異譚50 天使
限界を迎えて倒れていても意識は残っていた。
だから、ずっと聞こえてきている。わんわん泣き喚くシュティーフェルの声が。
耳に痛いくらい、ずっと聞こえてくる。
「う、るさ……っ」
起き上がろうと四肢に力を込めるけれど、立ち上がる事が出来ない。それどころか、体を起こす事すら困難だった。
けれど、イェーガーは諦めずに立ち上がろうとする。
シュティーフェルが泣いているのは、自分がへまをしたからだ。
自分がもっと上手くやっていれば、自分があの時銀の弾列を命中させていれば、自分が空間爆発前に異譚支配者を倒せていれば、こんな事にはならなかった。
アシェンプテルを庇ったのもそうだ。アリスやスノーホワイトのように防御が得意な能力ではないのに前にしゃしゃり出た。冷静に考えれば、アシェンプテルが灰被りの城を使うのだから庇う必要など無かったはずだ。
アシェンプテルが重傷で動けなくなるよりも、アタッカーであるイェーガーが万全の態勢であった方が最善だった。
銀の弾列を撃った時もそうだ。焦りから銃身が少しぶれた。外した理由はそれだけでは無いけれど、焦ったのは事実だ。
巻き返さなければ。これは、他の誰でも無い、イェーガーの失態なのだから。
「こな、クソ……ッ!!」
立ち上がろうと体中に力を込めるイェーガー。その頭を、誰かが優しく撫でた。
「――っ!?」
「大丈夫。後は私達に任せて」
随分と聞き覚えのある声。けれど、この場に居るはずの無い者の声。
ゆっくりと、イェーガーは顔を上げる。
そこには、白黒の世界の中でも美しく輝く少女が居た。
自分が地面に這いつくばって、少女が優しく頭を撫でる。その光景には既視感が在り、忘れられない思い出が在った。
必然的に、イェーガーはあの日の事を思い出す。
希望に出会ったあの日。憧れに出会ったあの日。英雄に出会ったあの日――
「ア、リス……」
――天使に出会った、あの日の事を。
珠緒の幼少期は悲惨なものだった。
両親は珠緒を残して蒸発。珠緒に帰る家は無く、頼れる保護者も居なかった。
ろくにご飯を食べる事が出来ず、安心して眠れる場所も無い。当然学校にも通っておらず、友達と呼べる存在も居なかった。
生きるために何でもした。物を盗み、お金を盗み、ごみを漁った。他人に暴力も振るったし、怪我をさせた事も在った。
そうしなければ生きていけなかった。
夏は暑かった。熱中症で倒れた時には死ぬかと思った。
冬は寒かった。段ボールをだけで寒さをしのぐには限界があった。
食べ物が無い時は虫を食べた。誰かの食べ残しも構わず食べた。
娯楽なんて何も無い。生きるために必死の毎日だった。
普通の服を着ている人が羨ましかった。きっと彼等にとっては何でもない服でも、ぼろ布を纏ったような少女にはただの歩道がランウェイに見える程だった。
他人と自分の違いを見て、嫌になるくらいに惨めになった。笑われるのが怖かった。奇異の目で見られるのが怖かった。他人の目は、嫌になる程怖かった。
大通りを歩く勇気は無かった。いつもひっそりと裏路地を歩いていた。
日陰を這う生活をしていた。
自分の歳なんて憶えていなかった。その当時、自分が十二だと後から知った。
十二の頃、異譚に巻き込まれた。
いつも独りだった少女は集団の方に行けなくて、そもそもどこに逃げれば良いのかも分からなくて。結局、頑張って逃げようとはしたけれど、異譚生命体に成りかけたまま力尽きて倒れてしまった。
自分はこのまま死んでいくのだと悟った。惨めなまま、地面を這いつくばって、誰でも無い死体として処理される。
悔しくて、悲しくて、苦しくて。珠緒は泣きながら地面を這いつくばる。
そんな珠緒の頭に、不意に優しく手が乗せられる。
驚きと困惑の中、ゆっくりと顔を上げる。
「……ぁ」
その姿を見た時、珠緒は思わず感嘆の声を漏らした。
街で見た汚い偽物とは違う、美しい金の髪。ビー玉のように綺麗な青い瞳。誰よりも綺麗な顔。
学の無い貧困な語彙では表せない程に綺麗な少女。
率直に、天使だと思った。こんなに綺麗な人が天使で無い訳がない。
「大丈夫。もう安心して」
かけられる優しい言葉。
ゆっくり、優しく、天使は珠緒を抱き上げる。
天使は珠緒に負担をかけないようにゆっくり歩く。その間に、天使を見付けて異譚生命体が襲い掛かる。
が、少女は動揺も焦燥も無く、ただ淡々と空中に剣を生成して次々と異譚生命体を串刺しにする。
「天、使……」
あまりに強く、あまりに美しい少女を見て、珠緒が思わずそう漏らす。
そんな珠緒を見て、天使は薄く笑みを浮かべた。
その笑みを見た時、自分が羨み妬んだ全てがどうでも良くなった。例え目があっても誰も笑みを向けてはくれなかった。珠緒が視界に入っていたとしても、誰も珠緒を見てくれていなかった。
ごみ溜めの少女に、天使が初めて笑みを向けてくれたのだ。初めて自分を認めてくれたのだ。
ああ、この人に全部上げよう。全部捧げよう。天使様の力になろう。
まるで天啓のように、珠緒はそう思ったのだ。
アリスは、倒れるイェーガーの身体を抱き上げる。
泣き喚くシュティーフェルを視界に入れ、そして――
「……っ」
――亡骸となった美奈を視界に収める。
哀しみ、後悔、怒り。複雑な感情がアリスの中で渦巻く。
けれど、一番は哀しみだろう。手を尽くしたはずなのに、結局護り切れなかった。アリスは、また失ったのだ。いや、手なんて尽くしてない。アリスは現状に妥協しただけだ。
一度瞑目した後、全ての感情を無理やり押し込んで、トランプの兵隊と、花が一杯敷き詰められた棺桶を生み出す。
トランプの兵隊が優しく、美奈の亡骸を棺桶に収める。
そして、ゆっくりと棺桶を引いていく。車輪の付いた棺桶は、ゆっくりと異譚を進む。
一人のトランプの兵隊が泣いているシュティーフェルの手を引いて棺桶の後ろを歩く。シュティーフェルは泣く事に夢中でアリスが来た事を呆然としか理解していない。
何故此処に居るのかなどさほど疑問にも思わず、トランプの兵隊に連れられて異譚を歩く。
「どうして……」
しかし、イェーガーは違う。
イェーガーははっきりとアリスの存在を認識している。
だからこそ、疑問なのだ。
アリスは今回はカフェテリアで待機だったはずだ。ロデスコが後詰めでいる以上、アリスを導入する必要は無い。
アリスも沙友里の言葉には従うし、規律を破るような事はしない。
そんなアリスが、どうして此処に居るのかが不思議でしょうがなかった。
イェーガーの問いに、アリスは静かに答える。
「通信が途絶したから、私が来た。戦闘ではなく、避難誘導という事で納得してもらった」
アリスの言葉の直後、十本の剣が生成される。その十本全てが特別な形をしており、イェーガーはその剣の事を良く理解していた。
「致命の剣列展開」
アリスの言葉を受け、致命の剣列が扇状に整列する。
「射出」
合図の直後、十本の剣が瞬く間に空を駆ける。
数秒後、十本の剣は狙い違わず脱出地点の境界を破壊する。
ロデスコが一ヵ所ずつ行っていた脱出を、アリスは十ヵ所同時に行ったのだ。
そして、境界が破壊された直後、深紅の炎が高速で空を駆けるのが見えた。
その炎を見て憎らしさを覚えながらも、アリスが来た事に安堵してしまったイェーガーは限界だった意識を手放した。




