異譚8 原始獣人
滑り込みセーフ……のはず。
異譚は入る者を拒まず、出る者も追わない。ゆえに出入り自由だけれど、入った直後に異譚の世界の法則が適用される。
常人であればその法則に則ってしまうけれど、魔法少女には異譚の法則への耐性がある。
「げぇっ!? くっさぁっ!?」
が、異譚の法則以外の要因に関しての耐性は人それぞれだ。
五人が異譚に入った直後、じっとりとまとわりつくように鼻孔を侵す生臭さ。
漁港であるがゆえに磯臭さはあるとは分かっていたけれど、この匂いはそれ以上だ。
鼻を抑える魔法少女達。特に、瑠奈莉愛は狼の魔法少女だ。他の者より鼻が効く分、より辛いだろう。
「な、なんッスかこの匂い……っ」
涙目になりながら鼻を抑える瑠奈莉愛。
「磯臭さに魚の生臭さ……その中に微かに腐臭が混じってるって感じね……」
鼻を抑えながらも冷静に分析をする白奈に、朱里が涙目になりながら返す。
「冷静に分析しなくて良いわよ! うぅ……鼻が曲がりそう……」
「鼻は曲がらないよ。鼻はね、伸びるものさ。キヒヒ」
朱里の言葉に、この場に居ないはずの者が言葉を返す。
みのりと反対側の肩にいつの間にか乗っていた毛深い生物――チェシャ猫がにんまり三日月のお口がついた顔を朱里に向ける。
「アンタいつの間に来てたのよ」
「ついさっきさ。パソコンでゲームをやってたら、遅くなったんだ。キヒヒ」
「猫がゲームって……」
「猫だってゲームするとも。猫はマインスイーパーとか好きさ。キヒヒ」
いつもなら連絡があれば直ぐにアリスの元へとやってくるチェシャ猫だったけれど、今日はアリスが入れてくれたフリーゲームをやっていたので反応が遅れてしまった。
どうにも、チェシャ猫はゲームに熱中する癖があるらしく、たびたび遅れてやってくる事がある。まあ、チェシャ猫に戦闘能力は無いので、居ても居なくても支障は出ないのだけれども。
「ちょ、ちょっと! アリスの肩は私の特等席なんだよ! お、降りなさい!」
みのりがアリスの髪の毛の隙間から苦言を呈すれば、チェシャ猫はぐりんっと柔らかく首を曲げてみのりを見る。
「おや美味しそうなネズミだ。アリス、齧っても良いかい? キヒヒ」
ぎらりとチェシャ猫のぎざぎざの歯が光る。
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃ……っ!!」
怯えてアリスの服の中に逃げようとするみのりを引っ掴んで、アリスが迷惑そうにチェシャ猫に言う。
「ダメに決まってるでしょ。サンベリーナ。肩に居ても良いけど、それ以外の場所に入ったら怒るから」
釘を刺すように言って、アリスはみのり――サンベリーナを肩に戻す。
「全員、集中して。もう異譚の中だって事忘れないで」
「はぁ? 集中しまくりですけどー? 入ってからずーっとこっち見てる視線にも気付いてますけどー?」
朱里――ロデスコの言う通り、異譚に入ってから五人を観察するような視線があちこちから散見されている。
建物の中。物陰。そこかしこから、何者かが五人を観察している。
ケロケロ、ペタペタと、こちらを観察しながら喋っている。
「――っ」
ようやく気付いたのか、瑠奈莉愛――ヴォルフが怯えた様子で尻尾の毛を逆立てる。
ロデスコはコツコツとヒールで地面を蹴り付ける。
「どーする? 多分異譚生命体よね?」
「住民が変貌しただけかもしれないわ。様子を見ましょう」
「核を倒せば全部終わる。雑魚に構う必要は無い」
言って、アリスは勝手に歩き出す。
「こっちはその雑魚すら命取りなんだっての! ったく、これだから英雄様は……ってか、アンタ臭く無いの?」
「臭くない」
「あ、た、確かに、臭くない……。アリスの蜜よりも甘い香りしかしない……」
今更気付いたのか、サンベリーナがくんくんと周囲の匂いを嗅いで絶妙に気持ち悪い感想を述べる。
その感想を聞いて、アリスは嫌そうな顔をする。
アリスはサンベリーナを摘まんで持ち上げ、ヴォルフへと投げる。
「わ、わわっ!?」
「あ、アリスぅ!?」
慌ててサンベリーナをキャッチするヴォルフと、アリスに投げられてショックを受けるサンベリーナ。
「サンベリーナはサポート系の魔法少女。持ち運びも楽だから貴女が持ってて」
「そ、そんなぁ……!! わたし、アリスと一緒が良いよぅ!!」
ヴォルフの手の上でアリスに手を伸ばすサンベリーナに、アリスはすっぱりと冷たく言う。
「嫌」
「しょ、しょんにゃぁ……!!」
だばだばと滝のように涙を流すサンベリーナに、ヴォルフはどうして良いのか分からずおろおろとする。
「今のはアンタが悪いわね。セクハラよ、セクハラ」
ばっさりと切り捨ててロデスコはアリスの後を追う。
「さ、私達も行きましょう」
「あ、あの……指出せんぱ……サンベリーナさんはどうしたら……」
「肩にでも乗せてあげなさい。こんなんだけど、実力は本物だから。サンベリーナ。下がった評価を上げたかったら仕事で取り返す事ね」
白奈――スノーホワイトはヴォルフと共にアリスの後を追う。
ヴォルフはサンベリーナを自身の肩に移動させつつ、周囲を警戒する。
「……そこかしこに居るッスね……」
「そうね。でも、まだ敵意は無さそうよ」
「そうでもないみたい」
スノーホワイトの言葉を、アリスが即座に否定する。
直後、物陰から何者かが飛び出してくる。
人間には出せない異常な速度でアリスに迫る。
「アリス!!」
即座にスノーホワイトがアリスの前に躍り出る。
迫る敵性生物にスノーホワイトは容赦無く魔法を浴びせる。
手を振るだけで氷を生み出し、飛来した敵性生物を一瞬で氷漬けにしてしまう。
氷の刺で串刺しにした方が確実なのだけれど、それだと相手を観察する事が出来ない。氷漬けが一番相手の外見をそこなわないまま倒すことが出来る方法なのだ。
しかして、急襲をしてきたのは一体だけでは無かった。
氷漬けにされた個体を避けるように二体の敵性生物が迫る。
スノーホワイトが冷静に仕留めようとしたその直後、何処からともなく飛来した大剣が二体の敵性生物を貫く。
意識の外からの攻撃に敵性生物は反応する事が出来ずにそのまま絶命する。
「ありがとう、アリス」
「別に」
お礼を言われたアリスは特に照れた様子も無く、素っ気なく言葉を返す。
「出番ナシ! ま、有象無象の相手なんて面倒だから良いけど」
「う、うぅ……び、ビビったッス……!!」
「だ、大丈夫だよ。アリスとわたしが付いてるからね!」
怯えて尻尾を丸めて股に挟んでいるヴォルフをサンベリーナが慰める。アリスの傍に居られない事がショックではあるけれど、仕事で失った評価を取り戻そうと頑張っている。今の攻防でも、サンベリーナは全員に対物理軽減魔法をかけていた。
後ろの三人を気にする事も無く、アリスは氷漬けになった敵性生物を見やる。
氷漬けになっているのは見た事も無い奇怪な生物。
全身が長い毛に覆われ、手足には長く鋭い黒ずんだ鉤爪が付いている。上背は高く、五人の中で一番身長の高いヴォルフを軽々と超える程の高さがある。
ヤニ色の眼は毛に隠れ、口は目元まで裂けていると思ってしまう程の大きさだ。
現実の世界では見た事が無い生物だけれど、異譚では犬や猫も奇怪な生物に成り代わる。が、それでも犬猫の形を逸脱はしない。
「チェシャ猫。これ、分かる?」
「原始獣人だね。種類は分からないよ。キヒヒ」
「原始獣人? なにそれ?」
「知能の低い獣人さ。野性的で粗暴。凶悪凶暴な獣性を強く持つ人紛いさ。キヒヒ」
「つまり、異譚生命体って事で良いの?」
「キヒヒ。そうだね」
「んじゃ、倒しても問題無いわね。凶悪凶暴って事だし」
「現に襲われたものね。降りかかる火の粉は払わないとね」
毛むくじゃらの生物――原始獣人から視線を外し、アリスは周囲に意識を向ける。
原始的で凶悪凶暴という割に、五人を監視している者達には見向きもしなかった。
つまり、仲間意識や襲ってはいけない相手の分別は付いているという事になる。
彼等にも分別があったのか、あるいは誰かの入れ知恵か。
「行こう」
氷漬けになった原始獣人を破壊し、アリスは歩き出す。
どちらにしろ、警戒するに越した事は無い。異譚では何が起きたって不思議では無いのだから。