヘアを頭のてっぺんでお団子にし、黒ぶち眼鏡をかけている。これが彼女の仕事用の格好だった。背が高くてスタイルも良く、手足も長い。このマイルズ動物医療センターで獣医が着る深緑色のユニホームも彼女が着ると様になる。


エマはちょうど昼休憩中で、急いできてくれたために息を切らせていた。


 「女性が急に飛び込んできたの。この裏の通りでひき逃げ。散歩中にうっかりリードを手放したって」ケイトは処置を続けながら速やかに状況を伝えた。


「トイプードル。3歳。腹部裂傷。腸が出てる。他にも臓器損傷あり。左後ろ足骨折。出血過多。脈も確認できない。手術室の空きあるよね?」


 「うん。第2が空いてるけど、」エマはトイプードルを診た。「厳しいな」と小さく呟いて姿を消す。彼女も助かる見込みが少ないと考えたのだろう。


 応急処置を続けていると、何人か看護師が来てケイトを手伝った。そしてエマも手術室の準備をして戻ってきた。


 トイプードルを第2手術室へ移動させて治療を続ける。ケイトもエマも今日は他に診察の予約が入っているのだが、全て他の獣医や看護師に回すことになった。


  2時間近く手術室にこもった。しかしどれだけ手を尽くしても、このトイプードルを助けることはできなかった。


 「これ以上は無理ね」ケイトはため息をついた。「さっきの女性を私の診察室に呼んでくれる?」と若い看護師に言う。


 エマも深いため息をついた。「本当にごめんなさい」とトイプードルに伝える。


 「ごめんねエマ。休憩中だったのに」


 「いいよ」エマは疲れた笑顔を見せた。


 2人とも気が重くなるのは同じだ。動物だろうと人だろうと、なんだっていつだって命の終わりを目にするのは辛い。


 それにこの後のことも辛かった。命の終わりを告げなくてはいけない。


 ケイトは手術着や手袋などを外してから手を洗った。1日に何度も洗うので手は常に乾燥している。


 使い捨ての紙で手の水分を拭ったあと、あかぎれやひび割れを起こさないよう動物にも優しいハンドクリームを使った。それでもカサカサしているのはどうしようもない。この仕事をしている以上、当たり前のことだった。


 ケイトは診察室の裏引き戸の前に立つと深呼吸してから中に入った。先ほどの女性が椅子に座ってハンカチで目を押さえている。服にはまだあの子の乾いた血が付いていた。


女性の隣には夫だろうか、スーツを着た恰幅のいい男性が立っていた。


 ピリッとした空気を肌に感じながら、ケイトは自分の椅子に座る。


 「誠に申し訳ありません。残念ながら、」話し始めると、女性が大声で泣き始めた。


 ケイトの気も重くなる。獣医として一番厳しい瞬間だ。


 新人のとき、ケイトもこうした場面で飼い主と一緒に悲しんで涙し、酷く落ち込んだりしていたが、経験を重ねるにつれそういった感情表現はしなくなった。


 ケイトは女性が落ち着くまで時間を置くことにした。この人は気持ちがあらぶってはいるが、暴言を吐くタイプではないと判断する。


 たまにあることなのだが、この女性のように気持ちが昂っている時に説明を行うと勘違いが起きる場合がある。


それに、「治療が遅かった」「処置が悪かった」「もっと色々できただろう」「ヤブ医者」と言ってくる人がいる。大抵は高揚した気持ちのまま発言をするので、まずは落ち着かせることが大事だった。


 大切な家族を失って失望する気持ちは理解できる。ケイトも子供の頃に犬を飼っていて亡くした経験があった。雑種の大型犬。両親が子供の教育のためとして飼い始めたのだが、すぐに大事な家族の一員となった。


 しばらくして落ち着きを取り戻した女性に、ケイトはトイプードルの状態や手術の内容を丁寧に伝え、この後の行動や手続きも説明した。


 女性は聞いているのかいないのか、放心状態だったので、ケイトは夫の方にも確認を取った。今回はひき逃げなので警察沙汰にもなるだろう。


 確認が終わると女性がぽつりぽつりと話し始めた。


 「先生。あの子はね、私の子供たちが誕生日にプレゼントしてくれたの。前に飼っていた子が亡くなって、私が落ち込んでいるからって…。うちに来てくれた時はまだ手の中に収まるくらいちっちゃな赤ちゃんだったのに…」


 ケイトは何度も頷いて話を聞いた。ペットロスにより精神や体調を崩す人がいる。そういった人たちのケアも必要だ。このセンターはそのための専門医とも繋がりがあるのでこの女性にも勧めておこう。


 女性の話が終わるとケイトはやんわりと帰るように勧めた。トイプードルは今日こちらが預かるので明日引き取りに来てくださいと言うと、女性は肩を落としながら夫と共に診察室を出て行った。


 ケイトは診察室にあるパソコンで諸々の処置や手続きを済ませた。人間と同じように診察記録や診断書を残しておく。


それらが終わり、事務室で退勤記録を残したあと更衣室に入ったのが午後7時だった。2時間オーバー。今日は水曜日。平日で良かった。


 「お疲れ様」エマが来た。


 「お疲れ。もう上がるの?」ケイトはユニホームから私服に着替えたところだった。


 「そう」エマは自分のロッカーを開ける。


 「さっきあの女性から聞いたんだけど、いつもは行きつけの動物病院があるんですって。うちに来たのは初めて。今日はたまたま散歩の道を変えたようで、あの子も少し興奮して走りだしちゃったのかもしれないわ。大丈夫かしら?」


 ケイトの言う、大丈夫かしら?には色んな意味が含まれている。あとで苦情を言われたり訴えられたりしないか。


 「大丈夫。旦那さんもいたし、うちで出来ることはやった」エマは意味を理解してケイトを励ました。


 「そうよね…。それじゃ、また明日」小さくため息をつくと、ロッカーから仕事用の大きな鞄を取り出した。


 「またね」エマは微笑むと着替え始めた。


 更衣室を出て廊下を進み、センターの裏にある従業員用の出入り口に着くと、持っているIDカードを機械にかざして扉を解錠し外に出た。


 3月も中旬になり、昼間は暖かい日が増えたが夜はまだ寒さが残る。冷たい風を感じながらケイトは大きな鞄を肩にかけ直して歩き出した。


  ケイトの暮らしている州はAからEまで地区がある。ここはD地区で、地区の中心部からは少し離れたところにあるマイルズ動物医療センターだ。


 建物は2階建てで、1階には診察室が6つ。手術室が3つ。事務室と更衣室がある。もちろん駐車場も。2階にはスタッフルーム。仮眠室。動物用病室など。


 従業員は日勤、準夜勤、夜勤の三交代制だが非常勤の人もいる。獣医、看護師、看護助手、事務員、清掃員、獣医学生、看護学生など60人ほどがこのセンターで働いていた。


 診察は午前9時から12時。午後は2時から8時まで。夜間診察は行っていないが、入院している動物に対応するため24時間センターには獣医や看護師がいる。


 ケイトはきっちり午前9時から午後5時までの日勤で働いているが、今日のように退勤が伸びることや準夜勤の人と交代することがたまにあった。


  センターから歩いて15分のところにケイトの自宅がある。車を使うほどの距離ではない。そもそも免許はあるが車がない。自転車を使うことも考えたがあまり上手く乗りこなせないので、運動不足も気にして歩いて出退勤していた。


 帰り道の途中にあるスーパーで今晩の夕食を確保したあと自宅に着いた。


築30年ほどの6階建てアパート。その2階にケイトの部屋がある。間取りはふたつの寝室とひとつのバスルーム。リビングとダイニングが続いている造りだ。


  ケイトは生まれも育ちもずっとE地区だった。結婚も出産も離婚も全てそこで行ってきた。離婚して2年になる。もともと住んでいた家には今も元夫のダニエルと息子のオーウェンが住んでいる。息子は平日を元夫と過ごし、休日はケイトと過ごすことになっていた。


 浮気したのはダニエルの方なのに、と悔しい思いをしながらこのアパートに移った。そして今のセンターに勤め始めた。以前の職場でもうまくやっていけてたのに離婚のせいで全てが崩れた。今の職場が悪いわけではないが、またイチからスタートすることには苦労した。


 寂しくないと言えば嘘になる。先週の38歳の誕生日は平日だったので仕事をしながら1人で過ごした。両親や友人からメールや電話はもらえたものの、毎年特別な日ではなくなっていく。


 しかしそれにも慣れた。このさき新たな出会いがあるとも思えないし、仕事で日々忙しくして、週末は愛息子に会うというのを繰り返すだけ。


  ケイトはさっとシャワーを浴びてから、買ってきた夕食を温めて食べた。その後バスルームでまだ濡れているミディアムヘアをドライヤーで乾かす。


本来のケイトの髪は濃い茶色なのだが、数年前から暗いブロンドに染めていた。しかし最近は美容院へ行けていないので、根元は元の色が目立つ。白いものも何本かあるが見ないようにしていた。


 スキンケアもちゃんと行う。10代や20代の肌とは違い、今はうっかり放っておくと大変なことになる年齢だ。


 歯を磨いてからケイトはベッドへ飛び込んだ。大きなため息をついて疲れを逃がす。体の節々が痛み、筋肉が溶けて体外へ流れて行きそうなほど今日は体力を消耗した。


 すぐにでも眠れそうだったが、ケイトはなんとか手を伸ばしてベッドサイドにある個人用の携帯電話を取ると、アラームを設定してから意識を手放した。


 



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